『知の自動販売機──検索する指先と沈黙する脳』
知識とは本来、時間が発酵させる発熱体であった。だが、現代においてそれは冷蔵されたペットボトルのようなものでしかない。
検索エンジンに質問を投げかければ、冷たく整えられた「正解の候補」がずらりと並ぶ。まるで自動販売機のように。コイン一枚──いや、キーワード一つで知が落ちてくる。何の苦味も、迷いも、矛盾もない。ちょうどいい温度で、ちょうどいい量で、しかも「関連商品はこちら」ときたものだ。
かつて人間は、わからないこととしばらく一緒に寝起きした。書棚を漁り、知っていそうな誰かに尋ね、考えて、迷って、時には放棄した。それが「知る」という行為だった。答えが出なくとも、問いと共に過ごした時間の中で、脳は熱を帯びていた。
だが今や、問いが発生した瞬間に指先が動く。
考えるよりも早く、検索してしまう。
まるで問いの存在そのものが「不安」として扱われているようだ。問いとは、即時に取り除かれるべきノイズとなり、答えの整形前に脳がシャットダウンしてしまう。
検索という行為は、知への接近ではなく、思考からの避難ではないのか。
私たちは今、「知識を得た」という錯覚に安住している。だが実のところ、知識はただ「入れ替わった」だけだ。以前は脳の中にあった知が、今はブラウザの中にある。だから私たちの脳は、使われることなく沈黙している。
そして沈黙の続いた脳は、次第に「問い」を生む力そのものを失っていく。自ら問いを立てるより、既製の質問を選び、既製の回答を浴びて、安心するようになる。まるで、質問ごとレンジで温められた弁当のように。
やがて人間は、自分自身の無知に対してすら無関心になる。なぜなら、それを検索しようとすら思い出せないからだ。
知がペットボトル化したとき、私たちは「渇き」と「喉越し」だけを残し、「考えること」を、まるで賞味期限切れの缶詰のように、棚の奥にしまい込んでしまったのかもしれない。




