『宇宙への逃避、現実からの逃走』イーロン・マスク評
技術の進歩には、ふたつの顔がある。ひとつは、人間を不便から解放する道具としての顔。もうひとつは、現実の不条理を見えなくするための麻酔としての顔だ。
イーロン・マスクは、その両方を使いこなす現代的な「錬金術師」だ。火星への植民、脳と機械の融合、仮想通貨による経済の疑似現実化。これらの計画は、いずれも技術の顔をしているが、本質的には「現実の不快感」を別の形へすり替える壮大なトリックに過ぎない。
彼のビジネスは、あらゆる境界線を破壊する。重力の境界、身体の境界、通貨の境界、社会的な常識の境界。境界が曖昧になるたびに、人間は一瞬だけ自由になった錯覚に酔う。しかし、その自由は「現実からの逃走」に過ぎない。火星に行っても、重力が変わるだけで人間の矛盾は変わらない。脳を機械とつないでも、「なぜ自分はここにいるのか」という問いは消せない。
マスクの挑戦は、実のところ技術的な問題ではない。彼は現実という劇場の舞台装置を総取り替えしようとしているだけだ。観客席に座る人間の中身――つまり「存在の不確かさ」そのものには指一本触れていない。舞台が変わっても、人間という俳優の不安は変わらない。
むしろ、マスクのビジネスの本質は、新しい舞台を売る商売だと言っていい。現実を買い替えさせることで、古い現実を忘れさせる。かつては宗教が担当していた「死後の希望」を、彼は火星やシミュレーション仮説に置き換えただけだ。
結局、技術の進歩とは「現実の包装紙を新しくする作業」に過ぎない。マスクはその包装紙のデザインが誰よりも巧みな男だ。だが、包装紙の下身が相変わらず「死と不安」でできていることを、彼もきっと知っているはずだ。彼自身が、それに気づく日が来るかどうか――それが、彼の本当の発明品になるかもしれない。




