薬の効果が切れるまで後三日(1)
午前中。いつもなら執務を行っている時間帯にソフィアはレオン(クリスティアーノ)と共に、クリスティアーノの寝室を訪ねようとしていた。手には見舞いの品を入れた籠。
「あ」
扉の前に立っていたフィンと目が合った。昨日の件もあり、クリスティアーノの寝室前には厳戒態勢が敷かれている。扉の前にはフィンを含め、護衛騎士が数人。「こんなに必要なのかしら?」と問いかけたくなるほどいる。加えて、おそらく部屋の中にも護衛はいるのだろう。
「隊長!」
フィンがレオン(クリスティアーノ)を見て嬉しそうに声を上げる。しかし、すぐさま隣にいた他の護衛騎士に肘うちをされ、口を閉じた。とはいえ、その護衛騎士も、他の者たちも心なしか嬉しそうだ。
(レオンってば、案外部下たちに慕われていたのね)
城に来てからソフィアが会ったレオンの部下はヴィンセントやルーク、そしてフィンだけ。ヴィンセントやルークがレオンに接する態度はいたって普通だったため、てっきりフィンだけがイレギュラーな存在なのかと思っていた。
「どうだ」
とレオン(クリスティアーノ)が尋ねると、フィンはすぐに表情を引き締め、姿勢を正す。
「変わらず、です」
「そうか……」
レオン(クリスティアーノ)の暗い表情に、フィンは気遣わしげな視線を送ってくる。
少し離れたところから見ているソフィアは、その様子をなんとも言えない表情で見守っていた。
眉を下げていたレオン(クリスティアーノ)は表情を一変させ、努めて明るい笑顔を浮かべる。
「クリスが好きなものを持ってきたんだ。中に入ってもいいか?」
あえて護衛隊長としてではなく、友人とその友人の婚約者の訪問だと示せば、フィンは頷こうとして途中で止まった。
「すみません。実は今……」
と視線を右に逸らした。その先にいるのはフィンたちとは違う制服を身に着けている護衛騎士が一人。邪魔にならないようにか、端にいたため気づかなかった。彼を見て、レオン(クリスティアーノ)は「ああ」と頷く。
「マルゲリータ様がきているのか」
「はい」
「なら、仕方ないな。俺たちはまた時間を空けてから来るとしよう。じゃあ皆、引き続き殿下を頼んだぞ」
「はっ!」
最後は隊長として声をかければ、部下たちはしっかりと頷き返した。
レオン(クリスティアーノ)はすぐさま背中を向け、きた道を戻り始める。ソフィアは扉を数秒見つめた後、慌てて踵を返し彼の後を追った。
◇
一方、扉の中では部屋の主人であるクリスティアーノがベッドの上で目を閉じ、横たわっていた。その枕元にはマルゲリータが座り、じっとクリスティアーノの顔を見つめている。
昨日、彼は外出中に暗殺者に襲われ、命を落とす寸前でたまたま居合わせた休暇中のレオンによって救い出された。もし、彼がいなかったらそのまま……だっただろう。というのは、宮廷医師の見立てだ。なんとか一命を取り留めたクリスティアーノ。けれど、立太子前に起きたこの事件は彼にとって致命傷となりかねない。いや、致命傷となるのだ。――これから、マルゲリータの手によって。
マルゲリータが婚約者としての特権を使い、クリスティアーノの元を訪れたのには理由がある。父であるメルロ公爵からの指示もあるが、なによりフェルディナンドからの命令だった。
『今が好機(ヴィンセントたちが全てを吐く前に、クリスに秘薬を)』
捕まえられたヴィンセントたちは今のところ黙秘をしているらしいが、それがいつまで続くかはわからない。だからといって、処分するのも今回は難しい。となると今優先すべきは、クリスティアーノ暗殺だ。
今ならクリスティアーノを確実に毒殺することができる。すでに死の淵に立っているクリスティアーノの様態が急変してもおかしくはない。疑われる可能性も低い。そして、騒ぎになった隙をついて、ヴィンセントたちも処分すればいい。すべてのお膳立ては済んでいる、後はマルゲリータが実行するだけ。
そんな内容が遠回しに書かれた手紙がマルゲリータの元に届いた。
「……クリスティアーノ様?」
小声で呼んだ名前。けれど、その呼びかけに返ってくる反応はない。当然ではある。マルゲリータの前にきた、フェルディナンドの息がかかった宮廷医師の手により麻酔が打たれているのだ。
彼の意識がないことに安堵しつつも、マルゲリータは複雑な想いを抱えていた。
おもむろに手を伸ばし、そっとクリスティアーノの頬に触れる。生暖かい肌。微かに動いている胸部。まだ彼は生きている。けれど、これからそれらの機能はすべて停止する。いや、マルゲリータが奪うと言った方が正しいか。
(せめて、魔女の秘薬が苦しまずに死ねるものでありますように……)
魔女の秘薬の中身がどんなものなのか、マルゲリータは知らない。あえて確かめようとはしなかった。……というより、できなかった。もし、この薬でクリスティアーノが苦しむことがわかっていたら、決心が鈍るかもしれないという思いが心の片隅にあったのだ。
というのも、マルゲリータはフェルディナンドほどクリスティアーノのことを嫌ってはいなかった。少なくとも、彼の命を平気で奪えるほどは。婚約者としてのクリスティアーノは終始優しく、紳士的だったと思う。それがマルゲリータにとっては物足りなくはあったが、だからといって不快感を覚えるようなものではなかった。どちらかというと、理想的な婚約者だっただろう。マルゲリータがフェルディナンドに恋をしなければ。
マルゲリータはクリスティアーノと婚約する前から、フェルディナンドに恋をしていた。けれど、それは一方的な恋心。相手は十二歳も年上なのだ。かなうことはない。故に、誰にも伝えず心の中に秘めておくつもりだった。そんな中、筆頭公爵家当主であるマルゲリータの父は、年が近いクリスティアーノとの婚約を勝手にまとめて帰ってきた。仕事ばかりの父はまさか娘が、フェルディナンドに惚れているなど思いもしなかったのだ。その時もマルゲリータは仕方ないこととして受け入れた。しかし、クリスティアーノの婚約者となったマルゲリータに、父は事あるごとに「完璧な王子の隣に立つためにおまえも完璧な存在となりなさい」と言うようになった。それも、仕方のないことだと頭では理解していながらも、言われるたびに心は擦り減っていった。そして、クリスティアーノの完璧さを知れば知るほど、己の至らなさにも目がいった。
(未来は真っ暗。そう諦めていた時に……光が差したの)
フェルディナンドも自分と同じ気持ちだと知った時に、マルゲリータは心を決めたのだ。
(同じ暗闇でも、隣にいるのはフェル様がいい。そのためなら、私はどんなことでもする)
それがたとえ、クリスティアーノの未来を奪うことになったとしても。
マルゲリータは魔女の秘薬が入った小瓶を握る左手に力をこめる。そして、右手でゆっくりと蓋を開けた。
視線を感じる。その視線の主はわかっている。
部屋の中にいる護衛騎士たちだ。フェルディナンドと通じている二人。護衛というよりは監視。
彼らがいる以上、今更計画を取りやめることなど不可能。なにより、マルゲリータはフェルディナンドを裏切るつもりはない。
(これもフェル様の、二人の未来のため。だから恨まないで頂戴ね。クリスティアーノ様。あなたはただ継承争いに負けただけなの。貴き血にはよくあること、そうでしょう?)
クリスティアーノというよりは自分に言い聞かせつつ、マルゲリータはゆっくりと彼に覆いかぶさった。
女性のように白く、キメの整った肌。中性的な彼はこうして目を閉じていると人形のようだ。しかし、ここまで近づけば彼の小さな呼吸音が聞こえ、生きているのがわかる。
マルゲリータは口づけでもするかのように顔を近づけ、白く美しい手で彼の下唇に触れた。
うっすらと開いた唇の中めがけ、小瓶を傾ける。秘薬は彼の口内へと落ちていく――かと思われた瞬間、クリスティアーノの目がぱっと見開いた。
「っ!」
マルゲリータが慌てて体を離そうとする。が、クリスティアーノに腕を引かれ、ベッドの上に顔を打ち付けた。その痛みに耐えている間に、手は後ろで結ばれ、拘束されてしまった。あっという間の出来事だった。
信じられない思いで顔だけをクリスティアーノへと向ける。一瞬交わる視線。思わずマルゲリータは視線を逸らした。そのせいで、彼の様子がいつもと違うことに気づかない。
(ど、どうして……いえ、それよりも、騎士たちはなにをして)
室内にいた味方の存在を思い出し、そちらに目を向け、今度こそマルゲリータは絶句した。フェルディナンドが派遣してくれた頼もしいはずの味方は、いかにも暗部らしい黒装束を身にまとった者たちに捕らえられていたのだ。
(いつのまにっ)
しかも、彼らに指示を出しているのは休暇中のはずのレオン。数分前に扉の前で彼が追い返されていたのはマルゲリータも聞いて、知っていた。混乱しているマルゲリータだったが、すぐに理解する。
(ああ、そうだったのね……)
はじめからこの作戦は失敗だったのだ。すべてはクリスティアーノの掌の上。
その証拠に、クリスティアーノしか知らないはずの隠し扉が開かれている。そこを使って彼らが突入してきたということは、事前に彼からそういった作戦が伝えられていたということ。
項垂れるマルゲリータの耳に、クリスティアーノの「これか?」という声が届いた。
ゆっくりと顔を上げ、ぼんやりと彼が持っている物を見る。そして、見開いた。
「それを返しなさい!」そう叫ぶつもりだった。けれど、いつの間にか口には布を巻かれ、声が出ないようにされていた。唸り声しかあげることができない。
クリスティアーノはマルゲリータを一瞥して、レオンへとその小瓶を渡す。小瓶の中身のほとんどはベッドの上にこぼれてしまっているが、中には少し液体がまだ残っている。レオンはそれをクンと一嗅ぎすると、口角を上げ「ああ」と呟いた。
(だ、大丈夫よ。いくら五感が優れているとはいえ、あれがナニかなんてわかりっこないわ。せいぜい判別できるのは毒かどうかくらい。クリスティアーノ様でさえわからなかったんですもの。護衛隊長ごときがわかるわけ……)
と思いつつも嫌な汗が止まらない。毒だと知られてもかまわない。けれど、あの小瓶の中身が、魔女の秘薬だと発覚するのはまずい。フェルディナンドとの繋がりまで露見してしまう。一応ラベルを剥がしてはいるが……。お願いだからそれだけは気づかれませんように。そう心の中で願う。
しかし、マルゲリータの願望は残念ながらレオンの次の言葉で打ち砕かれてしまった。
「これは間違いなく、魔女の秘薬『ノクターン』だね」
マルゲリータは目を丸くし、固まる。
(どうして一介の騎士ごときがっ?! 私でも知らない秘薬の情報をなぜ! ……ああ、そういうことだったのね。そこから騙されていたの……)
よく考えればわかることだった。あのクリスティアーノが望んで側に置いている男だ。ただ腕っぷしが強いだけのはずがない。すっかり騙されていた。きっと、マルゲリータだけではない。大半の人間は騙されていることだろう。普段の彼は偽りで、本当の彼は今のように頭も切れるのだろう。――まあ、実際は中身がクリスティアーノなだけで、元のレオンは裏表もないただの能筋なのだが。
マルゲリータはがっくりと項垂れた。
(いったいいつからバレていたのかしら。急に城に突撃してきたという婚約者との騒動から? それとも、もっと前から? わからない。わからないけれど……どちらにしろ完敗ね)
動かぬ証拠はすでにクリスティアーノの手にわたってしまっている。この場を覆せる人もいない。
(誰か、フェル様に伝えてくれたかしら。お願いだから伝えてほしい。……そして、逃げてほしい)
せめて、フェル様だけでも生きのびてくれたら、それだけでいいとマルゲリータは目を閉じた。




