薬の効果が切れるまで後八日(1)
第一王子であるクリスティアーノの執務室前に佇む一組の男女。
その片割れであるソフィアは緊張を誤魔化すように金の髪を耳にかけ、オレンジ色の瞳を隣にいるレオンへと向けた。第一王子の護衛隊長であるはずの彼は昨日より休暇届を出しているため、本日は白のシャツに黒のズボンというラフな装いだ。レオンらしいオシャレに無頓着な装い。けれど、鍛えられた筋肉のおかげか、それとも完璧なアルカイックスマイルのおかげか、逆に洗練された印象を受けた。
ソフィアは似たような笑みを一つ浮かべると、さりげなく視線を逸らした。
(やっぱり……昨日のは夢ではなかったのね)
室内では黒く見えるこげ茶の髪も、鮮やかな青の瞳も、ソフィアが知る彼そのまま。しかし、今の笑顔で理解した。彼の中身はレオンではなくクリスティアーノなのだと。本物のレオンだとしたら、今のような優雅で洗練された笑顔を浮かべることなどできない。こんな……憎たらしいほど爽やかな笑顔など。
(中身が変わっただけで、こんなに印象も変わるなんて……)
ソフィアはすぐさま思考を切り替える。
扉の前で警護している騎士からの視線がそろそろ痛くなってきた。
ノックをすれば、固い声色が返ってくる。名前を告げるとすぐさま入室許可が下りた。
中に入ると、執務中らしきクリスティアーノ(レオン)と目があう。
銀色のサラサラ髪に、ピンク色の特徴的な瞳。王子然とした姿に違和感はない。
しかし、彼がソフィアとその後ろにいるレオン(クリスティアーノ)を視界に捉えた瞬間、その違和感は生まれた。あからさまにホッとした表情。
(ちょっと! クリスティアーノ王子殿下がそんな風に感情を露わにするわけないでしょう!)
ソフィアのいら立ちを感じ取ったのか、すぐさまレオン(クリスティアーノ)が動いた。室内にいる護衛二人に声をかける。
「少しの間、二人は外に出ていてくれ。殿下に内々の話があるんだ。終わったらすぐに声をかける」
そう言ってソフィアをちらっと横目で見た後、もう一度彼らに視線を戻した。いかにも、彼女にかかわる内容だ、という素振り。
護衛たちは一瞬目を見開いた後、頷き、部屋を出て行った。
上手い手だとソフィアは内心感心する。手っ取り早く人払いでき、その理由を相手に勝手に想像させつつ、仮に後で確認されたとしてもなんとでも誤魔化すことができる。その場しのぎではない、計算された行動だ。到底本物のレオンには思いつかない手。
完全に三人だけになるとクリスティアーノ(レオン)は勢いよく机に突っ伏した。
「あ゛ーきつかったあ……」
「ちょっと! 外にまだ人がいるのよっ」
咄嗟に叱りつけようとしたソフィアをレオン(クリスティアーノ)がなだめる。
「安心して。この部屋には防音魔法がかかっているから、外に声が漏れる心配はないんだ」
「そう、なんですね」
(さすが王家。正直、羨ましいわ)
できることなら生家の執務室にも同様の魔法をかけてほしいくらいだ。それがかなわぬ願いなのは重々承知。魔法という特殊な力を扱うことができる魔女は世界で見ても希少な存在。大抵はどこそこの王家と契約し、権力や莫大な富と引き換えにその力を振るっている。故に、一介の伯爵家に生まれたソフィアなどは無縁――と、思っていた。
(まさか、王家の『秘薬』の効果を目にする日がくるなんて……)
それが嬉しいことかどうかは別として、かなり貴重な経験だ。
「おまえら、もっと早く来いよ」
ジト目を向けてくるクリスティアーノ(レオン)。レオン(クリスティアーノ)は肩を竦めてみせた。
「と、言われてもね。私は今休暇中だし……」
視線を向けられたソフィアは嘆息する。
「レオンの婚約者である私が、早朝から殿下の執務室を訪ねるのはおかしいでしょ」
今の時刻は朝の九時。これより早く来い、というのは無理がある……のだが、クリスティアーノ(レオン)はそうは思わなかったらしい。
「別におかしくないだろ。しばらく城に滞在する代わりにクリスの仕事を手伝う、ってことになったんだから」
「だとしてもこれ以上早いのは無理」
「ソフィア嬢が早起きするとなると、必然的に私も早起きしないといけなくなるしね」
「……別に二人一緒でなくても、ソフィーが一人で来ればいいだけの話だろ」
「そんなわけないでしょ! あんたはっもっと周りの目を気にしなさいよ!」
意味が分からないという顔のクリスティアーノ(レオン)。これはダメだとソフィアは首を横に振る。レオン(クリスティアーノ)は苦笑しつつ、口を開く。
「まあ、そういう意味でも今回の入れ替わりはレオンにとっていい勉強になるかもね?」
「そうなればいいですが……私としてはいろんな意味でいい経験にはなりそうですけど」
次期伯爵家当主となる身としてはこの経験は少なからず、今後に活きるだろう。
「そういえば……皆さん私が殿下の仕事を手伝うことになったと知って驚いてはいましたが、それ以外の反応がありませんでしたね」
もっと反発があったり、探られたりするのかと思っていた。
「たしかに……ソフィア嬢が伯爵家を継ぐことを皆知っているからかもしれないね。今回のことも立太子前のパフォーマンスだと思ってそうだ」
「ああ。つまり、レオンとペンネッタ伯爵家、そして殿下の関係性を周囲に知らしめるための行動だと」
「そう」とレオン(クリスティアーノ)は頷く。が、ここで一人、会話を理解していない者が声を上げた。
「おまえら! 話を逸らすんじゃねえよ! 意味わかんねえことべらべら喋りやがって」
ソフィアは呆れたように溜息を吐く。
「べつに話を逸らしてなんかないわよ。……はあ。説明したとしてもわかるとは思えないけど……一応なんで私が一人で早朝から殿下の執務室を訪ねるのがおかしいのか、説明してあげるわね」
「おう」
「あのね! 私はレオンと婚約してるの! そして、殿下にも婚約者がいる! いくら室内に護衛騎士がいるとはいえ、二人きりになるのはまずいのよ。変な疑いを周りにかけられるようなことは避けるべきなの。それが貴族として、そして次期王太子とその側近の婚約者として、最低限守るべき体裁。そのためにも、婚約者の送迎は必須なの! だいたい、臨時の部下に早朝からとりかからないといけないような仕事を殿下が任せるわけないでしょ。私が城にやってきた理由を殿下も知っているんだから、なおさら」
「その通りだね」
レオン(クリスティアーノ)が肯定すると、さすがにクリスティアーノ(レオン)も黙り込んだ。
「さて」とレオン(クリスティアーノ)が立ち上がる。
「溜まってる仕事に目を通すから、その間レオンはあっちでソフィア嬢と話しておいで」
あっちと来客用のソファーを示した。
全ての仕事をせずにすんで安堵している様子のクリスティアーノ(レオン)に、ソフィアは話しかける。
「で? 今のところ大丈夫そうなの? 誰にも気づかれてない?」
「ああ。昨日入れ替わった後は特にする仕事もなかったし、食事や風呂もテキトーな理由をつけて一人で済ませたから疑われることもなかったと思う」
「ならいいけど……」
「安心しろって。たった八日間だ。だてに一年間、毎日クリスの護衛をしてたわけじゃない。クリスの立ち振る舞いや、日常の所作は覚えてる。見た目は変わらないんだから、それっぽく振舞うのなんて楽ショーだって」
満面の笑みを浮かべるクリスティアーノ(レオン)はどう見ても普段の彼とは別人だ。
「へえ……なんか、それを聞いて余計に不安になってきたわ」
「なんでだよ?!」
「なんでって、それ本気で言ってる?! 私から見たら違和感だらけよ?!」
「そ、それはおまえが入れ替わりを知ってるからだろ。実際、誰にも気づかれてないんだし」
「まだ昨日の今日でしょ。ちょっとした違和感くらいじゃ口には出せないわよ」
「そうか?」
「と・に・か・く! 後八日間、気を抜かないようにね!」
「おう!」
(本当にわかっているのかしら)
どうも信用ならないとソフィアは嘆息しつつ、今度は資料を真剣な顔で読み込んでいるレオン(クリスティアーノ)に視線を向けた。彼の目は左右にせわしなく動いている。
(こんなところ誰かに見られたら即バレするわね)
それくらいありえない光景だ。レオンの勉強嫌いは学院にいた時から有名。
『剣の才以外のすべてを母親のお腹の中に忘れてきた生まれながらの天才騎士』、それが彼の代名詞。
(まあ、クリスティアーノ王子殿下の演技はなかなか良かったし、下手なことがない限りはバレないと思うけど……)
先ほどの護衛騎士たちとのやり取りを思い出し、ふと違和感を見出した。クリスティアーノ(レオン)を見やる。
「ねえ、もしかしてだけど……部下たちの前でもクリスティアーノ王子殿下のことを『クリス』なんて呼んでないわよね?」
「え?」
先ほど、レオン(クリスティアーノ)がクリスティアーノ(レオン)を「殿下」と呼んだ時、部下たちが妙な反応を見せたのだ。あの時は護衛を全員外に出すという命令への戸惑いかと思ったが、改めて考えると違う気がする。
「また小言かよ」とクリスティアーノ(レオン)が溜息を吐く。
「はあ? ってことは呼んでるってこと?! まさか部下以外の人たちの前でも……」
国王夫妻の前でも気やすい態度で接しているレオンを想像して青ざめる。
「いや、さすがに親しいやつらの前以外ではしてねえよ」
「ならよか……いや、やっぱりよくないわ! そもそもいくら仲がいいからといって、私的な場以外で殿下を愛称で呼ぶのはおかしいのよ?! 場合によっては不敬だと取られるわ。せっかく護衛隊長という立場にいるんだからそれに見合った振舞いを……せめて職務中だけでもきちんとしなさいよ!」
「はあ?! なんでそんなことまでお前に口出されないといけねえんだよ!」
「あんたが常識知らずだからでしょう! その態度のせいで迷惑を被るのは殿下なのよ?!」
「な、なんでだよ?! 親友を愛称で呼んで何が悪いんだ!」
「なんでって……」
目の前の非常識人間にいったいどう説明すれば理解してもらえるのかとソフィアは顔をしかめる。
「とにかく、それがマナーだと思って今後は気をつけなさい」
納得いかない顔のクリスティアーノ(レオン)だが、一通りの作業を終えたらしいレオン(クリスティアーノ)が立ち上がったため口を閉ざした。
レオン(クリスティアーノ)がソフィアに紙の束を差し出す。
「これ、お願いするね」
「承知しました」
「うん。あ、こっちはレオンの分」
山になっていた書類の半分は今の間にさばき終えたようで、残った半分の内三分の二をソフィアが、残りの三分の一をレオンが請け負うこととなった。といっても、レオンが任された分は仕事をしてますよ~と見せるためのもので、印を押すだけという簡単な仕事だ。
二人が仕事を始めるとレオン(クリスティアーノ)は扉を開け、護衛騎士たちを中へと招き入れた。
「じゃあソフィー。また後で迎えにくるから」
「ええ……ええ?!」
流れる動作でソフィアの片手を掬い上げ、その甲に口づけを落としたレオン(クリスティアーノ)。呆気にとられる面々を残してさっそうと部屋を出て行った。
ソフィアとクリスティアーノ(レオン)の視線が一瞬交わる。
(あ、あの腹黒王子! レオンの前でなんてことをっ。絶対面白がってやったでしょ!)
ソフィアは赤くなった顔を見られまいとさっと俯き、己に課された仕事と向き直った。




