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 健気、というのは、こういう女の子にぴったりの言葉だ。

 震える春日さんに手を差し伸べずにはいられなくて、彼女のそばに寄ると、怯えたような瞳が私を見上げる。

 同じ女でありながら、不意に抱きしめてあげたくなる衝動に、そのまま身を任せようとした時だった。


「あぁ、アンタ、鈴葉の着替え、俺の部屋に何着か持ってきてくんない?」


 背後から眠っていたはずの結人の声がして、私は咄嗟に腕を引っ込め、春日さんもはっと顔を上げた。


「はい、かしこまりました」


 やや俯いたまま、春日さんは返事をすると、そのまま踵を返し走り去る。

 そんな彼女を引き止めようとした腕を強い力で掴まれて、私は部屋の中へ戻された。


「何やってんだよっ」


 閉じたドアに身体を押し付けられ、額を人差し指で勢いよく弾かれた。


「痛っ! 何すんのよっ」

「部屋から出るなって言ったろ。おまけにアイツと話しやがって」

「だって、春日さん泣いてたんだよ?」


 額を押さえて反論すると、結人は腕を組んで溜息をついた。


「あのメイドが泣いてんのは、たぶん、オマエのせいだ」

「……どういうこと?」

「昨日、俺と同じようにオマエを鈴葉だと思ってたあのメイドは、鈴葉の着替えと紅茶を持って、鈴葉の部屋に行ったらしい。けど、鈴葉本人は濡れてもいなけりゃ、紅茶を頼んだ覚えもない」

「あ……」


 私は、昨日の春日さんとのやり取りを思い出して青ざめる。

 春日さんと、もうひとりの私との間で、辻褄が合わなくなったはずだ。


「もちろん、鈴葉もメイドもオマエの存在なんて知らないから、ま、メイドのほうの勘違いってことで、その場は収まったんだけどさ」

「そう、良かった」


 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、それならどうして春日さんが泣いている理由が、私のせいだというのか。

 結人を見上げると、良くねぇよと言葉が返ってくる。


「その話が、メイドが鈴葉に媚び売ってるっていうふうに女王陛下の耳に入っちゃったわけ。鈴葉は、女王陛下の一番のお気に入りだからな。そいつに手を出そうものなら、女王陛下も黙ってないだろ」

「あー、なるほど」


 女王陛下のヤキモチってわけか。

 って。

 何かが、おかしい。納得しちゃいけない。


「ちょっと待ってよ。女王陛下って、女王なんだから、女、だよね?」

「あぁ」

「こっちの私も……女、だよね?」

「そうだろ」


 当たり前のことを聞いてどうすると言わんばかりの結人に、私はしばし呆然とする。


「お気に入りって、どういうこと?」


 ぼそり、呟くように結人に聞いてみる。

 眉根を寄せる私とはうらはらに、結人は憮然と口を開いた。


「名目上、側近ってことになってるけど、平たく言えば愛人」

「あ、い……!?」

「なんつーの、まぁ、そういうシュミなんだろ? 俺も、鈴葉と女王陛下が実際どこまでの関係なのかは知んねぇけど。基本、鈴葉は来るもの拒まず、だからな」

「だ、だって、昨日の夜は、結人が」

「あぁ。だから、鈴葉が一番で、俺が二番。俺らふたりで、女王陛下のお相手をしなきゃなんなくて、昨日は俺の番だったってわけ」


 思考回路、停止。

 始動しかけた妄想モードも、危ういシーンを前に、ぷつりと電源が切れる。

 まさにこれこそ、ゲーテの言う残酷で卑猥な妄想だ。美しいかどうかは別として、だけど。

 目が点になってるだろう私に向かって、結人は見えてるのかどうか確かめるように手を振った。


「やっぱ、そういうのも、そっちの世界とは違うんだな」

「当然でしょっ! そんなの、もう、ぜーったいにありえないから」

「へぇ。俺たちにとっては、ごくフツーの日常だけどね」


 欠伸をしながら結人が言うから、拍子抜けして、声を荒げてる自分が恥ずかしくなる。

 郷に入っては郷に従えという言葉があるのを思い出した。

 この世界にはこの世界の日常があって、私が異常だと思う出来事も、ここじゃ当たり前のことだったりするのだ。

 けれど、頭の中で理解できても、正直、この世界に馴染める自信はない。


「俺たちは、メイドの名前なんかいちいち覚えてないし、からかうことはあっても、かまうことはない。だから、余計なことはするな」

「私のせいで、泣いてたとしても……?」


 だーかーらーと、イラついたように頭を掻いて、結人はこっちを睨んだ。


「とにかく、オマエは誰とも接触すんな。これは命令だ。いいな?」

「………」


 口をつぐんだまま、私はとりあえず頷いた。

 春日さんは気になるけど、結人の言うことを聞いておかなきゃ、こっちの身が危ないってことを忘れちゃいけない。


「これ以上、メイドが死刑になると、メンドーだからな」


 ちょっとした悪戯が先生にバレたら面倒になる、なんてことを言うみたいに、さらりと結人は衝撃的なことを口にして、私に背を向ける。

 聞き間違いか、それとも。

 私が捕らえられたら死刑になるのと同じく、この世界じゃ、死刑も日常茶飯事なのか!?


「前はもっと、女王陛下や俺たちに仕えるメイドはいっぱいいたんだけど、女王陛下が気に入らないって次から次へと死刑にしちゃったからさ、使えるメイドは今、アイツしかいないんだよ。他のヤツらもゲーテが教育してるらしいけど、一体いつになったら使えるようになるのかわかんねぇし」


 結人はアンティーク調のチェストの引き出しを開け、何やら中から取り出すと、私の前まで戻ってくる。

 そして、呆然とする私の手首に冷たいものが触れ、金属の重なる音がかちゃりと鳴った。

 音を聞いて初めて、私は手首に起きた異常事態に目を向ける。

 しかしこれもまた、この世界の日常なのかと、ぼんやり結人を見上げた。


「『え!?』とか、言わないの?」


 そんなことを言いながら、結人は自分の手首に、私の手首に付けられたものと対になったもう一方を装着する。


「だって……これも、日常?」

「なわけ、ねぇだろ」

「は!? じゃあ、何なのよっ、コレ!」


 私が右手を上げると、金属の輪で繋がれた結人の左手が上がる。


「手錠」

「見ればわかるわよっ、それくらい」

「姫の世界には、存在しないものかと思ってさ。わかってんなら話は早い。ずばり、鈴葉姫の逃亡防止」


 白い歯を見せて笑うけど、その目は笑ってない。


「もう逃げたりしないから、はずして」

「嘘だね。今、現にこの部屋から抜け出そうとしてただろ」

「それは、」

「オマエさ」


 理由を話そうとしたのに、強い口調が言葉を遮った。

 結人の左手に寄り添うような私の右手が強引に背後に回されると、肩に痛みが走って私は身を捩じらせる。

 顔を上げればすぐそこに、結人の不満げな表情があった。


「俺に絶対服従な自分の立場、忘れてない?」


 目を細めて、あえて確かめるように囁く。

 忘れてるわけじゃない。

 むしろ、この状況に昨日の出来事が蘇って、顔が熱くなるのを悟られないよう俯いた。


「忘れてないから、だから」

「だから、何だよ」


 意識すればするほど心拍数が上がるから、私は大きく息を吐いてから顔を上げた。


「ケータイ、失くしちゃったの」

「見つけたところで、こっちで使えんの?」

「そーじゃなくて、あるべきはずのないものが見つかったら、マズイでしょ」


 軽く頷きながら、結人は私を無理な体勢から解放してくれる。

 話の流れからケータイはこっちにもあるみたいだから、たとえ誰かに見つかっていたとしても、まだ誤魔化す方法はあるかもしれないと思う。


「バレたらもう大騒ぎになってるだろうから、まだ見つかってねぇんだろ」


 髪に手をやって少し何か考えた後黙ったまま、私が行きたいのとは逆、ベッドの方へ結人は向かった。


「ちょっと……話、聞いてたよね!?」


 犬に引っ張られてる情けない飼い主みたいに、私は手錠の鎖を掴んで結人を引っ張った。

 ちらりとこっちを振り返った結人の視線があまりにも鋭利で、一瞬にして全身が粟立った。

 硬直した私の、繋がれたほうの手首を握り、結人はそのままベッドに倒れこむ。

 これじゃあ、朝起きた時と同じ状況に逆戻りだ。


「ねぇっ! ケータイ」

「わかったよ。あとで一緒に探しに行く」


 そんなんじゃ、手遅れになるかもしれない。

 なのに、結人は私に頭からシーツを被せ、慣れた手つきで私の身体を抱きしめると、力の抜けた手で頭を撫でた。


「結人っ」

「大丈夫。もし騒ぎになっても俺が何とかするから心配すんな」


 何とかって、どうするつもり?

 聞き返したところで、私が望む答えなんか、きっと返ってこない。

 シーツの向こうの結人に見えないだろうと、いーっと歯をむき出しにしてやると、不意にシーツをめくられて、私は慌てて唇を閉じた。


「このまま、女王陛下に突き出してやろうか」


 ちゃり、と手首の鎖が揺れて音を立てる。

 私は静かに、小刻みに首を左右に振ると、頬を引きつらせたまま笑ってみせた。

 何かされるような嫌な予感とはうらはらに、こっちを睨んでいた結人の瞳は瞼の向こうに消え、再び私にシーツを被せると、大きく息を吐き出すのが聞こえた。


「メイドが部屋に入ってくるだろうから、苦しいかもしれないけど、ここから顔出すなよ」

「……うん」

「とにかく、今は少し眠らせてくれ」


 そう言ったあと、わずかな時間をおいて、結人は寝息を立て始めた。

 気付かれないようにシーツをめくると、うっすらと開いた形の良い唇が見える。

 穏やかな寝顔に、私の焦る気持ちは、いつの間にか罪悪感に変わっていた。

 そして、さっきは起こしてごめんと、そっと胸の中で囁いた。



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