プロローグ
ペンネッタ伯爵家の令嬢ソフィアは、今日も今日とて婚約者であるスターリング子爵家の令息レオンの来訪を待っていた。
しかし、彼は約束の時間を一時間ばかり過ぎても現れない。それどころか、連絡の一つさえない。
「また? またなの?」
手に持っていたカップがぷるぷると震える。中に入っている紅茶はすでに冷え切っている。ソフィアは怒りに任せてカップをソーサーへと戻した。カチャン!と音が立つ。淑女としてはあるまじきマナーだが、今はそれを咎める人もいない。
「はあ……」
ため息の一つや二つついても許されるだろう。と、ソフィアは天井の一点を見つめる。
レオンが忙しいのは重々承知だ。彼の仕事は立太子間近と言われている第一王子クリスティアーノの専属護衛だ。ソフィアは彼らと同じローレン王立学院で学び、少なからず交流があったため、二人がその地位にふさわしい能力を持ち、クリスティアーノには次期国王の器が備わっていると思っている。
だからこそ、立太子前の地盤が安定していないこの時期に、レオンが身を粉にして働くのは道理だとも理解しているのだ。
ただ、それならそれで、連絡の一つくらい寄越せと言いたい。
ソフィアも次期女伯爵としてやるべきことが多いのだ。延期ならその知らせを事前に送ってほしい。そうすればこうして無駄な時間を過ごさずにすむ。
とはいえ、別の問題もある。ソフィアがそれでよくても互いの両親は納得しないだろうから。特に、ソフィアの両親は。
ソフィアとレオンが婚約したのは十七歳の時。もう一年は経っている。婚約は両家にとって重要な政略的な意味合いを持つため、本人たちよりも両親の方が焦っていると言っていい。特にソフィアの母はさっさと式を挙げろとうるさい。というのも、ソフィアに婚約者はいるものの、二人が一緒にいるところを見た者は誰もおらず、公式なパーティーでもソフィアは実父と出席している。であれば、今ならまだ次期女伯爵の夫の座を奪えるんではないかと企む輩が後を絶たないのだ。ちなみに、レオンはそんなことは知らない。伝えれば多少は対応を改善してくれるのか。と、考えてみたが……残念ながら今と変わらない気がした。
「今日こそ結婚式の話を詰めるよう言われていたのに……相手がこないんじゃあどうしようもないわよね」
ソフィアは諦めにも似た呟きをこぼし、立ち上がった。
気持ちを切り替え、父親がいる執務室へと向かう。この一時間の間に仕事は溜まっているだろう。無駄にしてしまった時間を取り戻さなければ、と歩くスピードを速めた。
◇
レオンと会えたのは約束をすっぽかされた日から数日後。母にせっつかれ、仕方なくソフィアは王城へと乗り込んだのだ。婚約者に差し入れをする、という体で。
珍しい出来事に周りが気を遣ってくれたのか、二人のために空き室が貸し出された。
皆はきっと久しぶりにあった婚約者同士が甘い時間を過ごすとでも思っているのだろう。しかーし、二人は会えば喧嘩をする者同士だ。
二人きりになった途端、戦いの火蓋は切って落とされた。
「仕事なんだから仕方ないだろう! それに、今がどれだけ大事な時期なのかわかってるのか?!」
「だーかーらー。そんなのわかっているし、別に約束を反故にしたこと自体に文句はないって言ってるでしょうが!」
「だったら、わざわざこんなところまでくんなよ!」
腕を組み、イライラした様子を隠しもしないレオン。ソフィアのフラストレーションは溜まっていく。
「来てほしくないなら最低限のマナーくらい守ってみせなさいよ! そうすれば、うちの両親も表面上は納得するしかないし、私だってわざわざこうして王城にまで乗り込まなくてすむのよ! まったく……忙しいのはあんただけじゃないっていうのに」
「はあ?! 俺はクリスの護衛してんだよ! そんな時間があるわけないだろう!」
「クリスティア―ノ王子殿下でしょうが! 二人が仲が良いことは知っているけど、その気やすい言動は殿下と二人きりの時だけにしなさいよ。どこで誰が見聞きしているかわからないんだから」
「はっ。言われなくてもわかってるよ」
「……どうだか」
レオンと話していると疲れるとばかりに、ソフィアは額に手を当てる。その様子を見て、さらにレオンは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「で、用件はなんだよ」
「次の茶会の日程を……決めたところでどうせレオンは来ないだろうから、もうこの場で話しちゃうわね。いい加減、うちの両親もうるさいし。本題は、私たちの結婚式についてよ」
「あー……俺は特にこだわりがないからソフィーが決めてくれ。任せる」
「そういうわけにいかないの。服装はまあ、各々で用意できるとして、挙式の日程や誰を呼ぶかのすり合わせは必要でしょう。二人だけの問題じゃないんだから。……多分、クリスティアーノ王子殿下もくるんでしょ?」
「……本人は呼んでほしいとは言っていたが、今の状況だとな……」
「……そう」
いくら婚約者だとはいえ、クリスティアーノの周りでなにが起きているのかまで聞くことはできない。というか、聞いてしまったら巻き込まれるのは必至だ。自分のことでも手一杯なのだから、それは避けたい。
「とにかく、両親には進捗があったとだけ伝えておくから。絶対に避けてほしい日と誰を呼ぶかのリストだけでも送ってちょうだい。それを元に一旦、日程を組んでみる。その後、確認の手紙を送るから、きちんと返事をしてね」
「……ああ」
面倒くさそうなレオンに、ソフィアの目が据わる。
(私がここまで譲歩しているのに。その態度はなんなのよ!)
「なに? もしかして、結婚乗り気じゃないわけ?」
「は?」
「それならそうとはっきり言ってよ。ずるずる時間だけ稼がれたらこっちはたまったもんじゃないのよ。婚約をなかったことにするだけでも大変なのに、その後の……」
「おい! 勝手に決めつけるな」
「……別に勝手に決めつけてないわよ。レオンの言動を見て、そう判断したんだから」
「俺は! 結婚が嫌とは思っていない」
「ふーん。そのわりに、興味はなさそうよね。というか、億劫そう」
「それは仕事が忙しいからで……」
「仕事を理由にしないで!」
「事実を言っているだけだろうが! なんならクリスに聞いてくれたっていい!」
「だから! 王子殿下を敬称なしで呼ぶなって言って……」
「私に聞きたいこと?」
「「クリス(ティアーノ王子殿下)?!」」
突然現れたクリスティアーノに驚く。それはレオンも同じだったらしい。狼狽えた様子で詰め寄る。
「どうしてここに?! というか、護衛は?!」
「護衛なら部屋の外にいるよ」
その言葉にホッとした表情を浮かべたレオンが、クリスティアーノの次の言葉で青ざめる。
「ここにきたのは、レオンとソフィア嬢が密室に籠って怒鳴り合っていると報告が来たからだよ」
同じく青ざめた顔のソフィアが慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません」
「ああ、いいよ。むしろ、申し訳ないね。私のせいで喧嘩になったんだろう?」
「あ、いえ、それは」
「クリスのせいじゃない。俺たちはいつもこんなもんだ」
「そう、そうなのです。いつものことなのでお気になさらず」
「それはつまり、いつも僕のせいで二人は喧嘩をしているってことだね」
小首を傾げるクリスティアーノに、レオンとソフィアは一瞬固まる。
「いやだから」
「二人の声、外まで聞こえていたよ。レオンの仕事が忙しくて結婚の話が進んでいないんだって? 私に聞きたいことというのもそれ関連かな? たとえば、私のせいでどれだけレオンが忙しくしているかについてだとか」
慌てて口を開こうとするレオンを押しとどめて、ソフィアが口を開く。
「いいえ、クリスティアーノ王子殿下のせいではございません。問題なのは、婚約者としての最低限のマナーすら守ることができないレオンです」
「っ」
レオンは一度口を開こうとしたが、悔し気にそのまま閉じる。それはそうだろうと、ソフィアはレオンを横目で見た。
(ここで言い訳すれば、クリスティアーノ王子殿下が悪いことになってしまうもの。仕方なく自分の非を認めるしかないわよね)
内心ほくそ笑みながらソフィアはクリスティアーノを見やった。
クリスティアーノの視線がレオンに向く。
「レオン、そうなの?」
「……あ、ああ。俺が、悪い」
「ふーん。自分のどこが悪いと思ってるの?」
「そ、それはっ」
(おお! いい質問!)
ソフィアは目を輝かせて二人を見守る。
レオンは視線を泳がせている。
「その……自分の未熟さを『仕事が忙しい』って言葉で覆って、婚約者としての務めを後回しにしているところ、とか……です、かね」
「わかってるじゃない! あ、す、すみません」
「いやいや、ソフィア嬢もそれだけ鬱憤が溜まっていたのだろう。私が言うのもなんだけど、確かにはたから見てレオンの君への態度は褒められたものではなかったからね。おそらく私が間に入らなければレオンは自分の非を認めようとはしなかっただろう?」
クリスティアーノから指摘されたレオンは顔を赤く染め、うなだれる。
「悪、かった」
クリスティアーノがじっとレオンを見つめる。
「本当に悪いと思ってるの?」
「あ、ああ」
問い詰められたレオンは頷き返す。が、クリスティアーノは呆れたようにため息を吐いた。
「謝る相手が違うよ」
「あっ。ソ、ソフィー悪かった」
「……謝罪を受け入れます。その代わり、今後はきちんとしてくださいね」
「ああ」
「クリスティア―ノ王子殿下、この度は私事に巻き込んでしまい、改めて申し訳ございませんでした」
「申し訳、ございませんでした」
二人で頭を下げる。
「二人とも頭を上げて」
静かに二人で頭を上げる。ソフィアはクリスティアーノの読めない瞳とかちあい、息を呑んだ。
「二人とも反省しているんだよね?」
「「はい」」
「本当に? 二人も知っての通り、私はそれなりに忙しい毎日を送っているんだ。そんな中、私的な喧嘩で王城を騒がせて、私のところまで知らせが入り、こうして私が直接仲介をするはめになった。のだけれど……」
改めて説明され、ソフィアとレオンは二人してさらに顔色を悪化させた。
もう一度謝罪しようとした二人にクリスティアーノが待ったをかける。
「本当に反省をしているのなら、コレ飲んでくれる?」
そう言ってクリスティアーノはレオンに小瓶を突き出した。黒茶のガラスはうっすら透けており、中に丸薬が入っているのがわかる。
「コ、コレですか?」
「あ、あのそれはどういったもので?」
思わずソフィアが横から口を挟んでしまった。レオンはにっこりとほほ笑む。
「安心して命の危険はないものだから。ああ、不安なら私が一粒飲もう」
そう言って、中から二粒取り出し、先にクリスティアーノが飲み込む。
「ほら、レオンも」
「あ、ああ」
戸惑いながら、レオンももう一粒を手に取り飲んだ。
(え? ちょっと待ってなんかおかしくない? なんでクリスティアーノ王子殿下が飲むの? これって私たちに反省を促すためのものなんだよね。それなのに……)
「ぐっ」
「レオン?!」
目をぎゅっと閉じ、喉を押さえるレオンに慌てて駆け寄る。
「大丈夫?!」
「……っそ、にげぇ」
「……え? に、苦いだけ?」
「だけじゃねえよ。信じられないくらい苦……あ? なん、だ、これ……目が回るっ」
そのまま気を失ったレオンを慌てて支える。次いで、後ろからも衣擦れの音が聞こえた。
「レオン?! っクリスティアーノ王子殿下?!」
いつの間にか床に横になっているクリスティアーノ。
(まさか毒だったの?! はやく宮廷医師を呼ばないと!)
急いで立ち上がろうとして、気づく。この状況がまずいということに。誰が見ても二人に毒を盛った犯人はソフィアだ。けれど、このままにしてはおけない。覚悟を決め、部屋の扉を開けようとした。その時、レオンの瞼が開いた。
「待って、ソフィア嬢。大丈夫だから」
「レオン! ……ん?」
違和感を覚えていると、今度はクリスティアーノが上半身を起こした。
「っ。あー、口の中がにげぇ」
「ん? ん?」
クリスティアーノが乱雑に後頭部をかいている。品行方正な彼らしくない仕草だ。険しい表情も。どちらかといえばそういう仕草はレオンっぽい。対して、レオンは姿勢を正して、アルカイックスマイルを浮かべている。こちらはレオンというより、クリスティアーノっぽい。
「ま、まさか……?」
「ふふっ」と上品に笑い声を漏らすレオン。
「あれ、俺が目の前にいる。……鏡、じゃねえよな?」とレオンを見ながら首を傾げるクリスティアーノ。
おもむろにクリスティアーノがレオンに手を伸ばそうとした。咄嗟にその手をソフィアが掴んで止める。「なんだよソフィー。邪魔すんじゃねえよ」
しかめっ面のクリスティアーノ。彼の物言いにソフィアは確信を得た。
「これはどういうことですか?! クリスティアーノ様!」
とレオンに食ってかかる。クリスティアーノは「なに言ってんだおまえ」という顔だが今は無視だ。
レオンが上品に人差し指を己の唇の前に構える。
「しっ。外に聞こえたらまずいからね」
慌てて己の口を押えるソフィアと、ようやく異変に気づいたクリスティアーノ。
レオンは落ちていた小瓶を拾い上げて二人に見せる。ラベルには『ヴィカーレ』と書いてある。
「これはね、王家が抱える魔女が作った秘薬なんだ。この容器にも魔女の秘術がかかっていて、必ず二粒ずつしか出てこない仕掛けになっている。それを対象となる二人が一粒ずつ飲む。すると、その二人の中身が入れ替わるんだ」
「へえ。それで……ってなんでそんなものを俺に?!」
「ふふっ。レオンはよく知っていると思うけど、最近本当に仕事が忙しくてね。仕方ないことだとはいえ……そろそろ私も限界で……そんな時に君たちが騒ぎを起こしてくれたから。ちょうどいいかなっと思って……」
「ま、まさか……」
「そのまさかさ。この薬の効果が切れるのは八日後。それまで、よろしく頼むよ。クリスティアーノ王子殿下」
レオン(クリスティアーノ)は楽しそうな笑みを浮かべ、クリスティアーノ(レオン)の肩をたたく。
「お、俺にはクリスの真似なんて無理だ。すぐにばれる」
「大丈夫大丈夫。重要な仕事は粗方終わらせておいたし、わからないものは適当な理由をつけて後回しにしてくれてもいい。たった八日間の我慢だ。立太子すればもっと忙しくなる。こうやって羽を伸ばせるのも今だけなんだ。それに……これは罰なんだから、レオンに拒否権はないんだよ」
「ぐっ」
「それと……ソフィア嬢」
「はい」生唾を飲み込みながらソフィアは姿勢を正し、レオン(クリスティアーノ)を見返した。
「君には八日間の間、城に滞在してもらうよ。名目上は……そうだな、『婚約者との関係修復のため』としておこう。家には私から連絡しておくから安心していい。その代わり、私たちの入れ替わりが周りにバレないように協力してね。それで今回の騒動はチャラにしてあげる」
「は、はい」としか言えないソフィア。
満足げなレオン(クリスティアーノ)を前にして、ソフィアとクリスティアーノ(レオン)は冷や汗を垂らしながら思わず目と目を合わせたのだった。




