3-5 redemption`s krump
―1―
虚像と実像が入り交じる視界に血が舞った。
躱したつもりの相手の足刀が頬を掠め、鋭く深く抉った。
その血が狗井の顔を濡らす。残りは暗いホールの床に吸い込まれるように消える。光量は映画を上映中の時のまま薄暗く、床に落ちた血はすぐに闇に紛れた。
“加速機構”によって人間の肉を引き裂くことに特化した鉤爪のような掌打。それも虚しく空を切り、小柄な標的も血と同じように薄闇に消える。
“猟犬”の予測視界が完全に狂っている。
いや、これで正常なのだ。その目に映る予測上の敵は、いま狗井の視界八方に浮かんでいた。現実にそんな事があるはずがない。相手は1人だ。
いざ実際に攻撃が来ると、予測上のどれでもない方向からの飛び蹴り。ぎりぎりで右腕で受けるが、それだけで感覚が消失し使いものにならなくなる。
先程までの攻撃とは質が違う。しかしその超高速の攻撃を辛うじてでも凌げているのは、感覚が体に直結したこの能力のおかげだ。
そんな窮地に追い詰められた中、狗井勇吾は不思議な満足感を得ていた。
その満足感をくれた、おそらく自分の最後の相手…背原真琴の攻撃の手は止まることを知らない。
もう曲がらなくなった右腕を左腕で掴む。それを顔の前に無理矢理運び相手の蹴り足の防御にした。どうせもう痛みも感じないから躊躇もない。
重く、速すぎる回し蹴りは小柄な少年から繰り出されたとはとても思えない。その一撃が狗井の右腕をねじ切らんばかりに抉った。
まるで巨人を相手にしているような重厚さ。なのにそれは羽毛のような軽やかさを兼ね備えた矛盾した動きだった。
関節が逆方向に折れ曲がり、それでも勢いを殺せず、狗井は壁に叩きつけられた。相手は反動で飛び退り、ずらりと並ぶホールの鑑賞席、その背掛けのひとつに音も無く着地する。
重力の法則を忘れそうになる優雅さ。現実離れした少年の身のこなしに、狗井はただ目を奪われていた。少年の目も狗井だけを、射抜くように見つめている。
その瞳の大きさ。静かに、冷たい殺意で見開かれたその瞳は、今まで見た何よりも透明だと感じた。
透き通るほどに澄んだ殺意。
不純物のない、混じり気なしの透明さ。
「……大した怪物だ」
そう言った後、口から大量の血液が咳と共に溢れた。どうやら最初の、ほんの一瞬の攻防で受けた攻撃のどれかが内臓を破っていたらしい。まだ戦いが始まって3分と経っていない。なのに自分はもう満身創痍だった。いや、戦いなどと口にするのも恥ずかしい。自分は始まってから一方的に嬲られていただけなのだから。
“規格”が違う。
お互いに顕現能力を遣った状態でやり合って分かった。この少年…背原真琴の“心象回路”は、顕現した時から自分の“猟犬”を遥かに凌駕していた。
一瞬で目前に迫る背原真琴を猟犬の目が捉える。
だが獲物の心身状態を把握し、その行動を予測する視界を創り出す“猟犬”は、もはや無意味な代物だった。
今の狗井にとって背原真琴は人間…いや生物ですらない。狗井の理解の範疇を超えた、別次元の“何か”だった。
少なくとも狗井の認識では、心臓も、脳も血も、筋肉すら使わずに“動く”者は生物ではない。今の背原真琴は一切の生命反応を表さず、物理法則を超越して動く何かに変貌していた。言うなれば、ただ狗井を壊す為だけの怪物に。
全く見えない脚が顔面を襲う。それは先程までの、自らの非力を速度と柔軟さで補うような小細工すらない、勢いまかせの一撃だった。なのにまるで下からダンプカーでも突っ込んできたような衝撃で狗井の歯が幾本も折れ飛ぶ。顎の感覚も無くなった。
(何か…物理的でない“何か”で、動いている…?)
そうとしか考えられない現象だった。宙を何回転かする間、狗井はそんな思考を巡らせていた。
(…それでも、だ)
狗井は地に足が付くと同時に真琴に躍りかかる。自分でも無謀な行為だと思えたが悪い気はしない。
鉤爪が空を切る。と同時に顔面に相手の足がめり込み、砕けた顎を寸分違わずに再度破壊する。それでも構わずに左手を振るい続ける。痛みと共に広がる満足感。それが何に起因するものなのかは、狗井にもまだ分からなかった。渾身の左手が難なく躱される。思えば一度も、この少年にまともに触れることができていない。
急所に躊躇のない蹴り上げ。何かの潰れる感触で反射的に身が竦む。屈んだ格好になって、目線が少年と同じ高さにまで下がった。その眼前に指が迫り、狗井の視界を覆った。
最期に肉眼で見た少年の顔は、やはり透明な無機質。
指先が侵入する感触。そして永遠の暗転。
絶叫。
いや…もしかしたら笑っていたのかも知れない。
こんな大声を出したのはいつぶりだろう。少し遠くからそれを見ている自分がそんな事を思った。
「マヤはどこにいる?」
何故か久しぶりに聞いたように思える少年の声が、自分の悲鳴の隙間から聞こえた。残された“猟犬”の視界だけは未だ機能しており、五感で感覚する世界だけが狗井の目となった。
その中の、不定形な背原真琴の像が問う。真琴が妹の名を呼ぶ時、その姿は大きく揺らぎ、その色を変えた。
「…は、は……俺にも、そこまで思える相手がいればな…」
口の中に血が入り、その味が広がる。
もしこれほどまでに思いを傾けられる相手が自分にいれば、この衝動に身を任せることはなかったのだろうか。狗井はこれまで生きてきて、そんな可能性を初めて考えた。
「うらやま、しいな……少しだけだが…」
「マヤの居場所は?」
同じ質問。もう自分に付き合う気はないようだ。
「……言いたくないなあ…悔しいから教えてやらん…」
そう言って狗井は口元を上げた。
自分が外道なのは知っている。だからここまできたら最後までそうありたい。その思いがおかしくて、やはり自分は笑っているのだと思った。
髪を掴まれ上を向かされる。真琴の顔が自分より上にある。気付けば狗井は跪いていた。処刑を待つ咎人、それが今の狗井であり、また自分がそれを望んでいることを自覚した。
そしてふと、ああそうかと思った。
(俺は、この時を待ち望んでいたのだ、ずっと…)
「じゃあ、もういい」
その言葉と同時に、猟犬の視界の中で少年が変化した。恐らく顕現能力を顕したのだろうが、その姿は不定形過ぎてもはや人の形ではない。表現するなら思考の螺旋。渦を巻く殺意の顕現。
さながら視界一面に広がる万華鏡。
その時突然、不躾な大勢の奇声が“降って”きた。
同時にいくつもの落下音と地面の揺れ。今や猟犬の視界しか持たない狗井には少年の姿以外見えない。だが狗井はその正体に思い至った。
「……ああ…すっかり忘れていた…」
カマキリの仕込んだ薬物中毒の操り人形達だ。狗井はカマキリに、自分の後5分経ったら突入するよう指示していた。どうやら自分のもらったその遊戯の時間が今終わったようだ。
しかしもう今更だった。狗井はもう自分がどうなりたいか、その望みを悟っていた。
「……贖罪…か…我ながらまさかの、だな…」
真琴の目は一瞬たりとも外れなかった。
それが嬉しい。
自分に引導を渡す役がこの少年でよかった。
(これでいい…満足だ)
猟犬の沈黙。狗井の中の猟犬が、初めて獲物を仕留めること無くその目を閉じた。
あとは暗闇の中、その時を待つだけ。
時計の針はいつの間にか0時を過ぎ、変わらぬ一定の速度で新たな一日を刻んでいた。
―2―
その少し前、アオイは映画館“フィルムスプリングス”の近くの路上で、ハッキングした車を乗り捨てた。
周囲は人だかりと警察官でごった返している。野次馬からの盗み聞きによると、どうやらテロ組織の爆破予告があったらしい。
「あんたの仕業か、ナオに…タチバナ」
アオイは全くその呼び方が馴染まなかった。注意しようとはしているが、アオイの中で“ナオ兄”はやはり“ナオ兄”であり、子供の頃からそう呼び続けていた習慣が染み付いていた。そして苗字そのままというのも、アオイからすると逆に抵抗があるのだ。
「……ん?…タチバナ?」
応答が無かった。ここに来るまで常に即座に返答があったタチバナの沈黙。
おそらくマコト、イオリ、そして自分と同時に会話し、尚且その千里眼を駆使して完全なバックアップを提供してきた男の無反応は、ここにきて初めてのことだった。
『……アオイ…』
絞り出したような声が聞こえた。タチバナには珍しい、目的意思の感じられない虚ろな言葉。何か別の事に神経を傾けているような余裕のない返答。
「…どうしたんだよ」
『裏に回ると今は使われてない非常ドアがある…そこの前には機材が積んであるから誰も使用していない。警察からも死角になってる。そこから入れ』
「了解だ…けどなんか様子が変だぞ」
『俺は…しばらく別件に入る。通話を切るぞ…』
「これから?スローターズを潰す一番肝心な時にかよ。そんなに重要な別件なのか?」
『マヤが、攫われた』
「……なに?」
あまりの突拍子の無さに思考が停止する。
今なんと言った?まるで予想外の方向から殴られたような衝撃。何故今このタイミングでマヤの名が出てくるのか。
「攫われたって誰に?」
『スローターズのチャット。そいつから証拠の画像が狗井に送られてきたのを確認した』
「もう狗井って奴と接触したのか?」
『だがもう問題はそいつじゃない…まずいのはマコトだ。あいつもマヤが攫われたことを知った。このままだと、まず間違いなく無茶をする…』
「……あの時と同じ…!」
過去の記憶が甦る。マコトが常に制御装置を着ける事になった、その契機となった事件を。
アオイは知らない内に駆け出していた。さっきよりも遥かに焦っているのが自分でも分かる。
ーーあの時……当時中等部だったマコトの通う上座神遙学園で起きた集団昏睡事件。
校内にいた200人近い教師、生徒が意識を喪失して病院に運ばれたその事件は、今でも原因がはっきりしないまま偶発的に発生した有害ガスによるものという曖昧な結論に落ち着いていた。幸いほとんどの生徒は回復し、1ヶ月も経つ頃には学園も平常運転に戻った。しかし、
『僕がやった。多分だけど』
目を覚ましたマコトが最初に言った言葉。
『マヤがいじめを受けてるってクラスの誰かが言ってるのを聞いた。結局は勘違いだったみたいだけど、僕は一応そいつらに確認に行った。話をするだけのつもりだったけど、向こうは最初から喧嘩腰だった。その内勝手に回路が顕れて……覚えてるのはそれだけ』
それだけ。
たったそれだけの勘違いで、百人以上の人間を意識喪失に追い込んだ。同時にマコト自身もその“暴発”に耐えられなかったのか、一週間近く昏倒した。
その時の真琴の担当医の言葉。
『彼…真琴君の脳は他の生徒に比べて極端に影響が…いや、ストレスに近いが……とにかくなにかしらの負荷が遥かに大きい。今は落ち着いています。如何せん原因のはっきりしないものだから何とも言えないですが、彼に影響が最も表れているのは間違いない。もし本当に有毒物によるものが原因なら、彼が一番それに近い所にいた可能性が高いんです。真琴君、何か見たり気付いたりしてないですか?』
近いどころではない。
その“有毒物”こそがマコトだった。
その事件で明らかになった心象回路の仕様の一端。それが齎す精神的破壊、そしてその還元。
心象回路の本質は精神感応だという、事件を聞いたタチバナの断定的な所見。
『そんな超能力じみたものが本当にあるのか疑問だったが、俺もお前も似たようなものを“体現”しているから疑いようがないな。マコトのあの回路は他者の精神と繋がり、共有する機器の具現化だと言える。一方的に侵食しているように見えるが、恐らくあれでも相互干渉しているんだ。ただ真琴の精神…多分拒絶の意志が強過ぎてそう見えるだけで。結論だけ言うと、あの回路を通して他者に干渉した場合、必ず真琴にも負荷が掛かるってことだ。今回のように対象が複数いたとしたら、当然その還元も比例して増加する。相手が何人いようが、その負荷は真琴がただ1人で負う羽目になる』
最悪の予想がよぎる。もし万が一暴発し、周囲に群がるこの野次馬にまで心象回路が発現したらーー
「ほら見ろ…やっぱりアイツには遣わせちゃ駄目なんだ!」
邪魔な通行人をはじき飛ばしながらインカムに怒鳴る。常人を超えた速度で走り抜ける姿を見られるのも構わず、アオイは映画館の裏側へ向かった。
「探せるのかナオ兄!」
「マヤの居場所は、マコトが狗井から聞き出す」
「どうやってだよ!」
「それだけ言ってあいつは通話を切った。戦闘に入った途端、俺の視界も弾き出されたから確証はないが⋯おそらくマコトは、狗井に精神接続して抜き取るつもりだ。それしかない」
「それ本当にできんのかよ⋯!」
アオイの印象では無理だ。あんな勝手に発現するような制御の効かない能力が、そんな細やかな仕事に向いているとは思えない。
「⋯分からんが、俺はあいつを信じる。さっきまでマコトはかなり上手く能力を遣えていた。少しずつだが、あいつも成長しているのは間違いない」
「アレを、制御⋯?」
「実際に見た俺の直感だが、成功する可能性はある。お前も見たらそう思うだろう⋯だからお前達に場所の特定は任せる。俺はその後すぐにマヤの場所へ行くための下準備をしておく」
こちらの返事も聞かずに通話が切れる。それだけでタチバナの焦りが相当なものだと分かる。
あの様子だとタチバナは、おそらく“赤色錯視”で何かしようとしている。だからあんなに気もそぞろだったのだ。文字通り“血眼”になって最善を尽くそうとしているのが分かる。しかしそれでも不安は拭えない。
手遅れになる前に、探せるのか。
そもそもまだ、間に合うのか。
それを問いかける相手も、答えてくれる者もいない。
すぐに裏口は見つかった。その前に積まれた何の機材か分からない鉄材の山を、アオイは力任せに蹴り飛ばした。
“加速機構”によって強化された一発で、盛大な音を立てて機材が乱れ飛ぶ。間違いなく警察に気づかれただろうが、もうそんな事に構う余裕がなかった。
もしもマコトがあの時と同じ状態に陥ったら、それを抑えることができるのは自分だけだ。
アオイにはその確信があった。何故なら自分の顕現能力はその為に備わったものだと、少なくともアオイはそう認識していた。ならばマヤはマコトに任せ、自分は自分のできる事をするしかない。
両方同時には救えない。
「ちくしょう…!」叫びながら扉も蹴破り中に入る。1分1秒が惜しく、無人の通路を駆け抜けた。
2階に並ぶ開きっぱなしのホールの入口、その内のどれかを探すまでもなく、中央辺りから男の絶叫。まるで獣の遠吠えのようなその声の聞こえた場所へ、迷うことなくアオイは飛び込む。
ホールの中は、鮮血の赤に彩られていた。
何も映していない映写機がスクリーンを照らしている。そこに飛び散った夥しい血の色が映写機の光に撹拌され、ホール全体を薄闇の赤に染めていた。そのスクリーンの前に、マコトと満身創痍の男がいた。
舞台の上で跪く男と、その顔を掴み上げたマコトの姿は、まるで劇中から抜け出た一場面のようだった。
「マコト!」
アオイの呼び声。
しかしその声は、幾重にも重なった奇声によって掻き消される。意味のわからない雄叫びを上げながら、数十人の男女が上階…映写室の窓を破り、その隙間から降ってきていた。その中のひとつ、見覚えのある昆虫じみた目の男がアオイを見た。
「カマキリ…!」
「チィ…!“死眼”かよ、やっぱり出やがったか」
着地と同時に大振りのナイフを抜くカマキリ、そして数十人の中毒者がアオイの進路を遮る。マコトの姿が再び遮られ見えなくなった。
「予定変更だお前ら。こっちのハンサムな兄さんを相手しな。どうせ狗井はあの様子じゃ助からねえ」
カマキリの言葉でその場の全員がアオイに向き直る。飢えた亡者達の標的変更。ザイオンの奴隷と化した虚ろな野獣の群れが、入口に立つアオイを取り囲んだ。
「邪魔すんな…!」
焦燥、苛立ち、怒りにまみれ、アオイは顕現能力を発現する。
「もうお前に用はないんだよ!」
「悪いがこっちは準備万端でなあ!」
一斉に全員が動いた。中毒者達がカマキリの異形の凶器を抜き放ちアオイに押し寄せる。対するアオイは多少刺されようが構わない覚悟で前進した。
アオイの両手から青白い粒子が舞う。それは円を創りながら飛散し、カマキリ達を一瞬で呑み込む。
「……なんだ…!」
それに気付いたカマキリが1人だけ後方に飛ぶ。狗井やバルーンの異質な能力を知るカマキリの咄嗟の判断。
アオイはカマキリが自身の領域の外に出たのを感覚したが気にする余裕がなかった。すぐそこまで迫った中毒者の凶器がアオイの頬や脚を掠めていく。
“精神具象”の物質形成、その“連環刑”。
青白い輪が収束し、刹那の速度で半物質化されていく。アオイの領域内にいた中毒者達の腕や足を、次々と顕現した黒い枷が拘束していった。
施錠の音。独特の金属音の連続。
それと同時に鎖の鳴らす金属の音が続く。その鎖によって枷同士が繋ぎ合わされ、ほんの瞬く間に中毒者達全員が雁字搦めに連結された。
ぎりぎりで領域の外に出ていたカマキリの驚愕。
「…これも顕現能力ってやつかよ……!」
アオイはもうカマキリを見ていなかった。腰を抜かしたカマキリと無駄に藻掻き回る中毒者を尻目にマコトの方へと向かう。
「やってられねえ…どいつもこいつもバケモンじゃねえか」
後ろから聞こえるカマキリのぼやき。
ああそうさ。だがたとえそうでもあいつが自ら化物になる事はさせない。
その為の俺の能力だ。
「マコト!」
壇上の2人。跪いた男は目を潰されていたが、その潰れた目でマコトを見上げている。その顔は何故か安らかに見えた。
「…創祐…よかった」
マコトの言葉。振り向きすらせず男を見る目は大きく見開かれている。その顔はマコトが集中している時の顔だ。
男…恐らく狗井という名の殺人者の頭を掴んだマコトの手の甲に、ハートを象った回路が浮かんでいた。そこから伸びる光の回線は、狗井の頭に無数に突き刺さっている。その整合され、統一されたような配列は、アオイの知る心象回路の発現とは全く違っていた。
「…お前もしかして」
頷きながらマコトが言う。
「心象回路の遣い方が、少しだけ分かった。すごく集中力がいるけど…何とか抑えがきいてる。でも…」
「でも?」
「こいつに接続を…マヤの居場所を。あの、気持ち悪い感覚……多分、制御が……だから……」
「だから?」
要領を得ない断片的な言葉。しかしマコトが既に決断していることはアオイに伝わった。
「あと…よろしく。必ず見つけるから」
そう言った瞬間、心象回路が唸りを上げはじめた。
狗井の体が痙攣し、マコトは目を閉じる。
「…分かった。あとは任せろ」
恐らく聞こえていない。しかしそれに応えるように、心象回路が甲高い駆動音を響かせた。
―3―
爆風に飛ばされながら、儀依航は自分の新しい手を突き出した。そして何も無い虚空を“掴んだ”。
そこを支点にして、これ以上バルーンから離れるのに抵抗する。あの図体にも関わらず、奴は宙に浮かぶこともできるようだった。飛んで逃げられたら終わりだ。
「背原の居場所を聞くまで逃がさねえぞ!」
砂埃に覆われた向こうに叫ぶ。直撃さえしなければ厄介なのは爆風だけだ。しかし視界の悪さはすぐには戻らない。
儀依は腕に力を込めて振りかぶった。まるで幽霊のように透き通った虚像の腕は、儀依の意思に答えるようにその姿を蛇のように延ばした。
全方位に向けた全力の薙ぎ払い。相手に命中した感触は無かったが、その風圧で邪魔な砂埃は吹き飛んだ。視界が一気に開き、街灯の明かりが届く。
しかしそこにバルーンはいない。
腕を戻しながら周囲を見る。半壊した住宅、背後の茂み、どこにも見当たらない。上空…見える範囲には何もない。
「まさか……」
あのまますぐ逃走した?
だとしたら最悪だった。背原の行く先、その手掛かりを完全に失うことになる。それは今の儀依にとって自分の存在意義を失うのと同じだった。
「そんな…」
呆然と立ち尽くす。思考が停止する。
頭に背原の顔ばかりが浮かぶ。
耳に甲高い音がうっすらと届く。最初儀依は耳鳴りだと思っていた。至近距離の爆発の連続で聴覚はとうにおかしくなっている。しかしその耳鳴りは次第に、そしてあっという間に大きくなり儀依に迫って来た。
音の方向…真上を見る。
バルーンの常軌を逸した泣きっ面がすぐそこにあった。視界の届かない遥か上空からの降下で、楕円形の超高速ロケットと化した虚栄心の塊がすぐ真上に迫っていた。
刹那の判断で右手を頭上にかざす。儀依の防衛反応に伴い、虚像の腕は一瞬でその姿を拡大しその身を庇った。
重力と速度と見栄を乗せた弾丸の直撃。
右手の悲鳴が聞こえそうな衝撃。しかし痛覚は遮断されたようにまるで感じなかった。引きちぎれそうな異形の右手は、それでも弾丸の直撃から儀依の身体を守り抜いてくれた。
三度目の爆発。さっきよりも遥かに強い爆圧。めくれ上がる地面と共に、儀依はまた宙を舞った。その衝撃で右手だけでなく全身の感覚が麻痺したようになる。
脳の命令が体に伝わらない。そのせいで儀依は受け身すらできずに、地面を弾むように転がる羽目になった。
「ま…ずい……」ようやく止まった時には儀依は擦り傷だらけだった。しかしそれより問題なのは麻痺した感覚が未だに戻らないことだ。意識だけははっきりあるのに身体がそれについて来ることができていない。
「くそ……動けよ…!」
「あ゛あ゛あ゛ぁぁぁァァ!!アアア゛ぁぁぁ!!」
悲鳴が聞こえる。バルーンの悲鳴。儀依は目だけを動かしその方向を見た。
「い゛やだぁぁぁ!!もうヤダぁぁァァ!!」
泣き喚いていた。泣き喚きながら儀依の方向へ近づいていた。その顔は恐怖に染まり怯えきっていた。しかしそれでも儀依の方へ近づいてくる。一歩一歩進む毎にその体が膨らむ。
バルーンの虚栄心…つまらない見栄がその体を膨張させていった。そしてその見栄が、儀依の能力を恐れながらもバルーンに逃げる事を許していなかった。
儀依の側に来る頃には、バルーンはもはや人間の大きさではなかった。駄々を捏ねる巨大な子供が儀依を見下ろす。とてつもない危機感に反応し、儀依の腕がまた変化を始める。
「があぁ!」その腕が巨大な足で踏み潰される。今度は痛みがしっかりと襲ってきた。
虚栄心で限界まで張り切った腕が儀依へと伸びる。そして沸騰するように無数の気胞が浮き上がった。
「……ぐ…っ…くそ…!」
「死゛ねぇぇぇえ!」
その時煮えたぎるようなバルーンの腕を、誰かが無造作に掴んだ。
「な、なん、だれだぁ!?」バルーンの狼狽。予想外の事に身がすくみ、その巨体が風船人形そのままに揺れる。
「……刑事、さん?」
腕を掴んだのは先ほどバルーンに吹き飛ばされたはずの刑事だった。儀依はてっきり彼が死んだか、よくて重体だとばかり思っていたので驚いた。何故ならこの刑事はバルーンの近距離爆発をまともに受け、2階から地上まで叩き落とされたのだ。普通に考えて、死んでいると考えた方が自然だった。
「儀依、お前大丈夫か」しかし刑事は逆にこっちの身を心配してきた。儀依は呆然と、曖昧に頷く。
「ならよかった。待ってろ、すぐ終わらせる」
刑事は何でもない事のようにそう言い、バルーンの方へ視線を向けた。
「…ヒ、ヒイィッ!」
それだけでバルーンが怯えた。
それが不自然でないほどに、刑事の形相は一変していた。
「貴様、自分が誰に何をしたのか分かってるか?」
傍で見ている儀依にも震えがきた。そしてなんの無理もなく、バルーンがこの男に嬲り殺しにされる姿が容易に想像できた。
それほどに残忍さが滲み出た“笑顔”だった。
バルーンの腕の沸騰が急速に引いていく。その巨大な体躯も空気の抜けるような間抜けな音と共に少しずつ縮んでいった。
「俺は刑事だ。お前のような社会に巣食う、病的で自分勝手な妄想を実行に移しちまうクズを捕まえて、監獄に送り込む準備を整えるのが仕事のしがない公務員だ。だがな」
刑事の口上の間にもバルーンはどんどん萎んでいく。刑事…早鷹から垣間見える凶暴性の片鱗が、バルーンの虚栄心を萎ませていた。
「俺はたまにこう思う。お前のような厚生させる価値もなさそうな奴を、わざわざ手間をかけて刑に服させる意味なんてあるのかと。そもそも法なんて不完全な代物を全ての人間に当てはめる、そんな無理をしようとするからこうなるんだ」
「イダァ!イダイ゛ィ!!」
早鷹の腕に力が籠った。掴んだ腕を破らんばかりに握り締め、既に平均身長並に小さくなった顔を間近に寄せた。
「だったらいっその事、そんな奴らこの世からいなくなってもらった方が良くはないか?なあ、樽馬」
空いている右手が音が聞こえるほどに握り締められる。その拳が地面に付くほどの低い位置まで下がり、爆光と共にバルーンを襲った。
電子の爆ぜる光の瞬きと共に、“加速機構”に乗った拳がバルーンの顔面に突き刺さった。
稲光のような音と共にバルーンがバウンドして撥ね転がる。ほとんど萎みきっていたバルーンはその衝撃を吸収しきれず、最も嫌う痛みを全身に感覚した。
「ブギャア゛ア゛ア゛ア゛!待゛っでもうやべ…!!」
のたうち回るバルーンの顔を踏みつける。相手が撥ねてどこかに行かないよう自らの足で固定すると、早鷹はようやく準備が整ったとでもいうように服の袖を捲った。
「いやだね」
早鷹は嬉嬉として更に拳を振るった。
一発一発が全力のフルスイングで、相手が常人なら数発であの世行きだったであろう威力でバルーンを袋叩きにした。
拳が下りる度に閃光が奔る。
「早鷹さん…あんた、俺と同じ…」
……いや、同じなのか?
儀依はようやく動き出した身を起こし、早鷹の巻き起こす規格外の暴力を見た。
腕を動かす度に迸る電流の残滓、一発毎に耳をつんざく落雷のような轟音、バルーンが見えなくなるほどの圧倒的な爆光。どれをとっても自分の持つ力とは比較にならない。
早鷹はバルーンがその身を痙攣させて気を失うまで殴り続け、それに気付いてからようやくその暴力を停止した。
「儀依…お前もあの“光災”に巻き込まれたクチか?」
振り向いて問う早鷹の顔はもう普通に戻っていた。それでも他と比べれば充分強面だったが、さっきまでとは段違いにまともだった。
「じゃあ、あんたも……」
突如としてこの街を襲った五年前の災厄。
光と電子の災害と言われる“光災”。
あの時儀依は、その時発生した巨大な光の柱に呑み込まれた。そしてその中で自分がバラバラになった後、再び一から組み上げられていくような感覚を味わい、多くの人々が死んでいく中生還した。
「あの時俺も逃げそびれてな。同じく巻き込まれた同僚が何人も死んだってのに、1人だけ生き残っちまった。それ以来こんな化物みたいな有様だ……多分、こいつもそうなんだろう」
そう言ってバルーンを見る。失神したバルーン…樽馬は、破れた風船のような襤褸切れと化していた。
早鷹はその禿頭を容赦無く平手で打つ。樽馬が何とか意識を戻すまで執拗に叩き続けた。
「……ひぃっ!もう許しで!何でもするから許して…」
恐怖と痛みで怯えきった樽馬の目の前に紙切れをかざす。
「クズのお前でもまだひとつだけ俺達の役に立てることがある。それに答えたら見逃してやってもいい。この“ケイジ”ってのはどこだ」
樽馬は泣きながら首を縦に振り回した。
「しっ、知ってる!お、俺達スローターズの使ってる“拷問所”だよ…狗井とかカマキリがよく使ってた小さい地下室だ。じ、住所も分かるよ!教える、教える!」
樽馬は完全に早鷹に屈服していた。まるでいじめっ子に媚びへつらういじめられっ子だった。多分これがこの男の本質なのだろう。
早鷹は住所を聞くと立ち上がった。
「よく聞け樽馬。今からここに警察が来る。俺の同僚だ。素直に言う事を聞いて連行されろ。もし何かあればすぐ俺に連絡するように言ってある。もしそうなったら、俺はまたお前の前に現われることになるぞ。分かるか?」
樽馬は首を振り続けた。
「何でも聞くよ、大人しくする…だから先に病院…」
「分かったんならもうひと眠りしろ」
「ふぇ?」
真上から鉄槌のような早鷹の拳。それでバルーン…樽馬という男はようやく恐怖と痛みから解放され、無意識に落ちた。
「そこに背原がいるのか?」
「ここにスローターズがもう1人いた…チャットってやつが。そいつがこのケイジって所に背原真綾を運んだらしい。残念ながらあの子が返り討ちにあい、奴らに捕まったのは間違いない」
「行こう」即座に返す。
「望みがある内に。早ければ早い方がいい」
「ああ……まだ間に合うかも知れん。急ごう、希望はまだある」
僅かな希望だと分かっていた。
だが道があるだけ遥かにマシだ。先程までの暗中模索に比べれば、背原真綾の辿った道が見えただけで充分だ。
後はその道を真っ直ぐ進むだけだ。儀依はもう迷うことも諦める気もなかった。
2人は言葉も少なくその道を辿り始めた。それは2人が勝手に負った、1人の少女に対する贖罪の道でもあった。
ー4ー
吐き気を催す最悪な気分。
体に流れる血液が凄まじい勢いで腐った泥水と入れ替えられていくような汚辱感。
自分でない異物が自分のものとして循環される耐え難い感覚。それに対する強い拒絶の意志が働くのを堪える。矛盾しているが、今はその異物こそがマコトの欲しい情報を内包する唯一無二のものだった。
異物……狗井という男の精神。
その男の知る妹の居場所。それを自分のものとする為の精神共有。いつもなら絶対に許容できない判断だった。それほどに徹底して、マコトは第三者が自分に干渉することを嫌悪していた。だがこの状況において、マヤの居場所を特定する方法がマコトには思いつかなかった。
(俺にとって殺人は会話と一緒だ。相手の命に到達するその過程に表れる意志、その叫びだけが俺の心の琴線を震わせる生きる糧だった)
狗井の想念の声。それはマコトの知りたい事とは無関係の情報を述べ立てた。マコトは狗井の…いや、今は一体化して自分となった精神の視点を切り替える。チャンネルを切り替えるように別軸へ。
(最初に殺したのは友人の女だった。もしかすると互いに好き合っていたのかもしれない。俺はそいつを尊敬していたし、そいつも俺とよく話をした)
そんなことはどうでもよかった。いや、よくないと狗井の精神部分が抗っている。それは狗井にとっての契機であり、今の自身を形成する基点だった。
マコトは無理矢理にチャンネルを変えようとした。しかしそれに抵抗する狗井の意思は譲らなかった。
(そいつは死んでいく時何も言わなかった。しかし俺を睨みつけたその目が、今でも俺に語りかけている。疑問、罵倒、諦念の言葉を尽くして俺を罵っている。結果生前よりも多くの会話を、俺はそいつとまだ続けている)
それは狗井の中だけの心的経験であり、マコトには本来知る由もない事柄だった。だが今のマコトにはその友人の顔も浮かぶし、その時狗井がどう感じたのかまでありありと“思い出せる”。
共有した精神の境界線が曖昧だった。二つあるはずの個がだんだんと混ざり、ひとつに融合しようとしている。
(…そんなのはごめんだ⋯でも)
拒絶の意思。それに反応した心象回路が狗井の記憶に照準を定める。自分がそれを破壊する引鉄を握っている感覚。
(まだ…)
まだ引くな。まだ肝心の情報に辿りついていない。その前に相手を破壊するのは愚の骨頂だった。
(死の間際に垣間見える人の妄念…それが生への執着なのか、それを終わらせた俺への憎悪なのかは分からない。だがその凝縮された濃密な何かが俺を虜にした。以来そいつが癖になって、俺は常に獲物を探し続ける猟犬になった。そして22人もの価値ある命を奪った。前にも言ったが、それに付随してより多くを殺した)
その時マコトは、狗井の自嘲した笑みを見た気がした。
(しかし自分の命が終わろうとする今…俺は自分の死が彼らへの贖罪となる事を望んでいる。勝手なもんだ、散々自分の欲の為に突き進んだ挙句、俺は自分の罪が贖われる事を期待している。どうやら俺は自分が思っていたよりは常識を持ち合わせていたらしい)
照準の先の記憶が狗井の姿を象った。その腕は全てを受け容れるように広げられている。
(さっさと撃っちまえよ。俺は自己満足に生き、自己満足の中で死ぬ。それができる引鉄を握ってるのはお前だ、背原真琴。お前とくっついた今なら、俺にもそれが分かる。願わくば跡形もなく粉々にやってもらえたらありがたいな)
(マヤの居場所。それを教えてくれればとっくにやってる)
その言葉に狗井が首を傾げた。そして妙に納得したような顔で頷いた。まるで自分の知らない自分を見透かされたようで、マコトはそれが不快だった。
(なに?)
(いや…なるほどと思ってな。俺みたいな凡人ですら自分の心を把握できてなかった。こんな死の寸前になって、ようやく少し自分の望みを理解できたかどうかってくらいだからな。お前みたいな規格外なら尚更自分が謎だらけだろう)
(…余計なお世話だよ。そんな事より…)
(撃てよ、俺を壊せばいい)
それが答えだと言いたげな狗井の遺志。
(ここはお前の精神の中だろ?だったらそれと同化してる俺の情報もとっくにお前のものなんだよ。柄にもなく他人の心を覗こうとなんかするから上手く行かない)
狗井の像が拳銃で狙い定めるように指を自分の頭に当てる。
(俺は単なる狗井の思念に過ぎないから、現実の事柄は知らん。だが情報を引き出す方法なら分かる。いつも通りやればいい。俺という異物を破壊し、殻を割るようにしてお前の知りたいことを取り出せばいいんだ)
(それ、あんたがただ死にたいからそう言ってるんじゃない?)
(そうじゃないことは分かってるだろ?今の俺はお前の一部だ…ああ、それもお前自身には把握しきれてないのか。まったく、規格がでかいのも楽ばかりじゃないってことか。なあ?)
マコトは気恥しさと不快感が入り混じった複雑な気分を覚えた。不服ながら外側から観察する狗井の方がマコトの状態を把握している。もしかしたらそれも猟犬の能力に依るものかもしれない。
(まあ、要は照準の合わせ方だ。お前の求める情報、それだけが残るように他を全て削除すればいい)
(他って、それあんたのことだよ?)
(そう、俺だ。俺は死にたい、お前は情報を得られる、お互い晴れて望みが叶う)
(……最初から最後まで変な奴だね)
(ああ、それからお前の妹にもプレゼントを。切宮一狼という奴の情報も残しておくといい。どうやらそいつが知りたくて、妹さんはあんな無茶をやらかしてたらしいからな)
(切宮⋯?無茶って?)
(あとは妹に直接聞くんだな。それから兄としてちゃんと叱ってやるといい……そろそろ頼めるか?俺という人間を、綺麗に消してくれ)
マコトには理解できない。マコトにとって自分は全てだった。それを終わらせる決断など絶対にできない。
ただ、妹だけが唯一の例外。
その為なら死ねるだろうか。
死ねるだろうと、何の迷いもなく思った。
だとしたら狗井にもそんな何かが手に入ったのだろう。
死んでもいいと思えるだけの何かが。
(やってくれ。お前も望みが叶うといいな)
躊躇いなく引鉄を引いた。
心象回路の回線が目標までの軌道を作る。狗井の像の中心を貫き、さらにその内部を滅茶苦茶に駆け巡るのが分かった。
不意に到達した感覚。マコトの欲しかった情報と、マヤの欲しかった情報。回線はそれを避け、それ以外の全てに軌道を作り、唐突に消えた。
銃弾が放たれる。
マコトの拒絶意思の顕現たる白光の銃弾がラインの軌跡をなぞるように螺旋する。それは狗井の像を内部から掻き回し、触れた傍からズタズタにしていった。
最後まで穏やかな笑顔の狗井の像。やがて螺旋を描く銃弾に引き裂かれ、その像も消えた。
望みどおり粉微塵に、跡形も無く。
遺ったものはただの記号と数字の情報。
狗井を構成していた精神、その全てが破壊され、その体はちっぽけな情報だけを残した無駄に大きい容れ物と化した。
現実の世界にいるアオイからすれば、それはほんの数秒の間だった。
マコトが目を閉じ、心象回路が悲鳴のような唸りを上げ出すと同時に、アオイは精神具象を発現させる。
小さい背中。アオイはそれを見ながらマコトに触れ、青い粒子でその全身を覆った。この粒子が何なのか、アオイは少し前まで曖昧な答えしか持っていなかった。しかし今なら分かる。
これは自分の心が生み出した精神の物体なのだ。自分が望むものを創り出す為の最小素子だ。
「いつでもいいぞ、マコト」囁くように独り言を呟く。おそらくすぐにそれは来る。
マコトの回路が拡大した。手の甲から宙に浮き上がったハート型の心象が心臓の鼓動のように脈打ち、そこから無数の回線が拡がる。狗井という男が回線に貫かれ、その身を蜂の巣にされ痙攣した。
死の間際の痙攣。
この男はもうすぐ、精神的に死ぬ。
そして死に到達する寸前のその口が、目が開いた。
同じ言葉を繰り返し喋り出す。意志の抜け落ちた自動音声のようなそれがどこかの住所だと気づいて、アオイはその言葉を記憶に刻んだ。マコトが危険を省みず引き出した、マヤの居場所を示す短い情報。
回線がさらに放射状に拡がる。それはもはや狗井に向かずホール全体、いや、それすら突き抜けた外界へと向いた。次第に回線が縦横に、不規則に、幾何学模様を創り出す。
即座に物質形成。何重にも顕れた束縛の錠の群れ。アオイの右手から現出した無数の鎖がマコトを貫き、2人を繋いだ。
マコトがアオイの方を振り向く。
その見開かれた目には、純粋な敵意。
理性を失った虚ろな視線。
そこにはアオイのよく知るマコトの意思は無かった。あるのは自身の拡大を阻む精神具象に対する、心象回路の敵意。マコトの顔は、その顕現した表情だと言えた。
「…頑張ったな」アオイは睨むマコトに対し、微笑と共にそう呟いた。
どうせ聞こえないと知っていて、アオイはそれでも声を掛ける。今に始まったことではなく、マコトは他人の言葉のほとんどを聞いていない。
そのかわり、ずっと自分自身と会話をしていることをアオイは知っていた。
そう。こんなわけのわからない力を持つ前から、この小さな幼馴染みは充分に特異だった。
きっとほとんどの人間が分からないまま放り出し、早々に気にしなくなった自己という存在。
それを知るための自問を延々と続けている探求者。遭難者と言い換えてもいい。それがマコトという人格だ。
「あとはまかせろ」ここからは自分の役目だった。
マコトを貫く鎖に自分の意思が伝う。精神具象の限界設定の発動。喧しい金属音を奏でながら、回線をなぞるように鎖が絡みついていく。
暴走した回線の拡大停止。同時にマコトの意識も停止する。原動力を失った心象回路が唸るのを止めた。そして電源が切れたように唐突にぶつりと消えた。
倒れ込む鎖に繋がれたマコトを支える。息をしていたので安心した。だがゆっくりしている暇はない。ミミックを取り出しすぐに発信する。
「タチバナ、マコトがやった。住所は⋯」
『それは後で聞く。とりあえず正面から出てこい。霊柩車で迎えに来てる』
「正面?」
『邪魔が入らんように手は打ってる。急げ』
半信半疑ながらも、アオイはマコトを抱えて走り出した。ホールには中毒者以外動くものはない。いつの間にかカマキリも消えていた。
今さらタチバナのバックアップを疑う気は無い。走り抜け、言われた通り正面から出た。
「これは⋯なんだ?」
そこには警官が、兵士が、そして一般人までもが右往左往する姿があった。多くの人間が悲鳴を上げ、喚きながら手を顔に当てたり、前を探るように突き出していた。あちこちで誰かとぶつかったり、躓いて転ぶものが続出していた。
まるで突然盲目になったような人々の群れ。
そして入口の真正面には、大型トレーラー霊柩車がアオイとマコトを待ち構えていた。
「早く乗れ!」
「タチバナ!これは一体どういう仕掛けだ?」
助手席からタチバナが顔を出す。慌てて乗り込みながらこの光景の説明を求める。タチバナの眼は真っ赤に染まり光っていた。
「ここら一帯の奴らの視界を強奪した。今奴らの目の前は赤い遮蔽物で覆われてるはずだ。だが長くは保たない」
タチバナの赤色錯視、その応用の“鮮血の遮断”。しかしこんな大人数に遣うのはタチバナ自身初めてのはずだ。その精神負担も、その能力に付き纏う痛みも見るからに相当なものだと分かる。
「住所は?」
苦痛に歪み、凶暴な表情のタチバナの問い。アオイは先程記憶したコードを伝える。
「中央区のはずだ、そんなに遠くない」
「飛ばします、シートベルトを」運転席に座る、頭に包帯を巻いた甲斐の応答。
「頼む」
タチバナとアオイの声が被る。
アオイは後部に寝かせたマコトの顔を見る。そして嫌でも浮かぶ同じ顔をした妹、背原マヤの無事を祈った。
「どうしてこうなる⋯?」
こんな事に巻き込まない為の選択を自分はしたはずだ。なのにそれとは逆に、最も避けるべき事態の真っ只中に自分達はいる。
「俺の責任だ」タチバナの断定口調。
「……ナオ兄?」
「こうなる前に、もっと早くに手を引かせるべきだった⋯なんでもっと早く、いや、そもそもなんでこんな馬鹿げたことに俺は⋯」
違和感が募る。タチバナの口振りは、まるでこんな事態になる事が予想出来ていたかのような言い回しだった。
「何か知ってるのか?」
タチバナは煙草に火を点けると、長く、長くその煙を吸い込んだ。そしてその後悔の大きさを物語るように、溜め息のように煙を吐き出す。
目が合う。無言の肯定。
タチバナは間違いなく、こうなった“原因”を知っている。
「お前とマコトに、話さないといけないことがある。特にマコトに⋯俺の隠していた、あることについて」
怨嗟のような霊柩車の重い走行音が響く。
時刻はもうすぐ午前1時に入ろうとしている。周囲の建物も明かりを消して、一面に暗闇が広がっていた。
アオイはこの暗闇が永遠に明けないような錯覚を覚え、霊柩車が闇の中心へと自分を運んでいるような感覚に囚われた。




