『照明装置としての栄光――懐中電灯と影の倫理』
ノーベル文学賞というものがある。
一種の文学的オリンピックみたいなものだが、競技のトラックもなければゴールテープもない。にもかかわらず、勝者は出る。評価の軸が空中にぶら下がっているのに、重力はちゃんと働いているというわけだ。
もちろん受賞すれば光栄なのだろう。だが、光栄というのもまた、他人の照明装置に照らされることを指すならば、けっして自前の太陽とは言えない。作家というのは、本来、懐中電灯を逆向きに持って、自分の影を観察するような存在だ。影が深ければ深いほど、文学としての密度も上がる。
賞というものには、不可避的に物語がつきまとう。
「なぜその人が選ばれたのか」「なぜ今なのか」
しかし、そうした因果律の物語は、文学が本当に取り扱うべき無因果の領域――偶然、矛盾、夢、錯誤――を薄めてしまう。
わたしが受賞したら? もちろん、出席する。式の壇上でポケットから砂を取り出し、それを壇上に撒くだろう。理由は訊かないでほしい。理由があるとすれば、それは文学的なものではない。砂は、ただ撒かれるためにあるのだ。




