『記憶媒体の海』
記憶というものは、もともと曖昧なものだったはずだ。だが、曖昧さが当たり前だった時代は、もう過去のものになってしまったらしい。
今や人間の記憶は、頭の中にあるよりもスマホの中に、SNSのアーカイブの中に、あるいはクラウドの雲の上に多く保存されている。写真も、音声も、文字も、住所も、連絡先も、すべてが「記録」され、保存された瞬間に、安心したような気分になる。あたかもそれが、記憶そのものの保存だと信じて。
だが、その記憶媒体の海は、思ったよりも浅く、そして波が高い。数年前の思い出を探そうとすると、フォルダの名前が変わっている。バックアップの自動保存が上書きされ、写真の順番が狂っている。SNSの規約変更で削除された投稿が、タイムラインの抜け殻となって、ぽっかりと空白を残している。記憶は保存されたつもりで、保存されていなかった。記憶は「消された」のではなく、「消えた」のである。
もしかすると、記憶の精度を機械に預けたことで、かえって人間の記憶は壊れやすくなったのかもしれない。「覚えておかなくていい」と思った瞬間から、頭の中の記憶は溶け出し、デジタルの海に投げ込まれ、そして潮流の中で紛失する。
記憶の喪失は、かつては病の名前だった。
いまやそれは、生活様式のひとつである。
人類はいつの間にか、忘れるという行為に自覚を失い、「保存された記憶」の神話を信仰しながら、日々の断片を流し続けている。記憶を保存するたびに、記憶は失われていく――そんな皮肉にも気づかずに。
保存とは、消失の一形態である。
この事実に気づく日は、たぶん、端末の寿命が訪れる日と重なるのだろう。




