『煙のない煙草』
電子タバコなるものを試してみた。いや、正確には「試さされた」と言ったほうがいい。非喫煙者の友人が、にこにこしながら「これなら健康にいいんですよ」と手渡してきたのだ。非喫煙者が喫煙者にタバコを勧める時代になった。ずいぶんまわりくどい禁煙運動である。
火もいらず、灰も出ず、煙も匂いもない。
ただ、吸った気もしない。
なのに、ちゃんと吸ったことになっているらしい。煙を吐かない煙草は、もはや「吸う動作」を模倣するだけの健康的な儀式だ。
一口吸って、ふと気づいた。
これはタバコではなく、タバコの再演なのだ。
もはや喫煙は嗜好ではなく、記憶の追体験。
煙の出ない煙草を吸いながら、人はかつて煙を吐いていた自分の姿を、ぼんやりと思い出している。
電子タバコの煙は、水蒸気らしい。
つまり、これは空気のコスプレをしているだけだ。じゃあいっそ、空気を直に吸えばいい。肺にダイレクトに風を入れて、「俺はいま健康に中毒しているぞ」と自慢すればいい。
しかも、この水蒸気には「ブルーベリー味」やら「ミントメンソール」やら、やたらと味がついている。いつの間にかタバコは、お菓子と同じ棚に陳列されるようになった。歯に悪いキャンディの代わりに、肺にやさしい蒸気を——というわけだ。禁煙のゴールは、「吸わない」ことではなく、「子どもでも吸える煙草」の開発だったのかもしれない。
かつての喫煙者は、煙の中に思索の余白を求めていた。煙が揺れるあいだに、言葉の順番を入れ替えたり、孤独を燃やしてみたりしていた。だが、電子タバコの煙は消えない。というより、最初から「煙」ではない。だから思索も迷いも、行き場を失って、そのまま肺の中に沈殿してしまう。
——煙草とは、吸うものではなく、消えてゆくものだったのだ。
火をつけて、吸って、燃やして、最後は灰になる。そこにはちゃんと終わりがあった。いまの電子タバコには、火もなければ、終わりもない。ずっと吸える。ずっと止められる。それはつまり、「やめられたことにする」という終わらせ方だ。
人生もこうやって、終わったふりだけして、ずっと続けられたら、それはそれで面白い。




