『無風地帯──SNSと 空白 の蒸発』
かつて、世界には「風」が吹いていた。
喫茶店の窓際で一人きりになったときに吹き抜ける思索の風、誰からも連絡の来ない夜にふいに心を揺らす孤独の風。そういう風の通り道が、社会にはちゃんと存在していた。
しかし、SNSがその気流を止めた。
この世界に「無風地帯」ができたのだ。
投稿ボタンひとつで沈黙が破れる。誰かの写真、誰かの発言、誰かの昼食、誰かの愛猫。沈黙の中に耳を澄ます前に、こちらの沈黙は誰かの発言によって上書きされてしまう。空白とは、誰のものでもない「共有されない時間」のことだった。それが、他者の視線に晒された瞬間、「空白の演出」に変わる。
たとえば「今日は何もしなかった」という発言でさえ、もはやパフォーマンスだ。
「何もしないことをしていた」と言わんばかりに、それはタイムラインというステージに持ち出される。沈黙の中で思索が熟成する時間は、晒された時点で発酵を止める。
思索とは、言語の発芽前の湿った時間である。
その時間がない。なぜなら、我々はいつも「即レス」を求められているからだ。心が何かを感じる前に、感じたことを言語化し、共有し、誰かの「いいね」で承認を得なければ、不安になってしまう。まるで、内側で風が吹くよりも前に、外側の空調を探しているようなものだ。
つまり、我々は風を見失った。
あらゆるものが風通しよく「つながって」いるのに、風はどこにも吹いていない。ここには、風のない風景だけが残った。
無風地帯とは、空白が蒸発した場所である。
そこでは、人々が「空白のふりをした充実」に疲れ果て、ほんの数分の沈黙すら「何か言わなければ」とかき消してしまう。
私は沈黙の味方でありたい。
発言の自由よりも、沈黙の自由を守ることの方が、よほど未来的な営みなのではないか──と、誰にも共有せずに、密かにそう考えている。




