『地図にない足跡』
東京駅の地下を歩くたびに、自分が自分ではないような気がしてくる。改札をくぐったとき、僕は確かに僕だったはずなのに、パン屋を三軒ほど通り過ぎた頃には、すっかり別の誰かになっている。
同じような看板、同じようなタイル、同じような人波。人間の顔も、服も、表情までもが、次第にパターン化されて見えてくる。地下街は、歩行者の個性を上から薄く撫でて剥がしていく装置だ。そのうち、すれ違った自分と鉢合わせるのではないかと不安になる。
ふと立ち止まると、近くの案内図には「現在地」と赤い点が打たれている。だが、その点はどうやら僕のことを指してはいない。あれは、単に誰かの「現在地」の型抜きだ。人間の居場所など、最初からあやふやなものだと、地下街はよく知っている。
エスカレーターを昇れば地上だが、昇ってしまえば地下は見えなくなる。それは、まるで「自分」がどこかに置き忘れてきた感覚に似ている。地上の光を浴びたとき、僕はまた「僕だった誰か」に戻る。地下に潜るたび、自分が自分にすり替えられていく、その繰り返しだ。
出口は多い。入り口も多い。
だが、出入りを繰り返すうちに、どちらが「出」で、どちらが「入」だったかさえ曖昧になる。
駅とは、誰かの足跡の上に新しい足跡を重ね続けるだけの場所だ。地下街は、そうして人間の数だけ「出口のない出口」を抱え込んでいる。東京駅を歩いているつもりが、東京駅に歩かれている――そんな感覚さえしてくる。
今日もまた、地図にない足跡をひとつ、僕は置き去りにしてきた。拾う人間も、探す人間も、きっともう存在しない足跡だ。




