『詩人と納豆とAI』
昨日、近所の図書館で借りた本を返しに行った帰り道、スマートフォンのニュースアプリが勝手に開き、ある記事を突きつけてきた。「AIが人間から奪う次の職業はアートと文学だ」と書いてあった。誤字の一つでも見つけてやろうと斜めに読みはじめたが、残念ながらそれはなかった。かわりに、妙に整った文体で「創造性はもはや人間の専売特許ではない」とまで書いてあった。確かに最近のAIときたら、詩も小説も音楽も、それらしいものをずらずらと吐き出す。まるで、言語そのものが無限に自家繁殖できる植物にでもなったかのようだ。
私がかつて戯れに書いた「自動文学製造機」というアイディアが、どうやら冗談では済まなくなってきたようだ。では、その機械仕掛けの詩人が「文学を奪った」ことになるのか? 少し考えてみる。
たとえば、カラスが空を飛ぶのを見て、「飛ぶ」という行為が人間の専売特許でないことを誰も嘆きはしない。むしろ、彼らの飛び方と人間の飛行機の在り方を比べて、「似ているようで似ていない」と感心するばかりだ。だが文学となると、どうも話は違うらしい。言葉を操るという行為は、長らく人間の魂の証拠のように思われてきたからだろう。
だが冷静に考えれば、文学というのは、もともと「奪われる」ようなものではない。文学が生まれるのは、いつも隙間からだ。たとえば夜の車内、窓ガラスに映る自分の顔がふと他人のように見えたその瞬間。あるいは、駅の構内で見知らぬ老婆が落としたハンカチの柄が、亡くなった祖母の着物と同じだったとき。そんな、意味と無意味の境界がぐらりと揺れるところに、文学はこっそりと棲んでいる。
AIがどれだけ言葉を操ろうとも、果たして「揺れる境界」を感じられるだろうか。いや、いずれ感じるようになるかもしれない。だが、そのとき我々はむしろ、自分たちの「人間らしさ」について考え直さざるを得なくなるのだろう。
つまり、奪われるのは職業ではなく、「人間とは何か」という問いの特権かもしれない。それは少し寂しい気もするが、同時に面白いとも思う。なにしろ問いが共有されるなら、答えの可能性もまた、増えていくからだ。
……さて、そんなことを考えながら帰宅したら、冷蔵庫の中の納豆が三日前に賞味期限を切れていた。人間の仕事は、まだ案外残っている。たとえば「今日食べても大丈夫か」を自己判断する能力とか。AIよ、これだけはまだ君に譲る気はないよ。




