5-2 masquerade on the edge
ー1ー
舞踏会。
私はその時の出来事をそう呼ぶ。文化会館という舞台の上で繰り広げられた彼らの舞踏を。
その時ここは、世界の“核”だった。
そう言っても過言ではない。なんといっても今これを書いている私が、いや、私達人類が体験している“超現実の世界”は、全てここから始まったのだから。
しかし彼らを恨むのは筋違いというものだろう。あの場にいた彼ら、彼女らの起こした行動は、自らの信じたものを、ただ守ろうとしただけなのだ。
誰かを。あるいはなにかを守るために。
ひとりひとりが、それぞれの方向へ踏み出しただけ。その対象が世界であるか、もしくは社会か、親友か、兄弟か…愛する者か。それだけの違いでしかない。
私はそう思う。そう思ったのだから、それが私なりの意思の顕現だ。
誰も悪くない。
そこに集った者たちも、己の意思に従って衝突しただけだ。さながらダンスを踊るように、敵と味方を交換しあいながら。
その結果が、今の世界を創ったのだ。
「…来た」
その口火、宮崎花菜が閉じていた目を開く。
「急に、この中に…一体…」
戸惑いの呟き。突然花菜に覚えのある闇の気配が感覚された。それもすぐ近く、おそらくこの建物の中で。
「…あいつだ」
四条の側近、黒いスーツの男。その顕現の気配。花菜が確信したと同時に、カルチャーホール屋上の出入り口が勢いよく開かれた。
重装兵の最小戦闘単位8名の強襲。
「呼称名“生ける歯車”と接触。即時攻撃する」
有無を言わせぬ一斉掃射が花菜を見舞う。しかし何十発もの弾丸は花菜に触れる寸前で、喧しい金属音を響かせ砕け散った。
静かなるインカーネイトの発現。一瞬にして背中から生まれた鋼鉄の可変翼が全身を覆い、弾丸を弾いていた。
「…こいつらがケルビム」
ゆっくりと立ち上がる鋼鉄の少女は、自分に銃口を向ける装甲服の一群と向き合う。
「…“今日はよく会うわね”」
謎かけのような花菜の言葉を無視し、先頭のケルビムが指示を出す。
「可変翼の隙間を狙え。ライブギアの〈偏向〉では全身機械化はできない。本体は生身だ」
「まるで昔から知ってるような言い方…」
再びの掃射。一矢乱れぬという形容がぴったりな集中砲火を、花菜は今度は受けなかった。鋼の翼が地に突き刺さり、ピストン式にその身を宙高く放り投げる。
夕暮れの太陽を背に黒い塊となった花菜は、逆光でケルビムの照準から外れた。その一瞬に花菜の反撃が降り注ぐ。
機械化した脚での踏みつけが先頭のケルビムの頭を割る。硬いヘルメットを簡単に砕く、上空からの鉄鎚の雨。
連続するピストンと駆動の音。次々と兵士を踏み砕く鉄鎚、鉄鎚、鉄鎚。
「失礼ね、スカートを履いた女を見上げるなんて」
鈍色の粒子を吐きつつ花菜は言う。
上向いたケルビムの頭を、花菜はリズムを刻むように踏み潰し続けた。5人目のヘルメットを砕いたあとにようやく応射された弾丸を、花菜は空中旋回して弾き着地する。その時にはすでに弾丸を弾いた機械の腕が、2人の兵士の身を切り裂いていた。
最後のケルビムが銃を構える。しかし加速機構と機械仕掛けの駆動を併用する花菜のほうが遥かに早い。花菜は銃身を真っ二つに切断し、ケルビムの頭部を殴りつける。ヘルメットが砕け、異国の男の顔が晒された。
無表情。痛みも死の恐怖も感じられない平静な顔。男と花菜の目が合う。
「…野口史織の時から違和感はあった。なぜお前は知るはずのないことを知っている、ライブギア」
「あなたもね」
男はまるで以前から知っているように花菜に問い掛けた。花菜の嫌う呼称名まで知っている。
「情報源は誰だ」
「答える義理はないわ、“ティーチャ”」
無言で見つめてくる目がわずかに大きくなる。花菜はそれを肯定だと捉えた。
「…本当にそうなんだ…ティーチャ。いいえ、エクスアイ。ケルビムの兵士達は、すべてユピテルの端末なのね」
「コード“レッド”。ライブギアの発言が非開示情報に触れた。削除指定を要請する」
その言葉は花菜に向けられたものではない。端末である個体から、上位の誰かへの呼びかけだった。
「四条巽にお伺いしてるの?やはりもうここにいるのね」
「彼はいる。しかし“我々には関係ない”」
首筋に刃を当てられたエクスアイの言葉に、花菜は眉を寄せる。「どういう意味?」
「彼は我々の序列関係にはいない…更新が受理されたぞ、ライブギア。お前は我々ケルビムの削除対象に指定された」
男が腰のナイフに手を伸ばす。しかしそれは自殺行為だ。
「その名で呼ぶなと、何度も言ったはずよ」
花菜の右手が素早く動き、崩れ落ちるケルビムの命を終わらせる。最後の言葉もなく、端末はその機能を終えた。
「序列に、いない…?」
意味不明だった。この都市での最上位者は四条ではないのか。ならばケルビム…実際は都市を監視する端末、エクスアイの上位者とは誰なのか。
疑問を掻き消す、重々しい、いくつもの駆け足が迫る音。
関係ない。花菜は頭に浮かんだ疑問を呼気とともに外に追い出す。彼女にとっては、真綾を狙う四条だけを排除すればいいことに変わりはないのだ。
ただ、少し敵が増えただけ。
「ライブギアを発見。まだ屋上にいる。動ける班は集まれ」
さっきのケルビムのコールに反応した班の到着。箱庭が無くなった日と同じ状況。だが少しもこわくないのが不思議だった。むしろ花菜は、はじめて自分の意思で怪物になりたいと願っていた。背原真綾を守るためだけの怪物に。
さらに班の到着。増えつつあるケルビムの群れ。
四肢の換装。花菜の鋼の意思の顕現。
銃弾の雨と無数の兵士の迎える舞踏会に躍り出る。
鋼鉄の脚は迷いなく渦中へ踏み出した。
ー2ー
「2人とも座る気はなさそうだね。まるでこれから殺し合いでもはじめそうな目だ」
マコトはそう言って笑う四条巽と九龍隼人の2人を不敵に見返している。ただしその眼は、物理的にではなく新たに得た感覚のビジョンを見ていた。
その視界には四条達の心が可視化されたシンボルが、回路の形を模して表示されている。だから相手に本当に敵意がないことが観察できた。心象回路の心眼の中では、四条から親しみを帯びた“心線”がこちらへ向けられているのが視える。言葉通りの歓迎の顕れ。そしてもう1人のサングラスの男のほうは、まるで心が壊れているかのように回路が沈黙している。妙な反応だが、とりあえず急に襲って来る気は無い。
「どうやら攫う必要、ないよ」
「…たしかに。向こうも話をする気満々だ」
アオイも同意する。
『呼んだのは向こうだからな…俺が話そう。スピーカにしてくれ』
タチバナの即断。アオイは端末の設定を切り替え、四条の前のテーブルに置いた。
『話すのは初めてだな、四条巽』
タチバナの言葉による前奏の宣誓。
「招待に応じてくれてよかった。君らの所在をロストしてしまったのでこういう方法で招くしかなかったことを詫びよう。橘直陰君だね。君とは是非一緒に仕事がしたかったが、残念だ」
『未来永劫それはない。隠し事の多い奴と仕事をする気はないんでな』
「手厳しい。職業柄致し方ないことだがね」苦笑を交えた四条の回答。
「だが今この場だけは真実を語ると約束しよう。そのために呼んだのだから」
タチバナの吐息が聞こえる。おそらくため息とともに煙草の煙を吐いたもの。
『目的はそれか。切宮一狼の名がマコトとリンクした時点で、俺達を誘っているとは思った。その理由がまさか説明会だとは思わなかったがな』
「ふふ…そう。我々は君達と敵対する気はない」
その言葉に、アオイがしかめた顔で抗議する。
「俺のとこには大男が来たぞ、SOSとやらのひとりが。そのせいで車がお釈迦にされて、散々殴られた」
「ボルツのことか」四条が笑う。
「あの時は君らが万に一つでもこの都市から出て行くのを防ぎたかったからね。多少強引でも邪魔をしろと言ってあった。彼は君のことを随分気に入ったようだったよ、アオイ君」
「そりゃあ嬉しくないな」
アオイは本当に嫌そうに顔を歪める。
『まずは切宮一狼から聞こう』
タチバナの切り返し。
「ふむ」
四条が訳知り顔で頷く。
「彼の名が君らを呼ぶ“招待状”代わりだったから当然だな。残念ながら彼は“野暮用”でまだここにはいない。だがその質問は真琴君の妹…真綾さんの安否とイコールだな?」
「それは知ってるってことだね」マコトが割り込む。
『お前たちがなぜ俺達を重視しているのかは疑問だが…マヤもそうだということか。あいつがインカーネイターだという俺たちの推論は間違っていない。そうだな?』
四条の眉が片方だけ上がる。
「ほう…我々がそう気付いたのは今日の今日なのだが…君らもそこに気付いたというなら大したものだ。それとも彼女がインカ―ネイトを発現しているのを見たかね?もしかして君らの誰かが、直接その能力を垣間見たのかな?だとしたら是非教えてほしいものだ」
その質問には誰も答えない。四条の顔から笑みが消えたせいだ。その問いに含まれた異様な真剣さが、四条に真綾の情報を与えてはいけないと全員に思わせた。“それが欲しくて堪らない”という熱意を、端末越しに離れて会話するタチバナまでが感じ取っていた。
「彼女を確保しているのは我々ではない。が、無論どこにいるかは把握している。こちらの確認不足で危ない場面もあったが、今は安全だ」
四条の背後に立つ九龍が言う。
「それは分かってる。知りたいのは場所だよ」マコトの返答。九龍が見返して言う。
「おや。心象回路では分からない?ふうん…あくまでも“心”が感覚されるだけ、ということか」
興味深げな物言いにマコトは無反応に見える。しかしアオイにはマコトが焦れているのが伝わる。それこそ今にも飛びかかりそうなほどに。
「どこ?」
「“隠れ家”」
九龍の返答。
「…なんだよそれ」
「気の利いた名前だろ?そういう名前の店がここのすぐ前の通りにあるのだよ。背原真綾さんはもうすぐそこに着く頃だ」
アオイの質問に九龍の解説。マコトが動くには充分な返答。
「迎えに行くのかね?」
『なにか問題が?話なら俺が聞こう。2人にも端末を通して会話は伝わる』
「さあ、それはどうだろう?」
タチバナの提案に疑問符で四条が答える。マコトは問い掛けには無反応で、もはや四条達への関心を無くし背を向けていたのでかわりにアオイが答えた。
「マヤちゃんの無事を確認したらすぐ戻るさ。それまではタチバナと話してろ」
「結構だが道中気をつけたまえ。この部屋の外はすでに危険地帯だ。機械人形とケルビムの争いに巻き込まれないように」
「機械人形?」
「彼女は自ら望んで“世界”と敵対してしまった。君らは幸いまだ“監視対象”の状態だから、下手なことはしないことだ」その言葉に九龍の訂正が入る。
「もう手遅れです。彼らは案内の男を無力化している。我らの領域であるこの部屋を出た時点で危険視されるでしょう」
「そうだったか。なら一層注意するように。君達にもいてもらいたかったがね」
四条は少し残念そうにマコトの背中に言う。
「なんの話か分かんねえよ」
『俺が聞いておく。耳はこっちに向けておけ』
アオイの苦情をタチバナが受ける。
『なんにせよ何かは起こる。気をつけろ』
部屋から出る直前に、マコトは思い出したように振り返った。そして四条達を見て言葉を残す。
「忠告しとく。マヤになにかする気なら許さない」
マコトの心動を顕わすように空気が凍る。そうして威嚇した後で2人は部屋を出た。有家は完全に蚊帳の外なのにも関わらず放置されてしまった格好だ。四条と九龍、そして自分という本来ならば絶好の取材体制が整った状況だが、とてもそれを切り出す雰囲気ではない。
『ケルビム達はあんたの管轄だろう。あの2人の邪魔をしないよう指示を出せないか?』
タチバナの指摘に四条はこともなく返した。
「そう思うのも無理はないが…実際は私とケルビムはそのような関係性にない。現在この都市の主権を握っているのは、むしろ彼らのほうだ」
意外な言葉。不意を衝かれたようにタチバナが沈黙する。有家もその解答は予想外だった。
『…詳しく聞きたいな』
「それを話す為に来てもらったのだ。我々と立ち位置の異なる、君達“同志”に」
有家が初めて見る四条の真剣な顔。タチバナには見えないが、声に籠る真摯な響きは感じ取れた。
『タチバナさんよぉ』
そこにずっと沈黙していた男の緊張感のない声が割り込む。
『…なんだ』
「そいつらの言ってたマコちゃんの妹が来る店だけどさ。俺らが溜まってんのって、その店だぜ。ハイド・アンド・シークだっけ?けどまだそれらしい子はいねえな』
ー3ー
『なんであいつらが出る前に言わない』
予想通りタチバナから飛んできた怒りの声に、イオリは予感していた通り心底うんざりした。
「しょうがねえだろ、俺もマキに聞いて店の名前知ったんだから。いちいち入る時に名前なんて見るかよ」
『普通見るだろうが』
「ごめん、俺がすぐ思い出せばよかった」謝罪するマキにため息で答えるタチバナ。
『2人とも聞こえたか?』
ーー沈黙。少し待っても2人からの応答はない。
「…ありゃ?こいつ調子悪いんじゃねえ?」インカムを小突きながらイオリがぼやく。
『ケルビムの電子妨害だな』
タチバナではない男の声が聞こえる。
『顕現能力を顕す際に電子を媒介してるのは君達も知っているな?その対抗措置だ。この近辺一帯はノイズだらけになっていることだろう』
『それはお前達も困るんじゃないか?』
『“我々”はな。ケルビムからすれば電子を媒介に意思を顕す、対インカーネイターの基本プロトコルだ。加えて彼ら端末はもともと単一の存在なので、行動目的の共有に通信を必要としない』
タチバナの問いに滑らかに答える声。しかしイオリには意味不明だった。分かったのはマコトとアオイに連絡が取れないことと、電波の状況がすこぶる悪いということくらいだ。
「なあ、それってまずいんじゃないの?」横にいるマキが言う。
「なにがだよ」「電子を疎外されるってことはお前とかアオイさんの、インターなんたらって超能力が使えなくなるってことだろ?まずいだろ」
「んなこたあねえよ、心配すんな」
イオリは簡単に答える。マキやロボスの仲間には、自分達の能力のことはとっくに話している。タチバナも了承済みだ。タチバナに言わせれば、協力させるのだから真実を話す義務があると思ったらしいが、イオリからすればどうでもいいことだった。
ロボスにいる奴らはそんなことを気にしない。むしろこの能力を羨ましがったくらいだ。イオリの気の置けない彼ら悪童は、今が楽しければそれでいい、快楽主義と常識破綻者ばかりである。それは世間的には批判だろうが、イオリからすれば最上の褒め言葉だ。
『妨害があるのを知ってる風だったな、四条…なぜあいつらを止めなかった』
『止めても聞かんだろう?あれほどの殺気を放たれては、怖くてとても口にできんよ』
四条がおどけるように言うが、イオリはその通りだと思った。マコトの行動を止めることなど誰にも出来ない。言うだけ無駄だ。マコトにとっては言葉など無意味。だからこそイオリはマコトが気に入っていて、愛くるしくて堪らない存在なのだ。
『…イオリ、お前の方から迎えに行け。そのほうが早い』
「りょーかい」
タチバナも同じことを考えたのかそう言ってきた。イオリ達ロボスはこういう不測の事態に備える別働隊だった。その為に文化会館に近いこの店で待機していたのだ。
店内には総勢50人ほどの仲間達が席を埋めている。時々馬鹿笑いが上がるが彼らにすれば行儀良くしているほうだろう。カウンタにいるのは痩せた30くらいの男で、特にこちらを気にする様子もない。しかしこんな路地の影にある店で、こんなに客が入ることはまずないだろう。それを気にしないのが少し変ではある。
「ってことで行ってくるわ。マキはここ頼む」
イオリは勢いをつけて席を立つ。
「了解。妹さんが来たら連絡する、顔知らねえけど」
「マコちゃんそっくりらしいから分かるんじゃね?きっとめちゃ可愛い子だぜ」
マキが鼻で笑うのを背にイオリは入口へ向かった。
その時ちょうど店の男が顔を上げる。扉が開き、さらに客が入店してきた。それも団体だ。無言でぞろぞろと入ってくる中の1人が男に声をかけた。目が髪で隠れた男。その後ろからもまだ入ってくる。もう店内はパンクではないかと思いながら、イオリは彼らとすれ違いに店を出ようとした。
そしてちょうど扉の前で、最後に入って来た男と鉢合わせる。
「…あ」
目つきの悪い、安っぽいスーツの男。イオリは自分より頭二つほど背の高いその男の顔を見て声を漏らした。男の顔を、イオリはよく知っていた。それはスーツの男も同じで狐につままれたような顔を自分に向けてきている。その顔が、見る間に悪鬼のような形相に変わった。
「なんで…」こんなとこにいるんだよ。そう続けようとした言葉は最後まで発せられなかった。なぜなら言葉の途中で相手の拳が“炸裂”し、イオリの顔面にめりこんだからだ。
その圧倒的な“暴力”に、イオリは痛みと共に懐かしさを覚える。そして同時に親近感と嫌悪、憧憬と憎しみ、果ては愛情と殺意という彼にしては珍しい複雑な感情を一瞬に感覚した。
「イオリ!」
自分の席を飛び越えて店の壁を突き破ったリーダーの姿に、マキはその暴力の実行者を睨み返した。だがその眼力は相手を認識すると急速に力を失った。
「…早、鷹さん…?」
憤怒の表情でこちらへ歩を進める刑事、早鷹。マキもまた彼のことを知っていた。
嫌というほどに。
「…お前、まだその馬鹿とつるんでたのか…!」
自分の姿を見てさらに怒りを増した早鷹に、マキは叱られる前の子供のような心境に陥った。“彼の言葉は絶対”。脳裏に刷り込まれた昔の習性がマキの行動を阻害する。その泳いだ目に、早鷹の傍らにいる1人の少女の姿が映った。
びっくりした表情の、背原真琴に瓜二つな少女。
「タチバナさん…マコちゃんの妹…見つけた…」
だがそれがマキの精一杯だった。近づいて来る悪鬼の怒りに当てられ、体が内臓から震える。
叱られる。彼の言葉を破ったから。
マキの体と思考は恐慌に陥り、完全に動くのを止めた。
ー4ー
早鷹と共に入店した儀依航は、突然の刑事の暴挙に我が目を疑った。彼に殴られた男が店の壁を派手に破壊し、その中に埋もれていった。
「何やってんだあんた!」
「黙ってろ」
店内がざわつく。どうやら店に溢れる先客達は殴られた男の連れのようだった。揃いも揃って柄の悪い、典型的な悪童どもがこちらを威嚇している。全員が白を基調にしたファッション。
“悪戯小僧”の連中だ。儀依はすぐにそう気付いた。よりによってこんな時に、こんな立ちの悪い連中と事を構えるのはごめんだったが、早鷹の眼中には入っていない。その横顔を見て、少しの間この刑事と行動を共にした儀依は、彼が今までにないほど怒っているのに気づいた。
「どうしたんです?」楯無の問い。目が隠れていて表情は分からない。
「同行するのはここまでだ。完全に私用で悪いが、俺にはどうしてもあいつをぶちのめす必要がある」
「この街全体を巻き込む、なにか大きな仕掛けが動き出そうとしている。そんな時にも関わらず、ですか?」
「世界の終わりが来ると言われてもだ。あいつの性根を叩き直す。それが俺の責任だ」
早鷹は足を止めず、楯無にそう言って別れを告げる。それを離れて見ていた真綾は不安げに、愉迦は冷めた目で見ているだけだった。
「にゃーんか…因縁がある相手みたいだねえ」
「あの、と、止めなくていいの?」
真綾の声に愉迦は放っておけと言わんばかりに手をひらつかせて返す。
「もうあたしらの顔見せは済んだんだからいいでしょ。あとはあのオッサンの気持ち次第だからね。でしょ、アカネ?」
「あまり騒ぎを起こしてほしくなかったけど、まあそうだね」
その言葉に愉迦の目はますます熱を失う。
「……あー、やっぱホントにただ見てるだけのつもりだったんだね…あいつらが今から大ごとしようとしてるのを、ただ見てるだけのつもりだったんだ」
千笠の冷たい視線は、今は楯無に向けられている。
「そう言ったはずだよ。大事だからこそ、危険を犯してでも何が起こるか把握しておく必要“だけ”はあるって。フォークロアから積極的に介入する気はないとも言ったね」
「…あーっそ…」
大層不満げに答えた愉迦は、喋るのをやめてただ早鷹を目で追う。その顔に冷めているが真剣な目と、拗ねたようにとんがった唇を表して。なぜかは分からないが、真綾にはそれがどこか、早鷹の行動を羨ましがっているように見えた。
早鷹は目の前で震えるマキの肩を掴み、力任せに横に退かせた。いくら男の振りをしていると言っても、殴ったらこちらの後味が悪いだけだ。
壁を突き破り、今は足だけが見える威織に向かって、つばを吐くように言葉を放つ。
「立て。これぐらいですむと思うなよ、威織」
早鷹は本心からそう思っていた。もうこの馬鹿に対しては殺しても飽き足らないくらい心も体も割いている。だから早鷹は、一度殴り殺してからその償いをさせるのが筋だと本気で思っていた。今ここで出会ったからには、早鷹の中でそれが最優先事項だ。それをこの街の大事と天秤に掛けても。
「アハ…ハハハッアハハ!ハハハハハハハハハハハハハッッッ!」
笑い声が店内に谺する。それは当然足しか見えない男のものだ。こいつがこの程度で音を上げるはずがないことは早鷹も分かっている。
もっと徹底的に、壊して、壊して、壊し尽くさない限り矯正させる術がないのは早鷹も知っている。
自分と同じように。
だから早鷹は、それを自分で行うと決めていた。
もうずっと前から。
「ガキの遊びはもう終わりだ。お前は俺が現実に叩き落としてやる。手遅れになる前にな」
爆音が答えた。
中途半端に壊れた壁を、イオリが完璧に突き破る音。立ち上がる反動で放った脚で、イオリはその破壊を完成させた。
その結果、イオリは店外の路地に降り立っていた。周囲には誰もいない。いたのかもしれないが危険を察して退避している。今から来る男以外、誰もここには立ち寄らない。入れない。
「おあつらえ向きじゃん」
イオリはいつもの邪悪な笑みを浮かべる。その時には今の状況も、馬鹿なりに考えていたこの街の現状も全て吹き飛んでいた。
ただ、マコトのことだけが一瞬脳裏をよぎる。彼が関心の全てを寄せ、それを一身に受ける、まだ自分が顔も見たことのない妹のことが。
「わりぃ、個人的問題発生。迎えには行けねえや」
イオリはそれだけ言うと、ぎりぎりで耳にくっついていたインカムを引きちぎるように外した。もうすぐそこに自分の“敵”が迫っている。自分だけの敵が。あの眼鏡野郎の愚痴など聞いていられる状況ではない。
そいつが店外に踏み出す足音がやけに大きく響く。
現れる悪鬼の如き男の顔。郷愁と憧れが湧き上がるのを、イオリは心の表面に浮かび上がる前に殺した。
「覚悟はできたか」
悪鬼が言う。イオリはあくまでも鼻で笑って答える。これが自分の強みだと、自分自身に言い聞かせながら。
「覚悟すんのはあんただ。“まとも”に戻ったんならいい加減解放してもらわねえとな、“兄貴”」
ー5ー
四条達にタチバナの声だけを残し、アオイとマコトが部屋を出た直後のこと。
アオイは異変に気付いた。今までクリアなノイズが聞こえていたインカムから、完全に何も聞こえなくなったのだ。横にいるマコトを見ると、やはり指で耳の辺りを叩きながら言う。
「聞こえなくなった」
「故障じゃない、か…てことはやっぱりあんたらの仕業か?」
アオイの声を掛けた相手は、全身同じ装備に身を包んだ物々しい集団だった。顔まで装甲で覆われた重武装の小隊が通路の両端を塞いでいる。
「こいつの仲間かな」
そう言って親指を下に向け、足元で気絶した案内の男を示す。
「ああなるほど…ケルビムとかいう兵隊さんの仲間だったってことか。まいったな」
兵士らは各々が、アオイの目にしたこともない大きな小銃を2人に向けている。しかし不思議と何も怖くなかった。それらが今の自分達を殺すには全く役不足であることが感覚として理解できたからだ。
「無茶をしたのは悪かった。でも俺達はただこいつの妹を迎えに行くだけだ。もう何もしないから平和的にいこう」
両手を上げるアオイと動かないマコト。お互い背中合わせになって、両翼に展開する黒い兵士と睨み合う。
「呼称名サイコ・サーキットとスピリット・シェイプ。お前達はその部屋を出ることを許されていない」班の中ほどの1人が言う。
「市長の許可はもらった」
その言葉に、また別のケルビムが答える。
「四条巽にそのような権限は付与されていない。我々の統一情報では四条、並びに君達2名の自由が認められているのはそこのゲストルーム内だけだ」
「九龍って奴は?」
「あれに関しては許可対象ではない。君達監視対象2名は、グレードの移行が完了するまではその部屋に留まることを求める」
今度はマコトの側の兵士が答えた。返答者はばらばらだが、その口調はすべて均一なトーン。まるで全員が同じ人格を共有でもしているかのようだった。
「言うことを聞く気はない。邪魔するな」
マコトはそう言いながらハートの制御装置を外した。アオイも同じく耳を飾るスペードを外す。
「世界がどうこう言う前に家族の無事を確認したいってだけだ。少しは気を利かせろよ、あんたらまるで機械みたいだぜ」
「その認識は間違いではない。忠告する。もしそこから一歩でも進めば強制的に無力化することになる。この銃の弾丸は鎮圧用のラバーシェルだが、当たれば重傷なことに変わりはない」
「一応こっちも忠告はしたからな」
マコトも、アオイも躊躇なくその一歩を踏み出した。それぞれの進路を塞ぐ人の壁に向かって。
ケルビムも淀みなく、プログラムに従うように攻撃態勢を整える。
「そっちは任せるぞ」「昔みたいにね」
短い会話を交わして、2人はお互いの敵に神経を集中する。
ケルビムが放った弾丸。
しかし発砲されたのは“半分”だけだった。アオイの相対する、ゲストルームから見て右の小隊は弾丸を吐き出していない。
「異常発生。銃…いや、指が機能不全を…」
先頭の兵士に低い前傾の突進で辿り着いたアオイの戦闘開始。
力任せの右スイングで目前の兵士を宙に舞わせたあと、アオイはすぐさま次の相手に目を向けた。兵士らは銃を諦めて腰に手を伸ばす。その間に加速機構の閃光を迸らせ、アオイはさらに2人の兵士に直線的な拳を叩き込んだ。
滑り込むような独特の歩法でさらに次へ。拳法と功夫を混ぜ合わせたような機動で動くアオイは、瞬く間に5人を倒す。最後の1人がようやく鎮圧用警備棒を構え、アオイに向けて振りかぶった。しかしその動作はアオイの眼前でぴたりと止まる。
「残念、手遅れだ」
そう言って、アオイは胸を指す。兵士がそれにつられて視線を落とした。
「これが…」その胸に、奇妙な“鍵穴”が表示されていた。そしてそこに、剣のような鍵が突き刺さっている。
「そう。なんでもかんでも拘束したがる、俺のインカーネイトってやつだ」
掌底が顎を捉える。強烈に脳内をシェイクされた最後の兵士は一瞬にして意識を失い、膝から崩れ落ちた。
一方マコトに向かった数十発の弾丸、その行方はどこでもない“途中”で終わっていた。
マコトの前方約1メートルくらいの空間で弾丸は静止していた。マコトはなにもしていない。ただその手には“心”を象った回路が、能力発現の象徴として浮かび上がっていた。
こういうことだ。
そうマコトは理解した。心が顕れるということは、自分の意思が現実に作用するということなのだ。
マコトの領域は、自分を中心に約1メートルくらいの範囲らしい。そしてその領域こそが自分の精神の世界だった。
弾丸が地に転がる。同時にマコトは駆け出していた。
リズムを刻むようなマコトの戦いのはじまり。
迫る自己精神の怪物に、ケルビムの集中放火が降りそそぐ。その悉くの機動をマコトは捻じ曲げ、自分は真っ直ぐに相手へと突き進む。
一番近い兵士の顔に鋭い右足。それを踏み台に空中へ飛ぶ。マコトの戦闘に攻撃と防御の区別はない。全ての反動を次の動作へと変換して、空間を跳ね回るような立体攻撃がはじまる。
首を刈り取りかねない一撃で2人目を昏倒させ、そのまま空中で3人目も蹴り飛ばす。発条仕掛けのように壁を蹴り、次を狙う。
通路を無軌道に飛び交う弾丸と、同じく跳弾のように跳ね回るマコトが支配した。
それもほんの数秒のこと。
ほとんど同時に全員を倒した2人。お互いにしっかりと相手の戦いを見ていたわけではない。しかしその深化は伝わってきた。
「なんか“掴んだ”って感じだな」
「アオイもね」
歩み寄ってきたアオイの言葉にマコトが頷く。先日の戦闘での経験を経て、2人とも自身のインカーネイトを把握した感覚を得ていた。それは自分の意思の輪郭に、はっきりとした形ができたようなクリアな感覚だった。
「また来る。さっきよりも多い」
大勢の動く足音が聞こえる。重量がある分、その足音も大きく響いている。
「まだすぐ戻れるぜ。俺達の自由が許可されてるらしい場所に」
アオイが出てきた部屋のドアを見ながら言った。
「その選択肢は最初から無い。僕の自由は僕が決める」
マコトはケルビムが来ている通路の先へ進む。その方向が正面ロビーに向かう通路だった。
「選択があるとするなら、僕1人で行くか、アオイも来るかのどっちかだよ」
「一緒に来てって素直に言え」
後ろから頭をはたく。マコトは避けもせずはたかれながら足を進める。本当はアオイがついて来ないなどと思ってもいない、マコトにしては珍しいジョークに近い発言だった。
「お前と2人で暴れるの何年ぶりだっけな」
「さあね」
アオイが肩を回し首を鳴らす。マコトが確かめるように踵を鳴らし、リズミカルな音を鳴らす。
通路の先から無数のケルビムの大編成。
「止まれ。これ以上は許容できない。さらにセキュリティが上がる前に…」
マコトもアオイも聞いていない。
もはや言葉ではなく、行動で顕わすつもりしか2人の頭にはなかった。
粒子が舞う。
銃口が迎える。
2人の行進は、まだ始まったばかりだった。




