3-3 rambling krump
―1―
背原真綾は違和感を感じていた。
バルーンの肩に突き刺したダガーは、確かに刃の半ば以上が肉にめり込んでいた。
今握っているダガーからは、蓄積された電流を最大出力で一気に放出し、それは間違い無くこの部屋全体を覆ったはずだ。今目の前に座るこの巨漢…バルーンにも、何らかの影響があっておかしくない。
「切宮さんのことが知りたいんだね。つまり君は薬を買いに来たわけじゃないんだ」
それなのに暗視ゴーグル越しのバルーンにはなんの被害もないように見える。横を見ると寝そべっていたドレスの少女達は気を失っていた。直接刺さなくとも、近距離ならそれくらいの威力はあるのだ。この部屋の照明、電子機器の類を尽く破壊できるくらいには。
「でもあの人のことは話しちゃいけないことになってるんだ。ごめんよ……でも君、どこであの人こと知ったの?俺達の間以外じゃ、切宮さんは存在しないことになってるのに」
真綾はもう1本ダガーを抜いた。身に纏う耐刃、耐火、耐電仕様の黒い防護服、その様々な所に仕込んだ12本のダガー、その3本目を胸のホルダから無造作に取り出す。どうせこの暗闇では相手から見えないはずだ。
「ねえ聞いてる?もう一度声が聞きたいな」
真綾はバルーンの額に、音も無く刃で線を引いた。左から右へ斜めに薄く走らせた刃は確かにバルーンの髪のない頭に跡を残した。
だが血は一滴も出ない。
それどころかその傷口から見える内側には何も無かった。
「あれ、また切られたかな?真っ暗だとよく分からないや…でもなかなか過激なんだね。気に入ったよ」
『呑気なこと言ってんじゃねえよこのロリコン』
突然降って湧いた金切り声に、真綾は驚いて下がった。周囲を見回しても誰もいない。気配もない。
『こいつぁ切宮の名を出したんだぜ。しかもその居場所ときた。俺はこの街で切宮を追ってる奴ぁ1人しか知らねえ』
「どういうことだい?チャット」
“雑談魔”。スローターズの幹部の1人か。
まるで自分の腹と会話しているように下を見ているバルーン。おそらくそこに端末を入れているのだろう。であればあの男の黒いジャケットも耐電素材だ。もしそうでないならその端末も壊れていたはずだ。
『分かんねえか?ナイフと電流の遣い手。そして噂通りの先取速攻型。信じ難いが間違いねえ…この娘さんが巷で噂の“連続切り裂き魔”、その正体だ。そいつがついに探しもののひとつである、俺達屠殺集団に辿りついたってことだ』
「ええ?嘘ぉ…女の子だよ?」
目を丸くして驚くバルーン。
『分かったらとっとと動きな、バルーン。今の口振りからして本命は切宮だ。奴は切宮についての一切をお前に喋らせる魂胆さ。何してくるか分かんねえぞ、やられる前にやっちまえ』
「信じられないけど、分かったよ」
バルーンが立ち上がる。やはりその体躯は天井に頭が付くほどの巨体だった。
真綾は両手のダガーを眼前に突き出し迎撃姿勢を取る。
「もし可愛い子だったら俺が貰っていいかな?」
『好きにするといいぜ、その方が始末が省けるってもんだ。まずは電気を確保しな。じゃないと“俺”が加勢できねえ』
スローターズの後方支援にしてメインシステムの指示。その口振りから、どうやら最初に電子機器を破壊したのは正解だったらしい。
「オッケー」
突然、“風船男”が膨れた。
あっという間に部屋を埋めるほどの体積となったバルーンが、次の瞬間急速に縮みながら弾丸のように“飛んで来た”。
真綾は驚く前に、体が勝手に避けていた。
“加速機構”の爆発的な勢いで狭い部屋を滅茶苦茶にして、バルーンは入口から屋外へ飛び出して行った。
呆気に取られて見送った真綾はバルーンの“射出元”を振り返る。直前までバルーンの座っていたそこは、発射の衝撃を物語るように全てのものがぐちゃぐちゃに散乱していた。
周りに侍っていた、生気のない少女達も同様だった。少女達は散乱した家具と同じく、吹き飛ばされ揉みくちゃになっていた。
真綾は思わず駆け寄ってその中の1人の前にしゃがみ込んだ。吹き飛ばされた衝撃で意識が戻ったのか、おそらくまだ10歳かそこらの少女は虚ろな目のままなにか呟いている。真綾はボロボロになった赤いドレスの少女に顔を寄せ、その呟きを聞いた。
「痛いよ…薬、ちょうだい…幸せのお薬…」
「…薬?」
薬物を使われているのか。
真綾の感情がまたひとつ凍りつく。
「ザイオン…あれを飲めば痛くなくなる…嫌なことも…嫌じゃなくなる…」
こんな子供達にドラッグを服用させ続けているのか。その事実にフードの下の目に怒りと憎しみが湧き上がる。
「可愛いでしょ、俺の“人形”」
背後からの声に振り向くと、そこには宙に浮いたバルーンが得意気な顔でこちらを見ている異様な光景があった。
(飛んで…いや、浮いている?)
光景は理解したが、その仕掛けが分からない。さっきの膨張も理屈が分からない。
分かるのは、こいつが吐き気を催す男だという事実だけ。
「これはと思った子を厳選したコレクションさ。いつかその子達でアイドルグループを作るんだ。今メンバーは5人だけどゆくゆくは…」
楽しそうに喋るバルーンの額にダガーが突き刺さり、その頭を跳ね上げて口上を遮る。
もういい、死ねばいい。
後先すら考えず、真綾は刃を投擲していた。もはや真綾にはこの男の生きている事自体が害悪としか思えなかった。切宮のことすら忘れ、ただその生命活動を停める為だけの一撃だった。
再び雑音の声が響き渡る。
『ほれみろバルーン、向こうの方が容赦ねえ。あのお嬢ちゃんの方がお前よりよっぽど裏社会向きだぜ』
また懐からチャットの声。
そしてありえないことに、頭にダガーを刺したままのバルーンが返答した。
「ああもう…ちょっとムカッときたよ。全然話を聞かない子だ」
「…どういうこと…?」
愕然とする真綾の方をバルーンが怒りの形相で睨む。入口の向こうで宙に浮き、肩と額にダガーを刺したまま、再びその体を膨張させた。さっきよりも遥かに大きく。
とてつもない危険を感じ、真綾は咄嗟に逃げようとして今さらのように気付いた。自分が室内、そして敵が室外から狙う不利な状況に置かれていることに。
そしてバルーンが飛び込もうとしているこの部屋には動けない、ただ運が悪かっただけの少女が5人もいることに。
だが真綾にはなんの打つ手も無かった。
弾ける音と共にバルーンが突撃して来る。それは狭い入口を破壊し、短い通路を抉り広げ、コンマ数秒で真綾のいた小さな部屋に着弾した。
真綾は凄まじい風圧の中、紙切れのように舞う少女達と、すっかり縮んで人並のサイズになったバルーンを見た。
バルーンは更に真綾に向き直る。真綾はダガーを構え慌てて迎撃を整える。
しかしその判断は間違いだった。
次の瞬間、バルーンはまるで内部爆発でも起こしたように急速に膨らんだ。部屋を覆い、全てのものを押し潰し、それでも尚膨張し続け、真綾と少女達を圧迫した。
「…かっ…ぁ!」
空間を埋め尽くしても未だ膨れ上がるバルーンに押し潰され、真綾の全身が悲鳴を上げる。体内の酸素が全て吐き出され意識が遠のく。
しかしその意識が途絶える前に、圧力に耐えられなかった古い簡易住居の一室が、内部から爆破されたかのように吹き飛んだ。
―2―
真綾は破砕した壁面と共に宙を舞いながら、過去の記憶を思い出していた。
『…創祐さん、何の話を?』
葵創祐との最後の会話。
『正直なんで俺達が狙われなきゃいけないのかもよく分からない。分かるのは、シュウが俺達といた理由がこの“閉鎖”に関係するってことだけだ。だとしたら俺と真琴は、間違いなくこれに巻き込まれる。だから…マヤちゃんは離れてた方が安全だと思う』
『それは、兄と創祐さんが顕現能力者だからですか…?』
創祐はその言葉に驚いたようだった。
『さっきまでここにシュウ先生がいました。そして兄と…戦った後で、そう説明されました』
『…そう…これをやったのは、あいつか』
その目は真綾の初めて見る創祐の目だった。おそらく怒っているのだろうが、怜悧とも言えるその目つきは生気を感じさせない冷たい怒りを放っていた。普段の表情豊かな創祐からはかけ離れたものだった。
『…なら、マヤちゃんは真琴とあいつの戦いを見たんだろ。じゃあそれがどんなに異常なものか説明しなくていいな?』
ゆっくりと頷く真綾に、創祐は冷たい顔のまま答えた。
『この街には俺達みたいなのがごろごろしてるらしい。この先もしそういう異常性のある奴に会ったら…“インカーネイター”を名乗る奴がいたら。忠告する、絶対に関わるな』
「…インカー…ネイター…|
気が付くと真綾は夜空を仰いでいた。散乱した瓦礫に紛れ、天井の無くなったかつてのバルーンの住処に仰向けに倒れていた。
全身が痺れたように痛む。酸素の足りない頭が痛かった。大きく呼吸しようとして埃っぽい空気を吸い、思い切り噎せ返った。
(…あんな奴が、お兄ちゃんや創祐さんや、先生と同じ…?)
咳き込みながら這うように立ち上がろうとする、その眼前を大きな影が覆った。
『おいおい、こいついま顕現能力者って言ったぜ。マジで何者だ?なんで知ってやがる?』
「まあいいじゃない、電源を確保してからゆっくりみんなで話を聞こうよ」
自分を見下ろすように聳え立つバルーン。その手が防護コートのフードを被った真綾の頭を掴む。
生理的な嫌悪が走り、手足を振り回し逃れようと暴れる。
「離せっ…ぎぃぁ……!」
バルーンの手が万力のように頭を締め付ける。そして片手で易々と真綾の頭を引っ張り、軽々と目の前に持ち上げた。
「言う事を聞かない子は、こうやって体に教えなきゃね」
真綾の鈍い悲鳴が虚しく空に響く。ただでさえ頭痛がする頭は更に圧迫され、何も考えられなくなってくる。
バルーンの妙に真っ白な顔が近くに寄る。まるで何年も日の下を歩いていないかのような病的な白い肌が、真綾の嫌悪感をさらに刺激する。
「そろそろこの子の顔を見せてもらおうかな。でもまさか、切り裂き魔が女の子だなんて誰が思ってた?ああ、なんかいい。興奮するよね」
『しねえよハゲ、とっととフードを取っちまえ。俺もこいつの顔にゃ興味があるんだ』
バルーンのもう片方の手の端末は、レンズ部分が真綾に向けられていた。おそらく撮影された画像をリアルタイムでチャットに送っているのだろう。
「じゃあ、御開帳ー」
今さら顔などどうでもいいが、この男の思い通りになるのだけは嫌だった。真綾は無我夢中で腰の辺りに仕込んだダガーを抜き放ち、両手に握ったそれを振るった。それはちょうど油断していたバルーンの不意を突くことに成功した。
一方はバルーンの首に、そしてもう一方はその手の端末を狙い、双方寸分違わず両断した。
『バルーン!この馬鹿ヤ…!』
チャットの罵声は端末同様にぶつりと途切れた。驚きで口を開いたバルーンの首は、その口と同じようにぽっかりと開いている。
手元が緩み、真綾はその場に落とされた。消えそうな意識の中、呼吸を整えるのも忘れ、真綾は目の前の巨大な腹部に力任せにダガーを突き刺した。
その手に手応えは無い。
真綾の手首は易々とバルーンの腹に“呑み込まれていた”。そしてその内部には肉の感触も何も無かった。
「…なに…これ?…」
息の切れた真綾の顔面を凄まじい衝撃が襲う。視界が飛ぶ。その揺れる視線の先には憤怒の形相のバルーンの顔。そのぐらつく首を片手で押さえ、もう一方の手は再び真綾をぶつ為に振り上げられていた。
「なんて悪い子だ…!」
手が抜けない。首の傷がみるみる閉じていくのが見えた。いつの間にか肩と額のダガーも無く、その痕跡すら見当たらない。
再度飛んで来た平手を防いだ腕に鈍い痛みが残り、衝撃はほとんど殺せなかった。更に返ってきた手をまともに受ける。弾き飛ばされ、繋がれた腕のせいで跳ね戻る。
「お前のせいでチャットがいなくなっちゃたじゃないか!パソコンとかも壊されたから、また連絡するの面倒なんだぞ!」
再び横に張られる。至近距離でほとんど真上からの打撃は、真綾の頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回す。
「悪い子だ!悪い子だ!」
罵声を浴びせられながらの打擲で右へ、左へと往復する真綾の軽い体。最早一打ちで意識を失い、次の一打ちで起こされる繰り返しだった。途切れ途切れの覚醒は、連続で見せられる起きても覚めない悪夢のようだった。
それでも、真綾の戦意は一度も途切れていない。
その証拠に、バルーンの中に埋もれた手は、未だにダガーを握ったままだった。内部にはなんの感触もないまま。しかし半ば無意識の中、真綾はその電圧を最大に切り替えていた。
もう何度目か分からない平手で膝が折れる。手を挙げたような状態で跪いた真綾に、バルーンは休むことを許さない。ボロボロになったフードを掴み、無理矢理立ち上がるよう強いた。
その勢いにフードが千切れる。真綾の顔が、その好色な少女趣味の男の前に晒された。
「おっ…と。ワォ…!」
再び落下する真綾の顎を掴み支えたバルーンは、その顔を見て途端に機嫌が良くなり歓声を上げた。傷と痣だらけの真綾の顔は、それでもバルーンの見た中で群を抜いた異彩を放っていた。
「すごい、すごく可愛いじゃない…!」
バルーンの手だけに支えられた真綾は意識を失っていた。その顔を間近に寄せて、バルーンは先程よりかなり優しげに真綾の頬を叩いた。真綾の目が薄らと開く。
「ねえ、目を見せて。もっと目を見せてよ」
真綾は最早何も考えられなかった。ただこの男に対する嫌悪と憎悪の意志だけがあった。
何か一言言ってやろうと口を開けたが何も浮かばなかった。もはやこの男の下劣さに掛ける言葉はなかった。
だから真綾は返答の代わりに、取り込まれたままのダガーの柄を押した。
「ギャ……!!!」
最早無駄な抵抗かと思えたそれが通った。
バルーンの内部で高出力の電流が駆け巡る。それによりバルーンの目、鼻、口、耳から、何かが灼けたような臭いと煙が洩れだした。
拘束が弛み、真綾の手が解放される。その穴からも煙が洩れ、本物の風船のようにバルーンが萎んでゆく。そのままゆっくりと後方に倒れ、ただの肥満体となった男は気絶した。
真綾も同じだった。所々破損し、フードを失った防護服はその防電の役目を充分に果たせず、真綾の全身にも同じく電流が襲った。
ブラックアウト。
真綾は膝から、そのままうつ伏せに倒れた。
数分後、外の爆音と怒鳴る誰かの声が収まり、この簡易住居に住む者達がようやく顔を出した。
「な、なに?またテロ…?」
「…絶対なにか爆発した音…でしたよね?」
近隣の部屋の数人が集まる。そしてバルーンの部屋の惨状を発見し大いに驚いた。
「け、警察に電話しました?」
「いや、まだ…まさかこんなことが…」
「お、俺携帯あるんで電話しますね!」
そう言って1人の若い男が通報の為に端末を耳に当てた。
『悪いな、助かったぜ』
その耳に電子合成の金切り声が響いた。
「え?」
その声に疑問を抱く間もなく、男の意識は遮断された。
「繋がりましたか?」
後ろから覗き込む男達に“チャット”が答える。
「いいや?今サツに来られると困るんで」
「…?あなた何を…」
ちぐはぐな会話に野次馬達が首をひねる。
通報者=チャットは他の2人に近づくとその端末を向けた。住人達は思わず染み付いた習慣に従いその画面を覗き込む。
そこには『馬鹿が見る』という短いメッセージ。
端末が真綾のダガーのように電流を放った。至近距離で放たれた電流は男達を数秒で昏倒させる。意識をなくした男達を跨ぎ、チャットは悠々と階段を上り、かつてバルーンの部屋があった場所を覗いた。
「あちゃあ…もう終わっちまった、かな?」
視界の先に倒れるバルーンと切り裂き魔の少女。まさかとは思っていたが、バルーンがやられているのは計算外だった。それが切り裂き魔の力量によるものか、単に迂闊なバルーンのしくじりなのかは微妙なところだ。
「まあ相討ちに持ち込んだだけお互い上出来ってところか…どっちも死んじゃあいないようだし……んん?」
言いながら2人に近づいたチャットは、気を失った切り裂き魔の髪を掴み、無造作に持ち上げた。
その顔を覗き込み既視感に襲われる。何故ならチャットはつい最近その整った顔を画像で見たばかりだったからだ。
「…どういうこったこりゃ…」
チャットの顔に疑問符が広がる。
切り裂き魔の顔は、先程画像を見たばかりの“跳ね舞う者”の顔と酷似していた。だが今そいつは狗井と抗戦中のはずだ。念の為体をまさぐると間違いなく女だった。カマキリの話では、リーパーは男だと言う。
違う場所に同じ顔。
いくら考えても出るはずのない答えを諦め、チャットは今後の算段を一瞬で組み立てる。
メモを書き殴り、バルーンの腹に貼り付ける。目が覚めた時にどうすべきかを指示したものだ。狗井、カマキリとも連絡を取る必要があるが、何より電源の確保が急務だ。さっきの“放電”で端末の残量も心許ない。
まったく指示をこなさなかったバルーンに心中で毒づきながら、チャットはやるべき事に迅速に取り掛かった。
「あんたにゃ聞きてえことが山盛りだぜ、切り裂き魔」
気を失った真綾に向けて、独り言のように呟く。
チャットが意識を乗っ取った男の付けていた時計を見ると、時刻は22時をとうに過ぎていた。
―3―
偽装端末に表示されたマップは、今マコトがいる場所からそう遠くない場所だった。
『行けそうか?』
頭上を走る円盤を躱し、お世辞にもキレイとは言えない路地を駆け抜けながらのタチバナとの作戦会議。
「うん。でも本当に“ここ”?」
そのマップの示す場所をマコトは知っていた。しかしどうしてもこの場所に戦闘可能域があるとは思えなかった。
『ああ。間違いなく室内で、誰の邪魔も気にせず動ける充分なスペースを持った場所だ』
半信半疑のマコトは、それでもルートを頭に入れて端末を仕舞う。ちょうどその時、目前の路地の出口から人影が飛び出した。
先回りした狗井の急襲。カマキリと連携した追走により、狗井はより縦横無尽に攻めてきていた。対して2対1の状況のマコトは、狗井とカマキリ双方への対応の為どうしても移動速度が落ちた。おかげで狗井がより積極的に動けるようになり、カマキリを徹底的な遠距離サポート役に専念させる悪循環に陥っていた。
しかしマコトは不思議と落ち着いていた。そして頭の中は、初めてはっきりと自覚した“自分の能力”についての思考でいっぱいだった。
背原真琴の“心象回路”。
自分の触れた人間の心、あるいは精神(その二つの違いは曖昧で、ほとんどの人は同じ概念だと思っているだろうし、事実似たようなものだと思う。だが少なくとも自分にとっては明確な差異があった)に形を与え、侵入し、侵食する危険な能力。
その能力の発現した当初、真琴は近づく人間を無差別に侵食した。それは自分の意思とは無関係に発現し、他者から引きずり出した心の形(それは回路の形状で顕れた。電子的に構成されるその象徴は、心の動きを無機的な信号で表す機器として表現されていた)を一瞬で破壊した。
それを制限する為のピアスを造った橘直陰の分析。
「憶測だがお前の幼少期の経験が影響しているのかもな。虐めにあっていたんだろ?それが他者を拒絶、または攻撃する形で顕れた結果かも知れん…と、まあ筋は通る推論は立つが、なんかお前にはしっくりこない感じだな」
その通りだった。そもそも真琴は自分を虐めていた者達の顔すら覚えていないのだ。自分の人生の中で、彼らを意識したことは一度もないとそうはっきり言える。たまたま近くにいて、ただ反りが合わなかっただけ。その程度の感想しか持っていない。
「だとすれば、そうだな…逆の発想はどうだ?」
「逆って?」
「実はお前が他人との繋がりを求めてるって推論だ。他の人間と接触することを嫌い、人と話をする事すら珍しいお前が、本当は他人との心の共有を無意識に願っている。その意思があの回線となって顕れたとしたらどうだ?」
(…どうなんだろう)
はっきりとしたことは言えない。
狗井の攻撃を無意識に躱す。両手で挟み込むような掌打を寸前で上空に飛び避け、そのまま路地を突破した。
そこに飛来する“害意”の接近を感じる。マコトはそちらを見もせずに僅かに横に身を逸らす。その横をカマキリの旋回する刃が唸りを上げて通り過ぎた。
相変わらずの上空からの援護攻撃。路地を抜けるタイミングを狙っての鋭利な円盤の唸りが聞こえる。
それらを操る男はビルの屋上や高架下を上手く利用し、姿を隠したままの不意打ちを繰り返している。
マコトの位置からは何も見えない。しかしマコトにはカマキリの位置が“感覚”されていた。
“心象回路”を発現させた時から、マコトの前に今までと違う世界が広がっていた。
自分に向けられた“害ある意思”がそのビルの上で攻撃動作を整えているのを感じた。
心で感知し、その軌道を読み取った。縦軸での加速の為、空高く放られた八つの形ある“害意”の行き着く先…即ち自分に到達する道筋がはっきりと感覚された。
狗井がその様子に気付き、目を見張った。
一歩一歩、まるで確かめるように円刃の突き刺さる位置をミリ単位で躱すマコトの様子を驚嘆の目で追う。ゆっくりとしたステップでありながら、その悉くが先読みされている。
「予測…?」
上から見ていたカマキリも同様だった。明らかに今までと何かが違っていた。
「…俺の狙いがバレてんのか?それともほとんど同時に飛ばした八つの円盤の軌道をすべて見切ったってのか…?」
円盤を躱しきったマコトの回避の終了。
優雅とさえ思える身のこなし。その最中、狗井はマコトの周囲に螺旋を描く、青白い無数の回線を一瞬だが確かに見た。
「…カマキリっ!奴も能力を発現させている!俺やバルーンと同じような超常の能力を使っているぞ!」
「なに?」
狗井の緊張が伝わる叫びにカマキリも警戒を強める。
マコトはそれにも無関心で自らの能力を自問していた。今まで考えもしなかったこと…自らの能力に向き合い、その仕様を見極めようとしていた。
今まで通り制御などできてはいない。だが今までとはマコトの認識が違っていた。
自分へ向けての、“内側”への心象回路の顕現。
そう意識してピアスを外した瞬間から、マコトの目には無数の線が顕れていた。
(他人との心の共有を願う…その形の顕現…?)
タチバナの仮説を思い出す。この回線は、自分の無意識が求める人との繋がりへの渇望、それが形を為した顕れではないかと。だがその仮説を考える時、自分の気持ちには常に疑問符が付き纏い、それがなくなることはなかった。
これは自分の心の顕れだった。だとすれば人との繋がりを思う時、背原真琴がそれを思う時、その心に浮かぶ人間はたった1人しかい。なのにこの線は彼女に向く事はなかった。むしろ逆だ。
彼女といる時だけは、心象回路は沈黙した。
『お前の世界』
ある男の言った言葉が頭に浮かぶ。そしてその意味を、マコトは不意に理解した。
「…逆説はやっぱり逆説だよ、タチバナ」
『何のことだ?』
インカムから聞こえるタチバナの声を無視してマコトは踵を返して駆け出した。ルートは既に頭の中だ。マコトは一刻も早くそこに行きたかった。
それはこのくだらない狗井という男の遊戯を終わらせる為であり、はじめて積極的にこの能力を知りたいと思う自分の為でもあった。
「…っ!カマキリ、追うぞ!今を逃すとどうなるか分からん!」
焦りが顔に、その言葉にも表れた狗井の指示。警戒していた分出足が遅れた2人は、再び追撃するべく動き出す。
「落ち着けリーダー、心配ねえ。こっから先、あいつの歩みは更に遅れる。なんせ“障害物”が山盛りだからな」
カマキリが操作していた端末を仕舞いながら言う。
「俺らが奴らに勝る点のひとつ、それは頭数だ。奴の足取りから先回りして既に増援を配置済みだ。俺の従順な兵隊どもが跳ね舞う者をお出迎えしてくれるぜ」
―4―
暗い路地が終わりを告げると、マコトの視界いっぱいに唐突に光が広がった。間もなく23時を迎える深夜帯にも関わらず、目的の場所がある上座中央の第7区、通称C7エリアは益々人で溢れていた。
そこは夜だというのに、繁華街とはまた違う輝きに満ちていた。他のエリアより光式導線をふんだんに施されたこの地域は、別名で“大学地区”と呼ばれていた。
しかしその名とは裏腹に、ここに大学は上座中央大学一つしかない。その代わりにあるのは、若者が好む文化施設の集合だ。
都市で一番の規模を誇る映画館をはじめ、劇場やライブスタジオが至る所にあった。若年層向けのブランドショップの並びと、様々なサブカルチャを扱うショップが奇妙に融合して軒を連ねている。
この地区にとって今の時間帯は、むしろ盛況時間の入口だった。娯楽を求める若者達が押し寄せる、ちょうどその時間帯が今なのだ。
「ねえ、ホントのホントにここ?」
人波の中をマコトは目的地に真っ直ぐ進んでいる。繁華街の雑踏よりも密度が濃い。マコトにはとてもこのエリアに自分の望む戦闘可能域があるとは思えなかった。
『まあ信じろ。それより俺は驚いている』
「何に?」
『お前が能力を“制御”できていることにだ。今俺はお前の“視界”に入っているが…これはどういう“作用”の結果だ?』
「制御できてるわけじゃないけど」
タチバナの言う通り、マコトは心象回路を発現したまま人の中に入っていた。はっきりと無関係多数に害を及ぼすことは無いと確信して。
「分かったんだ。これが“僕の世界”の境界線なんだって」
『お前の?……なるほど、そうか』
今マコトとタチバナの目の前には、無意識にマコトを避けて通る人の群れが見えている。その人の裂け目の起点となっているマコトの周囲1m程の範囲には誰も足を踏み入れない。そしてその円形1mの範囲こそがマコトの心象回路の領域だった。
マコトにだけ見える、無数の線の螺旋。
その狭い空間が“自分だけの世界”だと、今のマコトにははっきりと理解できた。そして特にマコトを意識しない他人が入ってこないよう、拒絶することができた。その結果がこのモーセの十戒の一場面のような光景だった。
マコトが一歩進むたび、人垣が左右に割かれる。
「今までは拒む方法が分からなかった。これが何かを、僕自身がちゃんと理解してなかったから」
『それで勝手に“個人の場所”に入ってきた他人を無意識に攻撃していた、という事か』
「気付いたきっかけは、マヤだよ」
『…妹か。たしかにマヤにだけは発現しなかったと言っていたな。つまり拒絶する意思がないから発現しなかった…ということか』
だがそれはマコトの許容する人間が妹だけであるという事も意味する。妹以外にはそこに立ち入ることすら許さないほど心を開いていないのだ。
そしてその攻撃意思が他者の精神を一瞬で破壊する危険なものであることは変わらない。
『…お前の中では、お前の気持ちが“絶対”なんだな。その精神の孤独がよく分かる光景だ』
「逆に聞くけどそれ以外に絶対なものって他にある?僕が思うに、誰だって結局はそうなんだと思うけど」
その通りだ。だがマコトほどはっきりと、真っ直ぐにそれを体現できている人間をタチバナは知らない。
タチバナはその事に少し哀しさを感じ、そしてそれより強く清々しさを感じた。
『まあ、心象回路がお前の“心的世界の顕現”だということが分かったのは収穫だ。つくづくお前の顕現能力は“そのまんま”だな。それでこの“他者の拒絶”は、お前を敵と認識する奴にも効果があるのか?』
「多分、無理だね」
その言葉を肯定するように突然人混みを割って数人の男女がマコトの四方から突っ込んできた。
「リィィィィィパァァァ!」
「ヘブゥゥン!」
常軌を逸した奇妙な叫びを上げつつ、手にした鈍器でマコトに殴りかかった。自分の“領域”に侵入した彼らを、マコトは瞬時に感覚で把握した。そして僅かに身を動かすと、その四方からの攻撃をすり抜けた。
「別に壁があるわけじゃないから、向こうに入ってくる気があれば入れるよ。こいつらみたいに最初から僕を狙ってる奴を止められるようなものじゃない」
マコトは話しながら、彼らの攻撃を最小限の動作で躱し続ける。その顔は穏やかだった。緊張する必要も無いほど、領域に踏み込んだ彼らの全てが感覚される。
招かれざる異物として。
混乱する周囲の人々を押し退け、さらに襲撃者が襲い来る。マコトはひたすらに躱し続けた。流れるように、滑らかに。速度ではなく、感覚で。知ったばかりの自分の力を、少しずつ確かめるように。
『これは…』
タチバナの驚嘆の呟きが聞こえる。気付けばマコトは数十人に取り囲まれ、その中で“踊っていた”。その目は宙空を漂い誰一人見ていない。マコトからすればほとんど1人で踊っているのと同じだった。
周囲は静まり返り、時折感嘆の声が聞こえた。妙な話だが端で見ている者には、余りの“嘘臭さ”にこれが本当の襲撃だとは思えなかったのだ。それはここが“大学地区”であることも関係しているだろう。この地区の路上には、ダンサーやパフォーマーの卵が至る所にいた。
事実それはダンスのパフォーマンスの亜系のように見えた。即興で始まった無音の舞踏。襲撃してくる連中の不可解な叫び声が、その演劇性をさらに煽った。
『随分“深く”ヤられた連中だな…もはや自立意思などないんじゃないか?日常生活をどうやって送っているのか、そっちのほうが不思議なくらいだ』
「ザイオン?」5、6人の同時攻撃、その僅かな隙間を難なく躱したマコトの問い。
『間違いないな。精神的にはもう死んでるようなもんだ』
「そう」
マコトは興味なさげに呟くと目を閉じた。
『おい、戦闘中だぞ』
同調している視界が途切れ、タチバナの焦りと緊張が混じった低い声が聞こえる。
目を閉じるとまた別の世界が見えた。自分の領域内に入った人間の“精神の構造”が、物理的な視界をシャットアウトしたお陰ではっきりと見通せた。
彼らの躰が、自分の周囲に舞う無数の線と同じもので構成されているのが分かる。
あれが心の顕れだ。
そしてこれが、“僕の世界”だ。
右の手を伸ばす。利き手が“精神集中”に一番適していた。今までも自然と行っていた能力発現時の自然な動作。だが曖昧なままの状態と、理解してやるのとでは雲泥の差があった。
“心”を象った“機械仕掛けの回路”が手の甲に浮かび上がる。
それに呼応するかのように、領域内の敵対者から心象回路が出現した。目を閉じたマコトには、回路が無数の線に編まれて構成される過程がはっきりと見えた。
マコトの右手から伸びる無数の“心象回線”が領域内の人間の回路を一瞬で“撃ち抜いた”。
それは接続などという生易しいものでは無いことを、マコトは初めて理解した。
これは銃弾だ。剥き出しの心を撃ち抜き、粉々に“破壊”する“銃弾”だった。
僕の“害意”。その形だ。
目を開ける。そこには弾けるように頭を、胸を仰け反らせて倒れゆく襲撃者達の姿があった。
『遣ったのか?』
タチバナの声に無言で頷く。それが意味がないことにマコトは気付かなかった。
尚も突っ込んで来る数十人の中毒者達。もう彼らの“心”は死んでいるのが、マコトにはそれが沈黙した“心的回線”《サイコ・ライン》で分かる。ならばそれを破壊する事に躊躇いはなかった。
マコトは自分から前へと踏み出した。
相手を自分から領域内に迎え入れる。その“中心”を精確に把握し、まるで銃口を向ける気分で右手をかざす。
何かが弾ける音、或いは破壊の音。
マコトが前へと進むたびにその音が響いた。そして心を撃ち抜かれた抜け殻が、糸の切れた人形のように次々崩れ落ちていった。その内に手をかざす必要すらなくなった。意思を向けるだけで、心象回路がその精神を撃ち抜いた。
マコトは踊っていた。再び目を閉じて、自分が死んだ心を粉々にしていくのを見た。
こうやって他人を貶めていく。
自分で自分の領域から他人を排除していく。
それが単なる“利己”であると理解っていながら。
自分の“存在”を守る為、“破壊”するのだ。
『…見事だった』
タチバナの感想が聞こえる。害意はすべて消え去っていた。振り向くとそこには、放心して魂が無くなった抜け殻が累々と横たわっていた。
周囲のギャラリーから拍手が挙がる。彼らはまだこれが何かのパフォーマンスだったと思っているようだ。しかしそれも、いつまでも立ち上がらない演者によってすぐに分かるだろう。
『どうやら普通の奴らに被害はないようだ。ちゃんと指向性を持って遣えたようだな…それで、自分が何をやったかは理解しているか?』
「壊した。彼らの心を。“僕の”顕現能力で」
『慰めがいるか?』
マコトは首を横に振った。
「要らない。この“敵意”の排除が先」
マコトはタチバナの為にその敵意の方へ視線を向けた。
数十m先のそこには、狗井とカマキリの驚愕して強ばった顔が並んでいた。完全に出る機を逃している。特に狗井の方は青ざめて、マコトの方を恐ろしいものでも見たような顔で凝視していた。
『騒ぎになる前に誘導しよう。目的地はもうすぐだ』
「了解」
マコトは相手を誘うようにゆっくりと動いた。狗井とカマキリ、その両方の目を見ながら。
マコトは自分が拡張されたような感覚をたしかに感じ、それを自然に受け容れていた。
だがそれができる自分の心が他者との決定的な違いである事に、マコトは気づく事は無かった。
―5―
中央区の複雑な都市高速の下、先ほどまで狗井とマコトが交戦していた繁華街。
その道は渋滞していた。刃物を持った男が車で店舗に突っ込み、近くにいた一般人と止めに入ったその店の従業員、合わせて十数人に致命傷を負わせるという大事件が発生した為だ。
辺りには警察や救急車が駐留し、交通の妨げになっている。交通整理が行われているが、主道にまではみ出した車両と救護活動が著しく交通を妨げている。
「ご苦労。悪いな無理言って」
「いや。あんたも停職中にわざわざご苦労さん」
早鷹はそう言って車のウィンドウを閉めた。
「背原真綾とは関係ないようだ。どこかの気の狂った男が起こした傷害事件のようだな」
「そう…」
儀依航は気の無い返事を返した。車は警官に誘導され、優先的に通される。
その腕に残った小さな傷をぼんやりと眺める。頭ではつい今聞いたばかりの早鷹の推測がずっと回っていた。
もう癒えた腕の傷。
今もそこに残る小さな名残りが、もしかすると彼女との最後の繋がりかもしれない。
『よかったね』
包帯が取れた時に背原の言った言葉。あれは、自責の思いから出た言葉だったのだろうか。
分からない。だがあの時背原が見せた笑顔は本物だ。例えそれが後ろめたさの裏返しでも、あの時の背原は“まだ”笑うことができた。
「間違い、ないのか?」
運転中の刑事に尋ねる。女々しい奴だと思っているだろう。儀依も自分がこんなに情けない奴だとは思っていなかった。
「…宮崎花菜の“切り裂き魔の刻印”を覚えているか?」
深く抉られた十字傷。忘れるどころか、それが創られる過程まで記憶に刻まれていた。
「彼女は切り裂き魔の被害者には入っていない。何故なら切り裂き魔が起こした傷害事件、つまり街の悪党共を狙った襲撃が始まったのは、彼女の事件の2ヵ月ほど後が最初だと見られるからだ」
早鷹は煙草に火を点けた。外の景色は恐ろしくなるほどの速度で流れて行く。早鷹は最大限の速度でスローターズ…伏から聞いた樽馬という男の住所を目指していた。
「その頃から切り裂き魔の手口は変わっていない。ナイフと電撃を駆使して相手を無力化し、スローターズ、キリミヤの情報を求める。そして最後に自身のトレードマークとなった十字傷を全員に刻む。これがよく知られた切り裂き魔の手口だ」
言い終わると早鷹は儀依に端末を放った。そこには同じようなサムネイル画像がいくつも並んでいた。手に取って見ると、それがいくつもの“切り裂き魔の刻印”であることが分かった。
「その最初の事件から残された、すべての“切り裂き魔の刻印”の接写画像だ。その傷の過程を追ってみろ……多分お前にも分かる」
最初の傷は控えめだった。
鮮やかとはとても言えない、むしろ迷い傷と言った方が印象としては正しいような歪んだ傷だった。
同じような画像が何枚か続き、少しずつ歪みが修正されていった。だんだんと躊躇いが無くなってくるのが分かる。
そこからはほとんど差異のない切り傷が幾枚も続いた。もしかすると長さ、深さまで寸分違わず一緒かもしれない。
それがある時期からガラリと印象を変えた。
狂いのない傷口は変わらないが、そこに荒々しさが混じる。今まであった事務的な印象はなりを潜め、だんだんと暴力的な色を帯びてきた痕跡は、次第にその抉る深さを増していった。
「それは切り裂き魔の心情をよく表してる。俺の相棒の心理分析官がそう言っていた…俺にそんな学はないが、その過程はたしかによく分かった」
儀依にも分かった。背原の心の流れが。
最初は迷いながらだったのだろう。それを行う者の恐怖が濃く傷痕に見られた。その慣れていく過程で、迷い、躊躇いが消えていくのが分かる。
そして今では、むしろその傷を刻むことを自ら望んでいるかのような獰猛さが、その鋭い痕跡から見て取れた。
そして最後の画像。
「これは…」
見覚えがあった。忘れるわけがない。この禍々しいとさえ感じる狂気の傷は、宮崎のものだ。
「それがオリジナルだと言ったのを覚えているか?切り裂き魔の最初の傷は、それに及びもつかない稚拙なコピーだった。だがこの半年ほどでそれは“成長”した。今では僅かながら、オリジナルの傷に見られる心的要素が窺えるそうだ」
儀依にも分かる。背原の心の変化が。
それは…
「それは“愉悦”だ。最初は嫌々だった儀式を、今ではきっと本人も気付かぬうちに楽しむようになっている」
「これをやったのがアイツなら…俺にはなんとなく分かる。きっと気付いたんだ、世の中死んだ方がいい奴が、自分が思っていたより遥かに多いってことに」
それが今の儀依には痛いほど分かった。
車は中央区の郊外付近まで来ていた。災害直後の建造物が未だに残る南部側の地区である。人も車も激減していた。まるで時の流れに取り残されたような寂しさを感じさせる場所だ。
「多分お前の言う通りだ。碌でもない裏の連中と何度も関わり合う内に、彼女の憎しみは拡大した。そのキリミヤとかいう奴だけでなく、裏社会全体に」
「…あんたは何で気付いたんだ?」
「きっかけは宮崎花菜の傷をもう一度見た時だ。あれがオリジナルだとするなら、その傷を見た誰かが“切り裂き魔”だと思った」
「宮崎をやった奴…キリミヤの仕業だとは思わなかった?」
「あの拙い傷がそれを否定している」
早鷹は煙草を灰皿に捨てた。
「どう見ても同じ人間の技じゃなかった。だとしたら宮崎花菜の事件こそ始まりだ。あれがあったからこそ“連続切り裂き魔”が生まれた。そう考えるのが自然だ…なら目的は、宮崎花菜の復讐以外有り得ない」
早鷹は車を停車し、エンジンを切った。
「あの子以外に誰がいる?あの傷を知り、半年以上も宮崎を見舞い続ける親友。あの子以外に、誰が“切り裂き魔”になり得る?」
早鷹は車を降りる。儀依も何も言わずに車を降りた。
突然胸倉を掴まれる。
「あの子がそんな馬鹿をしたことまでお前のせいだと言うつもりはない。だがな…だがそれでも、こんな取り返しのつかないことになる前に、止めてやることはできたんじゃないのか…!?」
早鷹は儀依を殴りたくて堪らない顔をしていた。きっとそれをしないのは、それが八つ当たりであることを気付いているからだろう。この刑事は、そうなる前に自分が止められなかった事を悔やんでいるのだ。
いっそ殴ってくれればいいのに。そうしてくれればどんなに楽になるだろう。
だがこの刑事がそんなに優しくないことを儀依は知っていた。だからこれはただの時間の無駄だ。
「早く行こう。まだ間に合うかもしれないだろ。俺は…そう信じてあんたについてきたんだ」
早鷹の腕を振り払う。それはただのつまらない意地だった。背原と別れてすでに5、6時間は経過している。間に合う可能性などゼロに等しかった。
でも。それでも。
そして辿りついた樽馬秀雄のアパートはすでに半壊していた。
儀依はその場に膝から崩れ落ちた。
手遅れ。すべて手遅れ。
募る後悔だけが、儀依の意識を保っていた。




