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機械少女と獣のロンド  作者: Noyory
5章〜舞闘 /マスカレード〜
22/24

5-4 clockworks/beast rondo

 






 すでに日は落ちた。


 上座文化会館(カルチャーホール)のB棟3階は、一般開放された展望フロアである。訪れた市民に自分達が住まう最先端モデル都市の美しく、そして流麗な景観を一望してもらう為の瀟洒なフロア。3面を透明かつ分厚い硝子壁で造られたこのフロアは、文化会館の“前面“となる。この階にはない至極短い連絡通路を渡った先は、公務目的でのみ使用されるA棟となる。

 建物正面となるエントランスがあるほうに顔を向けていれば、視界いっぱいに上座市の遠方まで見渡せる仕様だ。しかし今では都市上空を幾重にも占領する環状道路(フリーウェイ)によってだいぶ遮られていた。だがそれを都市技術の進歩の証と捉える者にとっては、今でも充分に壮観だった。

 しかしこのフロアで一面だけ、外部が見えない普通の造りの壁面がある。理由はそのすぐ向こうにA棟があるせいだが、外から見るとその隙間は(スリット)程度のわずかなものでしかない。その為外見からでは建物が2棟あるようには見えなかった。

 前半分がBで後ろがAというのは順序としては逆な印象を受ける。しかし一般市民に開放されているのがBまでで、主に社会的に重責を担う者が使用するのがAだと考えれば少し分かり易いかもしれない。つまりこのホールの性質が、どちらの来訪者を優先している施設であるか、ということが理解できるだろう。

 現在、フロアは薄闇に覆われている。その理由はこの時刻、A棟のほうで地方物流会議が予定されている為であった。得意の顧客が大挙して訪れるその時刻に備え、B棟は一般市民の入館を早々に終了(シャットアウト)し、エントランス以外のフロアの電力は切断(シャットアウト)されていた。光源はといえば都市の発する人工的な、遠い夜の光がわずかに入って来るだけだ。


 そんな広大な薄闇の中…まるでどこまでも続く黒い平野のような場所で、機械人形(クロック・ワークス)人狼(ルー・ガルー)は対峙していた。


 




ーcrockworks rondo-2ー 





 


 わたしは笑っていた。

 なぜかもよくわからない。憎しみ、喜び、悲しみ、怒り、そのすべてが綯い交ぜになって笑顔を形作っていた。


 それでも頭は冷静に、どうやってこの男を殺すか、それだけを考えて身体を支配(コントロール)している。名付けた通り、機械人形のように。


 相手の顔にも余裕の笑み。

 切宮一狼(キリミヤ・イチロウ)。上下共に身体にフィットした黒い服。中途半端に長い金髪。獣のように鋭い目、口、そして変態的な嗜虐嗜好を持つ人の皮を被った狼男(ルー・ガルー)。かつてわたしを散々殴り、嬲り尽くした男。わたしの罵声、悲鳴、哀願を喰らい、ついでに命がけの嘘を喰らわせた狼の笑み。それを見るのは不愉快極まりないのに口元が綻んだ。

 やはりわたしの心は壊れている。ちぐはぐだ。


 瞬間、暗闇に火花。


 右腕の刃が硬質な何かにぶつかり切宮の寸前で弾かれた。刃はあさっての方向に飛び、弾かれた先にあった何かのオブジェを粉々に粉砕する。薄闇のせいで何にぶつかったのかは見えなかった。

「速えな、食いつき損ねた」切宮の楽しそうな声。

「今のが?」自然に聞いていた。こんなぐちゃぐちゃの感情が渦巻いているのに、この男と口を聞ける自分が不可解極まりない。

「そ。“人狼“(ルー・ガルー)だよ」

「じゃあこっちは見損ねた」

 2人とも笑ったままの応答。わたしが足を踏み出しても切宮は動かない。両手をポケットに収めたままこちらの次の手を待っている。そんな雰囲気だった。ならば素直に応じて、今度こそ“人狼”を見てやろう。

 転換(コンバート)。剥き出しの生身の左腕が割れ、その内側から鋼の繊維を顕す。

 機械人形(クロック・ワークス)、わたしの意思の現出した心象(シンボル)。それらを紡ぎ、絡め、組み合わせ、シンプルな鋼鉄の錐(ギムレット)を創り出す。無数に。その転換を一秒とかけずに整え5mほど離れた切宮に放つ。仕留める気などない、相手の心象を見極める為の(デコイ)だ。

 切宮は不敵な笑みを浮かべ、見せつけるようにゆっくりと顕現(インカーネイト)した。黒煙のような粒子が一瞬だけ見え、切宮の周辺から息を呑むような呼吸の音を耳が捉えた。


 そしてこの目で見た。

 切宮の心象たる無数の“顎”(アギト)を。


 突然空間に顕れたずらりと並ぶ歯、歯、歯。ただそれだけだった。呼吸音はそれらが口が開いた音だった。上下顎を備えた顔の無い歯列、それが群れをなし、大口を開けてわたしの鋼鉄を待ち構えていた。そして一斉に齧り付き、硬質の物体同士が削り合う金属の音。まるで下手なヴァイオリンのように長々と響く。


「へえ…硬いな。噛み切れねえ」

 料理の品評でもするように、切宮が舌をなぞる。

「あんたにぴったり…すごく“下品“な心象(シンボル)

 こちらも負けずに言い返す。左手に噛みついた餓鬼共は諦めるということを知らなかった。むしろ何としても食い千切らんと勢いを増し、がむしゃらに、何度も何度も音をかき鳴らす。

 それを無視し、あくまで切宮本体を狙う。右脚を振り上げ一瞬で巨大な杭(パイル)を創り出し、それを圧力(ピストン)で撃ち出す。今見た顎のサイズではとても頬張れない巨大な鉄塊の射出。それでも切宮は動かなかった。

 その手前。いきなり何も無い“虚空が裂けた“。それは切宮の浮かべる口元の笑みとそっくりの形で、しかも怪獣の口かと思えるほど巨大な笑みの出現だった。そして、その“にやけた“亀裂が嗤うように歯を覗かせる。


 一息に開口(オープン)、そして閉口クローズ


 鋼鉄と牙の軋み合う鈍い音が響き渡る。わたしは踏み潰す、もしくは踏み抜くつもりで力を込める。それを怪獣の牙が耳障りな響きを上げ、文字通り“歯止め“をかける。

 膠着。一進も一退もせずお互いに拮抗した。わたしの鋼は牙を貫けず、切宮の牙も鋼鉄(わたし)を噛み砕けない。

「…時間の無駄か」

 呟く。わたしはため息とともに左手、そして右脚の鋼鉄を“切断“した。音を立て、元々の手足の形だけ残し、噛み付かれた鋼鉄と分離することでわたしはその均衡から離脱した。

「お?」牙が音を立てて残った鋼鉄を噛み砕く。その間に後退、背後の闇に吸い込まれるように潜り込む。

「へええ…分離したりもできんのか」

 咀嚼を終え虚空へと帰る歯列、その主が感心したように言う。その頃には身体は元の生身に戻っていた。

「花菜ちゃんの一部じゃ無くなった瞬間、一気に歯応えが無くなった。つまりその鋼鉄の硬度は花菜ちゃんの意思と同調(シンクロ)してんな。俺の“歯牙”(グリンズ)でも噛み切れねえってのは鋼なんてレベルじゃねぇぞ、ダイヤモンドより硬えってことだ」

「…そちらも性格通り“人を喰った“能力ね」

 闇に身を潜め相手を窺う。10数mも離れると相手の姿はまるで見えなくなった。“剥き出しの笑み“(グリンズ)か。名付けのセンスも品性がない。しかし厄介な能力なのは間違いない。突然顕れる牙、しかもわたしの鋼鉄に匹敵する硬さ。

 足音を悟られないよう、それから兵士の死体に足を取られぬよう、わたしはそっと動いた。目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。先手を取り、あの牙の隙をつく為に。

「しかし嬉しいね、ようやく“フォークロア〈109〉(ワン・オー・ナイン)“を拝めて」

 切宮が暗闇に呼びかけるように大声で言った。気配がばれるのなどお構い無しのようだ。よっぽど能力に自信があるのだろう。しかしその呼称名(コールサイン)に覚えはなかった。でもそれがわたしのことを指しているのは分かる。どうせ名付け好きの四条が考えた名前だろう、どうでもいい。

「わたしは別に会えなくてもよかった」

「おや?つれねえな」

「…けどね」

 額の傷をなぞりながら目を開ける。薄闇越しに見当違いのほうを向いた切宮が見えた。

「もし出会ったら絶対に殺す。そう思ってた」

 笑いながら言ってやる。目を丸くして驚く切宮の顔。切宮は次第に顔を俯かせ、肩を震わせだした。その時にはわたしは完全に切宮の背後を取っていた。


 脚のピストン、そして加速機構(アクセラレータ)

 一番馴染む機械化形態(スタイル)での不意打ち(バックアタック)


「ッハハハッ!女は怖いなあ!」

 切宮は爆笑していた。コンマ一秒でその首に両手の機刃(ギミック)が届く。


 耳に残る金属の残響、腕に軌跡を弾かれた感触。限界速度で飛ぶように突っ込んでいたので視界が追いついてなかった。相手の前に抜けながら上下逆さまに振り返ると、やはり切宮の左右にグリンズ。腕に痺れを感じながら、思わず舌を打つ。

 最高速での不意打ち。それをその場から一歩も動かず、苦もなく捌かれた。向こうはまるで何事もなかったように変わらぬ無防備。わたしは睨みながら再び切宮の前に着地する。

「いやあ、久しぶりに嬉しいや。こんなにぞくぞく来たのはいつぶりかな。因縁ってやつはいいねえ…楽しい仕事になりそうだ」

 切宮の目が凄味を増した。暗闇でも見えるほどのぎらつき。口調は変わらないがこの男なりに本腰を入れたのが窺える。

「改めて御挨拶をしとこう。ユピテル外部機関“SOS“の切宮一狼だ。呼称名(コールサイン)人狼(ルー・ガルー)。別に覚えなくていいぜ、あんた俺に消されるから」

 一度聞いた名前。

 SOS…リンもそうだと言っていた。

 ゆらりとした足取りで切宮がようやく動く。闇の中、わたしのほうへと、真っ直ぐに。お互いもう闇に慣れていた。そしてインカーネイトの遣い方に、なによりも人殺しに。

「SOSって暗殺部隊かなにかなの?」

 大して興味も無いのに聞いていた。この手で殺したリンの顔が過ぎったせいか。知ったところでどうにもならないのに。 

「うーん、どうなんだろうな。この間まで俺は外国(よそ)の戦争を手伝ってた。だから一応軍属ではあるけど。この街にいた頃は色々やったな…企業の撹乱、ヤクザの真似事、ギャングに潜入したりもした。まあ暗殺もたしかにあったな」

 曖昧な答え。こいつ自身よく分かってなさそうだ。

「ただ間違いないのは、俺達がインカーネイターに対するインカーネイターの機関だってこと。過去の仕事も全部それ絡みだよ」

 切宮は得意気な顔で闇を抜けて近づいてくる。待ち構える。そしてようやく視認できたのか、わたしの今の姿を見て口笛を吹いた。

「かっこいいな」

 一番馴染むスタイル。両手に身の丈を超える長大な可変式の鎌(サイズ)。それを二の腕のギアから形成し、両手は対応しやすいよう手の形のまま。両脚もブーツを履いたように機械化し、鳥類を模した鈎爪(タイロン)がフロアを踏みしめていた。 

呼称名コールサイン“生ける歯車”(ライブギア)。その仕様(スペック)は意思を鋼鉄として顕現し、自らの身体に創り出す歯車(ギア)を基礎とすることで無限の機構を生み出す、典型的な転換者(コンバータ)。つまりカテゴリC、だったな?」

機械人形(クロック・ワークス)よ。“生“(ライブ)はいらない」

 訂正する。頑なに。わたしは四条に付けられたその名を、自分のものだと認める気はなかった。

「機械人形ねえ」

 その答えに切宮が喰いついた。人狼の名の通りのぎらつく目が闇の中でわたしを見据えた。“もう知ってるぞ”と言わんばかりの得意気な顔…他人を虐げることに喜びを見出す嗜虐者の顔。

「たしかにあんたが人形なのは認めるよ。あの時のあんたはまさに俺の人形(オモチャ)だったもんなあ。しかもすげえいい声で鳴いてくれるやつさ…もう一度あの時の気分を、今からたっぷり思い出させてやるよ…宮崎花菜ちゃん?」

 興奮した吐息。変質者のにやけた笑み(グリンズ)。生理的な嫌悪が身体中に溢れる。ただその言葉はわたしの“誓い”、その核心を突いていた。

「ーーそんなやついない。それは仮の名前」

 安い挑発に返す自分の声。まるでお芝居みたいな台詞に吹き出しそうになるのをこらえる。


 結局、わたしは花菜にはなれなかったな。


 宮崎花菜は母さんの願いが創った。本当の娘を亡くした耐えられない喪失感を埋める身代り、それがわたしだった。わたしに与えられた役割、昔はそれがすべてだったこともある。でも、与えてもらったその役割を、わたしは随分前に放棄した。


 出会ってしまったから。


 それはあまりに脆く、儚い存在で、でもだからこそとてもきれいだった。わたしにはそれが無自覚に穢れていくのをただ見ていることなどできなかった。


 だからわたしは彼女の人形になることを決めた。あの子の友達という役割に。誰もが当たり前に持っている、この世にたったひとつの(じぶん)、それをあの子が殺さなくていいように。


 2人で創った小さな箱庭。それを守るのが宮崎花菜の役割だった。なのに、絶対守ると誓った場所はどうしようもなく荒らされてしまった。


 すべてが中途半端。


 結局、宮崎花菜は虚構でしかなかった。


 可笑しい。この男の言う通りだ。

 でもそれでいい。娘の役も友達にもわたしはなりきれなかったけど、まだ機械人形としてなら役割を果たせる。

「…んん?俺なんかおかしなこと言った?」

 気づくと笑っていたようだ。最初のとは違う綯い交ぜな不和の笑いではなく、優しい気持ちの笑顔が自然と浮かんでいた。

「いいえ。おかしいのはわたし」

「あん?」

 頭を振り気を取り直す。笑顔を消す。そして両手のサイズを構え、脚を踏みしめた。



「わたしはカノン。ただの人形。それでいい」

  


 数秒の間視線を交わす。

 お互いに一歩踏み出せば手が届きそうな至近距離。


 切宮がポケットから、ゆっくり右手を出す。



 それが合図だった。







ーbeast rondoー






 “あの時“の悲鳴。あれはよかった。

 そいつを思い出すだけで口の緩みが抑えられない。ましてやその相手が生き返って俺を睨んでるとしたらどう感じる?


 適当に右手を振るった。仕留める気もないゴーサイン代わり。もちろん顕現した状態でだ。さすがにあの鎌に素の腕を放れば1秒後にはおさらばしてるだろう。これからって時に片腕ってのはさすがに勘弁してほしい。

 グリンズ付きの俺の右手をライブギアが受ける。速い速い、俺もけっこう速いほうだけど寸分違わず真芯を捉えてきやがる。インカーネイターとの戦闘に慣れてる証拠だ。

 弾かれた右手、その指でピアノを弾くみたいにグリンズを顕す。指の動きひとつひとつに対応した牙をライブギアにけしかける。違う、機械人形(クロック・ワークス)だ。グリンズは俺の意思次第でいくつでも同時に顕せる。俺の認識範囲内であれば100単位でもいける。花菜ちゃ…いや、たしかカノンだっけ?そいつの全方位を囲うように口を創ってみた。さてどうする?


 かくして俺の音楽センスってやつが分かった。まるで洗練されていない牙と鋼鉄が擦り合う耳障りな音、これが結果だ。そもそも音楽なんて大して興味がない。アップテンポでビートが速けりゃなんでもいいさ。しかしそれが俺と“天使もどき”が奏でていたとすりゃどうだ?うん、悪くない。

「洒落てるじゃん」

 思わず口に出しちまった。だって目の前の女が背中から翼を生やしたんだ、なにか言ってやったほうがいい。しかもそいつが鋼鉄で創られてるってんだから驚きだ。

 カノンはその翼に包まって隙間からこっちを睨んでる。ああいいね、その目。本気で俺を殺ろうとしてる。話しかけるトーンがあまりに平坦すぎたから、本当に機械になっちまったのかと心配してたんだ。


 やっぱあんた人間だよ。可哀想なくらい人間だ。


 実はずっと前から知ってた。あんた、自分より大事なもんを見つけちまったんだろ?そんで自分の心を殺してそいつを守ろうとしてんだろ?あの時も、今もさ。そんなことできるのは、愚かな愚かな人間だけだよ。


 俺だけがそれを知ってる。

 一度あんたを喰った、俺だけが。


 翼が割れた。いや、開いたんだ。そして収納していたやたら長い(サイズ)を俺に振り上げてきた。もう気がついた時には手遅れ。俺はこの能力のせいで運動とか体術なんかとは無縁だ。今までも本能のままに動いて何とかしてきた。それで対応するにはカノンちゃん、速すぎ。

 だけどグリンズの牙は自動的なんだよ。俺に迫る危険ってやつを察して貪り喰う番犬(ペット)みたいなもんなんだ。

 耳元で鋼の砕ける音。あーあ、やっちまった。カノンちゃん自慢の鋼鉄を粉々にしちまった。すぐそこで本人がびっくりして目を見開いてる。

「…なんで…」

 おかしい、硬度は互角なはずなのにって言いたそうな顔。

「悪いな。だって俺、今俄然やる気まんまんだもん」

 そんなドロドロした怒りを露わにされちゃどうしようもないって。どんどん欲深くなっていっちまう。

 俺の願望には底がないんだ。欲しがれば欲しがるだけ牙が強くなる、そういう能力なんだよ。だって俺は、もうあんたを嬲って、嬲り尽くして、もう一度味わいたくてたまらねえ。あの苦痛の“甘さ“を、“苦味”を、もう一回だけーー


 ーーと。まだ、まだ堪えろ。カノンはすぐさま鋼を再生してきてる。さらに俺を睨みつけまだまだやる気だ。付き合ってやらねえと勿体なさすぎる。俺にとっちゃ一度喰ったご馳走をまた喰える機会なんてまず無いからな。


 カノンの機械人形クロック・ワークスはすげえ。きっとすげえんだろう。残念ながら俺にはほとんど見えない。目にも止まらぬってのはこういうのを言うんだろうな。さっきから周りで鋼と牙のぶつかり合う音がひっきりなしだ。カノンはもう視界にはほとんどいない。近づいては離れ、離れては迫るの繰り返し。それでも俺は何もしなくても傷つかねえし、グリンズけしかけても噛み切れねえ。なんだよ、お前も硬度上がったんじゃね?意思の力ってのはすげえよな、お互い。限界なんてあって無きが如しってか?


 カノンの口から鋭い呼気。何かやろうとしてる。そうそう、本気で俺を殺るつもりなら急いだほうがいい。なんせもうーー


 ーーほっぺたに痛みが差した。鋭いなにかに切られたような感じ。驚いて見ると、細く細く創った刃がグリンズの隙間を縫い、顔の横に抜けてきていた。針金みたいな細い刃を目にも止まらぬ速さで飛ばしたってことか。

 初めての経験だ。戦闘中に負傷するなどこれまで無かった。カノンはその一瞬であっという間に俺の懐に入ってた。ほとんどくっついてると言っていい距離にカノンがいる。

「…いける」

 そんな呟きが聞こえた。両腕のサイズが俺を挟んだ。


 いけるだと?このガキ。


 たったそれだけ。そんな取るに足らない言葉と擦り傷ひとつで、俺のちゃちな精神は簡単に暴走する。


「調子に乗んじゃねえよ…!」


 気がついたら本気を出しちまってた。力任せの怒り任せに腕を振り上げてしまっていた。俺の内なる本当の牙をーー咬魔(バイツ)と名付けたとっておきをーー思いきり機械人形に食らわせちまっていた。予定では全然まだ早いのに。


 グリンズとは一味も二味も違う本物のアギト。俺の中で生じる黒い粒子で、めちゃくちゃに書き殴った落書きみたいな悪魔の牙。この黒いぐちゃぐちゃが、俺の心の“飢え“から生じる本物の顎らしい。ボスがそう分析していた。そんでうっかり出しちまった咬魔(バイツ)は易々と迫るサイズを喰い潰し、そしてそのままカノンへ振り下ろした。


 左腕の全部と、脇腹を斜めに抉り喰った。


 ちくしょう、やっちまった。ああでも思った通りだ。とてつもなく硬い鋼を突き破ると、その下から生の肉々しさを感じた。これがカノンの本質ってやつだ。バイツは相手の心象までも貪り喰う顕現だ。俺の飢えは相手の心までしっかり頂く。


 カノンの絶叫が轟く。

 俺も叫びたかった。何故ならその感覚を喰らった俺もおんなじ痛みを味わっているに等しい。正確にはカノンの心覚全てを味覚として味わっていた。その無念、被虐、苦痛、諦念、忍耐、絶望、希望、全てがごちゃ混ぜになった情念(パトス)が極上の美味となって俺を襲っていた。


 ああ、濃密な負の味。


 飢えが満たされる喜びに浸ってると、カノンが転がるように後退した。苦痛に呻きながら、千切れた鋼鉄を撒き散らしながらも俺から距離を取る。思ったよりも機敏なのには驚いた。しかし本当に驚いたのはその後だ。

 鋼鉄の繊維が無くなったカノンの腕部から飛び出した。そしてほんの一瞬で、あろうことか再び左腕を創り出しやがったんだ。

「なにい?…」さすがに呆れたぜ。鋼の線が瞬く間に編まれてって、しかも“生身”に戻ったんだから。口に残った味が飛んじまうような光景だ。

「ぐぅ…ゔゔぅ…!」

 俺を睨む目が血走っていた。左腕は元通りだが、ダメージはあるようだ。右手を腹の方に当てている。

「…んん?」

 カノンはすでにケルビムとかの返り血でけっこう血まみれだ。元々白い制服が黒くなるくらい。そのせいで分かりにくいが、どうやら脇腹からは血が流れ出てるまんまだ。

「…ああ、そういうことか」

 なるほど、転換(コンバート)だ。つまり機械化してる所はカノンの身体が心象に入れ替わってんだな。だから例え実際には生身の部位でも、クロック・ワークスが顕れていれば肉体には影響しない。つまりその鋼鉄の部位に関しちゃ噛みつこうが切り離そうが、カノンに痛みはないってことだ。

「脇腹は転換が間に合わなかったみたいだな」

「こんなの…大したことない…!」

「いやあるだろ。左腕まるごと噛みちぎられた痛みだ、気を失ってもおかしくない。バイツは本質を喰らうから、たとえ転換してても“本質”を喰らう」

 自分でも不気味に思う笑いがこみ上げる。なぜならそれを感じた“カノンの痛み”を、俺は快感に変えて味わったからだ。

「…バイ、ツ…?」

 さっきまで涼しげだった顔に汗が滲んでる。痛みをこらえて歪んでる。すげえいい。そっちのほうが魅力的だ。

「さっきの黒い牙のこと。あれが俺の本質だ。俺の“飢え“の心象で、それを充たす為の牙。俺はそいつを通して喰ったものの味を感じることができる」

 カノンの顔が今度は怯気に染まった。おぞましいものを見た時の嫌悪と忌避を表した表情だ。

「…味を、感じる…?」

「正確には味覚として|“感情”を味わう。肉と、骨と、カノンってやつの“ここ”をね」

 胸を指しながら説明する。本当はその味を説明してやりたかった。だけどとても言葉なんかじゃ伝わらない。それがどんなに悲哀に満ちて、愚かで滑稽で、だからこそ美味なんだってことをどうやって伝えたらいい?

「…まさか…あの時も…?」

“あの時”。そう、あの時もだ。

 カノンの顔。屈辱と羞恥が入り混じった顔。

 やばい、俺今すげえ顔で笑ってる。

「もちろん。“血を舐めた“。それで充分なんだ。あんたの額の傷から、キスするみたいに啜ってやった。うまかったよ」

 そう言ってやった時のカノンの目。一回停電したみたいに真っ暗になって、すぐに怒りで煮えたぎったその目。絶望、屈辱、羞恥を乗り越えてきた憎悪の瞳。

「うま、かった…?」


 もう駄目。我慢すんの終わり。


 俺、ほんとこいつ好き。


 もうぶちまけて喰っちまおう。


 俺好みにトッピングして、機械人形の“中味“を。


 カノンがふらりと立ち上がった。粒子が舞う。鈍色の粒子。カノンの鋼鉄の意思の色。血が止まっていた。食い破ったんで剥き出しの脇腹が針金みたいなもんで止血されていた。痛そうだ。

 顔を上げたその目も鈍色に光ってた。名乗った通り機械みたいな見開いた瞳。怒ってる怒ってる。動かないんじゃないかと思っていた左腕もさっきとおんなじ鎌を携えて機械化した。きっと痛えだろうに、まるで何も感じてなさそうな顔してる。

「馬鹿にするな…下衆」

 喋ると口から鈍色の煙が漏れ出ていた。



 最っ高。間違いなく過去最高級の食材だぜ。





ーcrockworks/beast rondoー





 2人の凶器が交錯する。

 鋼鉄を喰い破る音、そして歪な歯列がもがれる音。


 さっきまでとは違うレベルでの拮抗。お互いの顕現が鋭さを増し硬度が追いついていなかった。

「ハハッ!あんたもやる気が出てきたか?」

「嗤うなっ!!」

 カノンは目を見開き追撃する。生理的な嫌悪感が身体中に走りっぱなしだった。刃が新たに顕れたグリンズと衝突し、互いを粉々に粉砕する。すぐさま新たな機刃の創出、そしてまた斬撃、相討ち。周囲に雪のような鋼鉄の破片が舞う。

「あの時あんたは何かを隠してた…それが何かまで分かんないのが俺の欠点だな。あんたが守ろうとしていたのが何かは、結局あんたが言わねえから分かんなかった」

 ふいに牙の群れを突破したカノンの鋼鉄。切宮は後ろに跳ぶようにひらりと躱した。

「逃げるな!」わずかも離れず追従する。切宮が下がる度に残す置き土産(グリンズ)を、カノンは尽く切り裂き追った。もう刃は砕けなかった。

「すっげえな…!」

「あの時、あんたに殴られた痛み…悪夢みたいに終わらない苦しみ、悔しくて悔しくてもなにもできない地獄…」

 とてつもなく巨大な鎌の形成。怒りの顕現。

「それが、うまかった…?」

 頭が真っ白になるほどカノンは怒っていた。死にたくなるほどの拷問、その苦しみ。そこから逃れたくて口をつく哀願、そして諦め。その感情を喰って、“うまかった“だと?

 創られたのはまるで死神の鎌(デスサイズ)のように禍々しく歪んだ切っ先。それが切宮を上下双方から襲った。

「あんたなんか、死んだほうがいい…!!」

 本能的な判断。切宮は突き動かされるように横に跳び、死神の鎌の軌道から逸れた。



 天井から硝子壁、そして床までに深い亀裂。

 研ぎ澄まされた超高音域の残響が尾を引いた。



 再び距離が空く。そして闇が戻ってきた。闇の中、カノンは息を弾ませながら顔を抑える。

 強く、強く。押し殺すように。

「落ち着け…覗かれたって平気…わたしに…心なんてない、要らない…!わたしは人形でいい…!!」


「と、思いたいだけだろ?〈109〉(ワン・オー・ナイン)

 

 切宮が闇の向こうから言った。

「うお…真っ二つ寸前じゃん…すげえな」と呟き感嘆する声がぎりぎり聞こえる。切宮はあの一瞬でそれだけ遠く、闇の中へ逃げていた。


 その闇から再び呼びかける声が届く。

「109。これ、なんの数字か分かるか?」

「…知らない…わたしのことを言ってるのは分かる」

 カノンもう切宮と話すのも辛かった。自分の苦痛、屈辱を知り、それを笑う男と口を聞きたい者などいないだろう。

「まあそうだといやあそうだ…元々この呼称名(サイン)正体不明の犯人(アンノウン)に付けられたサインだった。ある時突然始まったカテゴリFの連続消失事件。その実行者を指した隠語だ」

 “追憶“(フラッシュバック)の到来。

 カノンの脳裏に“彼ら“の死に顔がスライドのように流れた。 

「109の由来は調査が開始された当時、“あんたが“始末した失敗例(ファルス)の数だよ。そしてあんたが俺らに目を付けられた理由だ」

 顔、顔、顔。どれも死んでしまった後の顔。

 わたしが殺した。機械のように、ただ殺した。

「最初は何故消えるのか分からなかった。どういう現象なのかも。しかしそこにフォークロアが絡んでる可能性が出てきてから事態が変わった。奴らの代表が何度か消えた奴らの周辺に顔を出してるのがわかったんだ。フォークロアがファルスを消している可能性が出てきた。四条さんにとってインカーネイターは宝物なんだ、例え失敗例だとしてもな。それが無為に喪われていくのを黙って見過ごすなんてありえない。俺ら(SOS)は総動員でこの都市に入り犯人を探すことになった」

 カノンはそんな切宮の説明を聞くともなく聞いていた。脳裏にはさらに増える死に顔(デスマスク)のスライド、そして血に濡れた自分の機刃(クロック・ワークス)

「敵はボスの探知能力を知っていた。その回避方法も、そして血痕ひとつ残さない死体の処理技術も持っている。明らかに組織の線が有力だったんだが…フォークロアに怪しい動きはなかった。姿を見せず、普通の電子取引会社として業務を行なってるだけだ。だからSOSは網を張った。それまで消えた109人のプロフィールから人格傾向と行動範囲を予測し、その重なる地域に張り付いていた…ここまで話せば、あとはあんたも知ってる話だろ?」

「…それが、どうしたの?」

「解答編でもやろうかなって趣向だよ」

 暗闇の声が近づいてくる。周囲は鋼鉄と牙のぶつかる火花が無ければもうほとんど何も見えないほどの暗黒だった。

「結果は俺が当たりくじだった。決め手は匂いさ。趣味のおかげで血の匂いには敏感だからさ。あんたから濃い血の匂いを嗅いだその夜…それが、あんたと俺の“お楽しみ”の日(ハッピーデイ)だよ」

 

 カノンにとっては天罰の日だった。


 追憶の悲鳴(フラッシュバック)


『何も知らない、やめて、赦して、お願い、家に帰して…痛い、痛いの、もう殴らないで、死にたくない、本当に何も知らないの、やめてよ、やめて、知らない、知らない知らない知らない!!!』


 憎悪と屈辱が蘇る。カノンにとってはつい昨日の記憶と変わらない。

「あの時点では俺達の標的は宮崎花菜、あんただった。ファルスを殺しまくる〈109〉を始末する。ただそれだけだったんだ。当たりを引いた俺は喜んだ。あんたの顔を見た四条さんから聞いていたからな。『この娘はかつて箱庭にいた』と。だがとんだ期待外れだった。あんたは何も知らない振りをし、俺に無抵抗で殴られ続けるだけ。まあ必死で隠し通そうとするあんたを嬲るのは結構楽しめたけど。あんたからするとそうするしかなかったんだな。なぜならそれだけがーー」


「ーーそれだけが真綾の存在を隠し通す、最悪だけど唯一の方法だったから」

 カノンは自分から闇に向かって告白した。もう声すら聞きたくなかった。

「あんたは証拠をペラペラと並べ立て、わたしに自白するよう暴力で迫った。吐き気がした…あんたの性癖に。今もずっと…!…でもおかげで気がついた。あんた達が真綾のことには何も気がついていないことに」

「そうそう…それで?」声と共に靴音が聞こえ出した。もうそんなに遠くない。

「だからわたしがやったと認めるわけにはいかなかった。それは四条に真綾の存在を教えることになるから…もう知られてしまっているらしいけど」

“理想の顕現者”(イデアライザ)。四条さんはそう名付けた」


 その時、闇が滾る音がした。


「本当にいるとはね…ちょっと驚きだ。俺は永遠の探しもので終わると思ってた」

(…何の音?)

 何も見えない。だが目の前の闇が蠢いていた。そして超高電圧が流れる時に発するような、低い音が断続的に聞こえ出した。

「四条さんの推論通りだったみたいだな。“もしイデアライザが存在すれば、自分で精神を制御できないファルスは必ずそれに引き寄せられる”。救いを求めて…そう言ってた」

 カノンは両腕のサイズを偃月刀(シミター)に再構成した。だいぶ接近しているし、向こうも何かをしている。小回りが効くほうがやりやすい。そう判断した。

「で、あんたはその救いを求める“なり損ない”共を、片っ端から殺していたわけか。109人…いや、それ以上」

 切宮の嫌な笑みが見えそうな声。

 そう、そうだ。それが真綾を守るということだった。カノンの立てた誓いだった。

「わたしからすればあいつらは亡者よ。自分の心すら制御できない意思の弱い奴ら…そんな奴らの為に真綾が犠牲になる必要ない」

「犠牲?」

 そうだ、お前らは何も知らない。たしかに真綾にはファルスを救うことができた。でもあの子が“どうやって“彼らを救うのかを知らない。こいつも、四条も、茜でさえ、その度に真綾が穢れていくのを知らない。

「だからわたしが守る。あの子には触れさせない」

「守る、守るねえ…そいつは違うな」

 意外な返答。

 なぜか、その否定にカノンは激しく苛立った。

「何がよ!」


 近づく気配。来る。カノンはシミターを構え腰を落とした。


「とぼけるなよ。あんたの感情(こころ)を喰った俺には分かる。それが嘘だってことにあんたがとっくに気づいてんのがな。だからこそ、あんたは自分を機械人形なんて呼ぶんだ」


 苛立ち。構えた手が怒りに震える。

「さっさとこい!」 


 その声と同時に、闇を引き摺り切宮が現れた。


 その姿にカノンの目が見開かれる。


 狼のような嗤う顔。禍々しい黒い異形。切宮の全身は、闇より深い、黒の不定形な人型と化していた。


 その人型が切宮の声で口をきいた。


「さあて…こっからはあんたの真実だ、機械人形。その中身を、俺がぶちまけてやるぜ」






ーcrockworks downー






 結論から言うと、カノンは最初から負けていた。



 カノンは人狼(ルー・ガルー)をカテゴリB=“形成偏向者“(ビルダー)と呼ばれるカテゴリだと誤認していた。しかし空間に物質を形成する能力は主にカテゴリBに区分されるので、その認識は一概に誤りだとはいえない。

 しかし実際には、切宮一狼は典型的なカテゴリA=“元型”(アーキタイプ)のカテゴリだった。カテゴリAは自らの心象を形の無い概念から創造する、最も顕現能力者らしい顕現能力者を指す。そしてこのカテゴリで最も主要な要素は、彼らの能力がダイレクトに精神に影響を及ぼせるということにある。元々の能力の質が違うのだ。


 だがしかし、たとえその誤認が無くとも両者の戦闘は避けられなかっただろう。


 機械人形(クロック・ワークス)人狼(ルー・ガルー)。そのどちらにも際立った自我あり、なによりお互い忘れえぬ因縁が2人にはあった。


 そして決着は、もう着いてしまった。 

 




 喉が潰れ、ようやくカノンの悲鳴が消えたタイミングを見計らって切宮は喋り出した。その姿はもう金髪の青年のものに戻っている。

「探りを入れるのに接近し、何度か会って、あんたが俺に気を許すまでの間…あんたは一度も背原真綾の存在を匂わせなかった。それには感心する。徹底的にあんたらの関係を他人から不可侵にしていた証拠だ。あんたの中で背原真綾は絶対的存在…そう言っても過言じゃねえんだろう」


 切宮は片手でだいぶ軽くなったカノンを吊るしていた。体積は半分ほどに減少しているかもしれない。なぜならカノンはその四肢すべてを半分以上喪っていたからだ。


「だから俺の拷問に対してずっと“否認”していられた。箱庭に居たことも、ファルスを殺しまくったことも、インカーネイターであることも、全て知らぬ存ぜぬと嘘を突き通せた。どんなに殴られようとも、あんたにはそれができた。ファルスの大量失踪…その原因を、頭のイカれた殺人狂のインカーネイターが、ただその能力を遣うためだけにやったように見せかけることができた…自己犠牲ってやつか。それはすべて背原真綾を守る為だからこそできたことだ。それだけが機械人形を動かす動力源ってやつだった」

「…ァ…い、まの、は…」

「ああ…“化身”(インカーネイト)だよ。ただしその最上位級(ハイエンドモデル)ってだけだ。あんたは強い。あんたがもし本当に機械だったら勝てたかもな。だが感情がある人間じゃ俺には勝てない。それだけのことだよ」

「…ぅ…」

 身を持って牙を体験したカノンは認めざるを得なかった。身体だけでなく、心まで喰い荒らされる痛み。四肢は鋼鉄部分を引きちぎるように()いでいる。再生は可能だ。だがその鋼鉄の材料たる精神がズタズタになっていた。


 声を枯らし、耐え難い痛みに噎せ返りながら、カノンはついさっき見た異常な光景を思い返した。



 一瞬だった。


 闇の中から現れた切宮は獣のように動いた。


 切宮が咬魔(バイツ)と呼んだ、黒い塗料でぐちゃぐちゃに書き殴ったような不定形の牙。それが全身に広がったような漆黒の人型をカノンは見た。

 反射的に振るった鋼鉄は黒い人型に触れた途端喰われた。触れた部分から生まれたバイツによって。そしてカノンが痛みを覚える前に、どこから顕れたかもわからない黒い牙によって両脚ごと噛み切られた。

 地に転がる前に髪を掴まれ宙に浮いていた。

 激痛に叫び出す頃、ようやくカノンは黒い人型をはっきりと捉えた。それは狼の頭部を持つ、名前通りの黒い人狼(ルー・ガルー)そのものだった。


「…あ…」

 カノンは自分の頬が濡れていることに気づいた。それが身体の損傷によるものか、精神を齧られたものによるのかもはや判然としなかった。ただ間違いないのは、自分がただ遊ばれていたという実感と、今この男がのたまった自分の行い、その全てが無に帰したという事実だ。

「守る…そこなんだ。俺にはあんたがそうやって自分を騙す意味がわからねえ」

 また…苛立つ。もう身体も動かない。声も出ない。それでも目だけは睨み返す。向こうも睨み返してきた。

「なんで言わない」

 こいつは何を言っているんだろう。早く殺せばいいのに。それでお前の仕事は終わる。わたしは結局全てに中途半端なまま、死ぬ。


 もうそれでいいじゃない。


「あんたは背原真綾を独り占めしたかった。誰にも渡したくなかった、ただそれだけだろうが」


「…ち…」

 違う。そう言いたかったが声が出ない。しかし切宮はその呟きだけでこちらの否定を察した。顔が近づけられる。吊るされていて逃れようがない。

「違わないね。あんたはそうやって自分を誤魔化してるだけだ。たぶんファルスを殺し続けていく内に、あんたはその罪に耐えきれなくなった。それで背原真綾の為って理由で責任逃れしようとしてんだ。そんな必要ないのに」

 もし今カノンが口をきけたとしても、返す言葉がなかった。その通りだったからだ。切宮の言う通り、本当はとっくに自分で気がついていた。

「感情ってのは素直だ。それを喰って感じた俺が言うんだ、間違いない。あんたの根っこにあるのは自分を正当化する虚構で覆われた、背原真綾への好意だけだ。狂おしいほどの好きだって思いだけだ。それ以外の犠牲心とか誓いとかは、俺から言わせりゃただの言い訳の上塗りでしかない。あんたは、あんたの好きなもんを独占する為に人殺しを繰り返していた。それを認めろよ。自分を機械の人形みたいに偽るのをやめてさ」

「う…るさい…はやく…ころせ」

 カノンは声を絞り出した。絞り出して懇願していた。自分の醜い…少なくとも醜いと思える部分を暴き出す声を聞いていたくなかった。分かっているのだ。自分が卑怯で残酷な奴なのは分かっているのだ。

「こ、ろせ…」

「いいぜえ。あんたが俺と同じだと認めんならな」

 切宮は待ちかねていたようにそう言った。事実切宮はその言葉を待っていた。カノンにそれを言わせる為、ただそれだけのために長い説明をしていたのだ。

「あんたは俺のことが大っ嫌いらしい。そう“感じた“。クズとかゲスとか好き放題言ってくれたが…だが実際のとこ俺とあんたの何が違う?好きで人を甚振る俺と、好きな奴を独り占めする為に群がる奴らを殺したあんた、何が違う?」

「こ…ろ…せ…ころ…して…」

 カノンはずっと呟き続けていた。もはや切宮の言葉など聞こえていないかのように。ただ間違いなく聞こえているのが切宮には分かる。なぜならカノンの目には悲鳴を上げた時とは違う、新たな涙が流れ出していたからだ。

 カノンの顎を持ち上げ、美味そうに眺めながら切宮は囁き続けた。これは彼の儀式だった。いい食材を自分好みに“味付け”(トッピング)する為の下拵えだった。

「認めろ。誰かの為じゃない、“自分の為だった“と、それだけでいいよ…カノンは俺と同じ、ゲスで、クズな自分勝手な“人間“だと認めな、“機械人形”。そうしたら殺してやる。この辛い現実って舞台から降ろしてやるよ」

 カノンはその一言一句に打ちのめされていた。かつて同じ男に受けた実際の暴力よりずっと残酷だった。そしてもうその提案に抗うだけの意思が砕け散っていた。すぐ間近に切宮の顔があった。もはや瀕死のカノンの声が、どんなに掠れた小声でも聞き漏らさないように接近していた。

 カノンの顔が僅かに上がり、口元が動いた。


「ーーーー」

 

 その言葉。その潤んだ瞳、ズタズタの意思、さっきまでと打って変わったか弱い少女の顔。

 それを聞き、間近で見た切宮に今までの比ではない恍惚の表情が浮かぶ。そして飛びつくようにカノンの首筋に歯を立て、そこから流れる血を貪った。


 儀式(セレモニィ)は成った。


 切宮は宙を仰ぎ哄笑を上げた。カノンのこの上ない絶望、屈辱、そして自己の墜落をその口内で味わい尽くしながら。全身が震えていた。いや、五感すべてが喜びで震えていた。自らの大好物であり主食でもある“絶望の感情“を喰らい、飢えが充たされていく喜びに歓声を上げて。


 切宮はその瞬間からカノンに何の興味も無くなった。だからゴミを放るように近くにあった穴…下階へと降りる吹き抜けの螺旋階段に投げ飛ばした。歓喜に震える喜びで、カノンに止めを刺す約束などすっかり忘れていた。 




 どれくらいそうしていたのかは切宮にも分からなかった。今まで無かったほどの絶頂を何度か味わい、気づけば腰が抜けたように座り込み、全身汗まみれで、放心したように真っ暗な外を見つめていた。



 その遥か上空から“光”が降ってきた。


 その光景を見て、自分のボスが言っていたことを思い出した。今日が“始まり”だということを。これからさっきのような機会が日常へと変貌する世界が始まるということを。



 口元にいつものにやけた笑み(グリンズ)が戻る。

「ようやく…メインステージだな」


 その美しいとさえ言える光景に己の欲望を投影しながら、人狼ルー・ガルーは3度目となる光災、その到来を見つめていた。


 

 

 

 


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