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第十話 蛇のいざない

 空をどんよりとした厚い雲がおおっている。今にも端から垂れてきそうなほど灰色は重い。

 少しでも気分を晴らそうと、彼はお気に入りの喫茶店がある通りをのんびり歩く。帰路の途中の寄り道だった。


――今日の天気はベアトリーチェのヴァイオリンみたいだ。清らかな水で潤っていて、見えずしたたる。


 人目をはばからずため息をつく。陽は暗いが時間帯はまだ午後を過ぎたばかりだ。

 なんとなく気分が乗らなくて、体調不良を理由に早めにあがってきてしまった。

 かつての自分なら早退は不真面目なことだと嘆く。

 しかし、体調が悪いというのは嘘でもなかった。

 近頃頭痛がひどい。演奏をしている間は集中しているからか痛みがひくものの、それ以外の時はずきずきとコメカミが痛む。耳鳴りもひどかった。


――変な頭痛だなあ。


 そうは思うのだが、それがますます熱中させるらしく音は冴えわたる。

 だからつい、帰ったら休むから、明日になったら休むからと先延ばしにしてしまう。

 それをやめたのはエーリッヒの一件があったからだ。


――このまま突き進んだら、とんでもないことが待っている気がする。


 激しく荒ぶる彼の音色には嘆き、そしてうっすらとした喜びがあった。

 恐らく演奏者にしか共感できない歓喜だ。

 『この一線をこえられる』という、素晴らしい音色を奏でられることへの狂喜だ。

 そのために心を壊す恐怖に苛まれ、大事なものを取りこぼそうとも幸福であろう。

 骨の髄まで音楽家であれば。


「やってられない」


 どうすれば割り切って仲良くできるだろう。最初のように楽しくやりたかった。懐に手を入れてスキットルを取り出す。

 エーリッヒがヴァイオリンを弾いたあの後、酒のことをすっかり忘れ、リロイに感想を聞かれてようやく思い出すことになってしまった。

 彼は苦笑して新しいものをいれてくれたが。

 よほどのしかめつらをしていたのだろう。


「飲んでみるかな」


 思えばここ最近、随分穏やかに過ごしていない気がする。

 試しに口を開け、丸いくちを見つめて躊躇した。大丈夫だろうと思っていても初体験は身がかたくなるものだ。

 緊張から逃れようとする部分は逃げ道を探し、彼らしく耳を研ぎ澄ます。


「……ん?」


 鋭敏な伊達の耳は、見事に興味の対象を探り当てた。

 元より強くない酒よりもずっと魅力的なもの――音だ。


「クラリネット? けど、なんであっちから」


 演奏者の姿は見えない。

 手をこまねく妖しさと奇妙な親しみやすさで飾られた笛の音は、路地の裏から聞こえてくる。

 路地裏にいるものといえば、治安を思えば娼婦か浮浪者だ。

 そこに足を踏み入れることには勇気がいった。

 だがこの音の主を確かめたいという好奇心が勝る。

 不思議なことに、そして響く場所の胡散臭さにある意味では相応しく、クラリネットは実に見事な腕前だったからだ。


――こんなところで演奏をするなんて、よほどの変人だろうか。確かに個性的な人間は多いが。


 暗闇に踏みこんで現実の風景を見失えば、音が薄紫色の煙となって己を導く錯覚が襲う。

 蛇を操る呪術師が細い指で笛の穴を塞ぐのが目に浮かぶ。

 すえた臭いはこの世とあの世の境目を曖昧にして、幻視を呼び起こす。

 人々の内側に存在する、露出した肉の如き醜さと深紅の魔性をみせつける。

 ありのまま突きつければ生理的に拒絶しかねないものを受け入れさせ、陶酔させる陰陽のバランスは呪術的とすらいってよかった。


「すみません、失礼しますね」


 けもののように丸まって地べたに寝転がる浮浪者の合間を潜り、演奏者の元にたどり着く。

 彼の姿を認めると、思わず伊達は目を剥いた。

 演奏者の姿は当たり前(おかしい)

 安くはない楽器を持つ者にしてはみすぼらしい。汚れていないところのないボロを着ている。間違いなく浮浪者だ。

 己の身なりを気にも留めない彼の乾いた茶色の手の中で、クラリネットだけが黒を煌びやかに輝かせている。

 指は痩せているがしっかりとした頑丈さがあった。何年も楽器を操ってきたものの手だ。

 五指の健常に反し、目はどろんと濁っている。楽器を手放せなかった浮浪者ではない、演奏を捨てられない麻薬中毒者だった。

 矛盾のかたまりに言葉を失って、まじまじと演奏者を見つめるだけの時が過ぎる。

 その時間がまた伊達に発見を与えた。


「あなた、まさか……あの演奏会にいた、」


 よくよく見ればその顔には見覚えがある。

 ほんの数回だけで意識しなければすぐにでも忘れてしまいそうだが、確か彼は、初めて《オーリム》の演奏を聴いた時にいた観客の一人だ。


――「虫の羽音が聞こえる」


 そうつぶやいていたから、かろうじて印象に残っていた。


「なんだ、アンタ……て、新しいメンバーか」


 伊達の驚愕に彼は何か呼びさまされた様子で言葉をもらす。

 わずかに宿った知性の光は、しかしすぐに掻き消える。

 代わりに伊達に向かって手のひらを差し出してきた。


「え、な、なんですか」

「ここに来たということはお前さんもあのバンドに誘われたんだろう。なら、持っていないか。いや、よくみりゃもう持ってるじゃないか」

「何を」

「酒だ。こんなナリじゃ手に入れるのも一苦労でな、くれ」


 見覚えはあるといっても交流などかけらもない男だ。少し考えて、貰い物の酒を渡す。

 自分はまたもらえばいい。何があったかしらないが没落した様子の男に憐れみを覚えた。

 男はスキットルを受け取り、震える指で口に運ぶ。

 ごわごわの口髭から酒か唾液が落ちる。


「どうも」


 乱暴に突き返されたスキットルをハンケチで拭いてからしまう。

 男は早くも顔を赤く染め、ぐらぐらからだを揺らし始めていた。


「あのバンド、というのは《オーリム》のことですか?」


 質問に答えられる状態か怪しい。

 それでも試しに気になったことを聞いてみる。


「あ、ああ、そうさ、あの悪魔どものことだ」

「悪魔って」


 むっとして言い返そうとしたが、近頃を思い出しくちをつぐむ。

 何より相手は酔っ払いであり中毒者だ。目頭を立てるのも情けなかろう。

 こらえた伊達をバカにするように鼻を鳴らす。そして単刀直入に言った。


「もうルシィとは寝たのか」


 踏み込んだ問い返しに、さすがに唇の端から怒鳴りが漏れる。

 悪意のまじったことを問うも、男はにやつかない。

 むしろ伊達の反応を見て、深く、深く嘆息した。


「そうか。なら礼に俺が言えることはひとつだけだな」

「……いや、いいよ、じゃあな。気を付けて」


 やはり中毒者は中毒者だ。まともにとりあうべきでなかった。

 自嘲して去ろうとした背に、いやにはっきりした呂律(ろれつ)がとぶ。


「迷うかもしれんが、嘘つきは一人だけだ。頑張れよ」


 謎かけめいた言葉は妙に突き刺さり、振り向く。彼はもう横になって、縮こまってぶるぶる震えていた。


「……嘘つき?」


 スキットルをしまった胸元に手をのせる。

 浮浪者であればたわごとと放っておけたが、彼はただの浮浪者ではない。

 彼の発言と楽器を見れば、恐らく彼が《オーリム》のメンバー候補の一人だったクラリネットだろうと予測がつく。

 一度はルシィに気に入られかけて、結局やめてしまったのだ。

 トランペットと同じく。


「嘘つきって、エーリッヒのことか?」


 かつてそこにいたのならメンバーのことを知っているのは自然だ。

 したはずのことを笑って違うといった彼の顔を浮かべる。


――でも、本当に?


 エーリッヒはメンバーのなかでも一際親切にしてくれた。

 今でも何かとかまってくれる。

 あのヴァイオリンの演奏を聞いた後では、過去によほどのことがあったのだろうと予想もつく。

 そういえば、彼は元麻薬中毒者で記憶を失ったというではないか。

 よほどのことから逃げるために麻薬へはしったといわれれば、伊達は頷いてしまう。


――だって彼は酒に強い。嫌なことがあっても酒では忘れられないだろう。


 家に向かっていた足が止まった。

 何かがひっかかる。何が?


――そうだ、エーリッヒも中毒者だったんだ。


 彼は酒に酔えない。だがそんな彼でも逃げられるものがある。

 もしも、彼が嘘つきでないと仮定したらどうなる。本当に覚えていないのだとしたら?


――あの時、エーリッヒは記憶が残らないほど混乱していた、のか?


 ならばそれは酒以上のものを摂取したからだ。

 コートを握りしめる。


――演奏前に彼になにか()らせたのは、摂らせたものは、


 そこには硬い金属の感触がある。


――エーリッヒが記憶喪失だっていったのは、彼が麻薬中毒者だといったのは、彼が逃げた理由を知らないといっていたのは。


 ベアトリーチェは知っていた(・・・・・・・)のに。


「リロイが嘘つき?」


 ひとのちからではびくともしないスキットルをコート越しに確かめる。

――これの中身は、一体なんだ?


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