『現代のバベル症候群』―― インターネットという迷宮にて
バベルの塔が、言語の錯綜によって崩壊したという神話がある。なるほど神の裁きは象徴的である。しかし現代においては、その塔は再び建てられた。レンガではなく、回線とコードによって。言語の混乱ではなく、情報の過剰供給という形をとって。
この新しい塔の名は「インターネット」という。
ここではもはや、言葉は意味のために存在しているのではない。拡散するために存在している。情報の価値は、内容の真偽ではなく、再生数やクリック数によって決定される。そこには、意味ではなく、動作としての言語しか存在しない。
我々は今、奇妙な図書館の中にいる。
この図書館には、知のすべてがある。だが、その知は分類されず、検証されず、文脈から切り離され、単なる「ノード」として空間に浮遊している。まさにボルヘスが描いた「バベルの図書館」の再現である。ただし、かつてと違うのは、我々が自らその図書館を建て、そこに自分自身を幽閉したという点である。
この図書館には、扉がない。否、扉はあるのだが、それがどこに通じているかが分からない。クリックすればどこかへは行ける。だがその「どこか」は、必ずしも現実ではない。情報は扉のように見せかけながら、読者を同じ場所に留め置くトリックでしかない。空間を移動したつもりが、ただ回路の中で自転しているだけなのだ。
かつて小説とは、意味を剥がされた現実の皮膜の下に、もうひとつの現実を捏造する作業だった。しかしいまや現実そのものがフィクションに接続されている。虚構と現実の境界は、もはや倫理や真実ではなく、速度と繰り返しによって定義されている。
この新しい塔に登った者たちは、天に至るどころか、自分の居場所すら見失う。情報は照明のようでありながら、視界を奪う。光量が多すぎて、形が分からない。意味が多すぎて、意味が分からない。
人間は、本来、空白に意味を書き込む存在だった。だが今では、すべてが既に書かれているかのような錯覚の中で、誰も書こうとしない。そこに書かれているのは、誰の言葉でもない。アルゴリズムの統計的模倣にすぎない。
私は思う。
今必要なのは、塔を登ることではない。降りることでもない。塔の中に、ひとつの空白を見つけることだ。そこに、まだ何も書かれていないページを見出し、意味のない言葉ではなく、言葉にならない沈黙から、ようやく言葉を始めることだ。
それが、いま書かれるべき「文学」である。




