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file6-8

「鈴葉」


 翌日、最終日の昼休み、音楽室に向かおうとする私を結人が呼び止めた。


「ごはん粒、ついてる」

「えっ!? どこ」


 口元に持っていった手をそのまま掴まれたかと思うと、頬に結人の舌と唇が触れ、確かに何かをついばんだ。

 驚く私の顔を覗き込み、にやりと笑って唇に触れるだけのキスをする。


「ちょっ……!」


 ここ、ドコだと思ってんの!?

 いくら影だけのクラスメイトって言ったって、表情はわからないけれど、結人の行動にざわめいて反応してるのがわかる。


「ご馳走様」

「……バカっ」


 ラブコメ漫画さながらの行動と台詞に呆れて、私は結人に背を向け教室を出た。


「鈴葉」

「何よ」


 ちょっと面倒だと思いながら振り返ると、ただ何も言わず、結人は私を見つめている。


「……何?」

「呼んでみただけ」

「何、それ」

「いや、何でもねぇよ。早く、音楽室行けば?」


 不自然だった。

 どこかで、そう気づいていたのに。でも、それよりも、音楽室へ行かなきゃいけない思いのほうが強くて。

 今朝から、春日さんの姿を見ない。

 もうひとつ、引っかかることがあるのに、何か大切なことを忘れてしまったような感覚だけが残っている。

 ここに来た時にはそれが何だったのか気になって仕方なかったはずなのに、ふと、引っかかっていたことさえ、忘れてしまいそうになる。

 この世界が始まったばかりのころのように、記憶が覆い隠されているみたいだ。

 もやもやする頭の中も、消化しきれないわだかまりも、音楽室のドアを開け、兄のピアノの音色を聞くころには、気づかないうちにどこかに消えてしまっていた。


 これで、最後。

 本当に、最後。


 兄は私が来たことに気づきながらも、ピアノを弾く指を止めずに微笑んだ。

 私が望んだ、彼のいる世界。彼の、生きている世界。

 ほんの5日間、私の望むままの行動をしてくれた彼と一緒にいて、強く決めたことがあった。


「お兄ちゃん」


 ピアノの横に立ち、呼びかけた私に、彼は何かを察知したように指を止める。

 そして、それをやり過ごしたいような笑顔を作って私を見た。


「どうした?」

「私、もう、お兄ちゃんの代わりにピアノを弾くのは、やめる」


 突拍子も無い私の台詞に驚いたのか、何か言いたげな唇が開かれ、けれど無言のまま閉じられる。

 私は次第に強く早くなる鼓動を抑えようと、大きく息を吐き出した。


「お兄ちゃんがいなくなってから、お母さん、すごく淋しがってたんだ。だから私、お兄ちゃんの代わりになれるように、必死にピアノを弾いた。自分でも無理してるって気づいてたし、代わりになんて、絶対になれないってわかってたのに……」


 バスケも、やめた。岩城からの告白も、ひどい断り方をして傷つけた。

 私はちゃんと落ち着いて自分の気持ちを言葉にするために、もう一度深呼吸する。


「自分にたくさんの嘘を吐いた。お母さんにもお父さんにも、強がって見せてるうちに、どれが本当の自分なのか、わからなくなって。自分自身の本当の気持ちも、わからなくなって、もう限界だったんだよ」


 どこまで嘘を吐き続ければいいのか。演じているはずの自分が、いつしか本当の自分になっていくのが怖くて。

 でも、吐き始めた嘘を終わらせてしまえば、細々と積み上げてきた現状が、再び崩れてしまいそうで。

 できるだけ淡々と思いを告げる声も、立ち尽くしているだけの体も震えていた。

 涙が零れるのをこらえるのに、必死で唇を噛んだ。


「鈴葉……ごめん」


 立ち上がった兄が、私に近づいてくる。

 鍵盤の上をすべるように、幾つもの曲を奏でる魔法の指。

 幼いころからずっと憧れていたその指先が私の腕に触れ、もう一方の手のひらが頭に触れる。

 その指は、泣き虫な私にも魔法をかけて、我慢の糸をぷつりと断ち切ってしまう。


「ごめんな。俺がいない間、大変だったんだな」


 瞬きをすると、足元にぽたりと涙が落ちて、床に小さなしみを作った。

 兄の謝罪の言葉は、それほどの重みを含んでいない。

 当然、「留学をしてる設定」の彼にとっては、重度のブラコンな妹が淋しかったと訴えてるくらいにしか過ぎないのだから。


「お兄ちゃん、わかってない。お兄ちゃんがいなくなって、お父さんもお母さんもどれだけ変わっちゃったのか、わかってない!」


 わかるはず、ないのだと、わかってる。

 けれど、感情とともに堰を切ったようにあふれ出した思いを抑えきれずに吐き出した。

 腕から伝わる体温。

 あの日の、冷え切った彼の指先を思い出すと肌が粟立った。


「鈴葉」


 俯いた私に、諭すような声で名前を呼ぶ。


「俺、大学を卒業しても、こっちには帰ってこないつもりなんだ」


 不意をつかれ、私は顔を上げる。

 そんなこと、「私」は考えてなかったはずなのに。彼の将来設定は、私が考え出したものじゃない。


「だから、これからも父さんと母さんのこと、頼むな。こんなこと、今の鈴葉に頼めるようなことじゃないんだけど、もし何かあったときは、すぐ帰ってこれないだろうし。どうしても、鈴葉に迷惑かけると思うし。まぁ、そんなこと、無いのが一番なんだけど」


 申し訳なさそうに、彼は笑った。


「けど、鈴葉、俺の代わりになろうとか、そんなふうに思うなよ。鈴葉は、鈴葉のままでいいんだ。どんなことも、我慢しないでちゃんと父さんや母さんに話してみろよ。ちゃんと、わかってくれるから」


 誰かに、そう言ってほしかった。

 誰よりも、お兄ちゃんにそう言ってほしかった。


「ピアノ、弾こう」


 私の両手を取って、兄は歯を見せて、少しおどけたように笑う。


「鈴葉、上手くなったよな。でも、俺の代わりなんて言って弾いてたら、またいつか嫌いになる。だから、これからは、鈴葉が弾きたい曲を、思うままに弾けばいい。そうしたら、きっともっと上手くなるから」


 次々と溢れる涙を、困った顔をして拭いながら、もう泣くなと私を慰めた。

 この兄が、夢でも現実でもなく、ただの幻だとわかってる。

 けれど、彼の指先は温かくて、声は確かに耳に届き、息をしていて。

 たとえ幻だとしても、彼の声で紡がれた言葉たちは、私の中で沈殿し浮上することのなかったものを掬い上げて、昇華しようとしている。

 たったこれだけの瞬間、ありきたりな言葉の羅列。

 でもそれは、私にとって大きな意味を持つ。

 自分で涙を拭いて、ふたりで並んでピアノを弾いた。

 重なる音色、決してひとりでは奏でることのできない音楽が、ふたりきりの部屋に響く。


「じゃあ今夜、家で披露しようか」

「うん」


 予鈴が鳴って、私はドアノブにかけた手を止め、振り返る。


「お兄ちゃん。私の方こそ、ごめんね」


 目を丸くする彼に、なんだか恥ずかしくなった。


「それから、ありがとう」


 ひとつひとつ、事柄を挙げていけば、きりがなくて。

 本当の怜にも、そして、私が作り上げたもうひとりの彼にも感謝している。

 切ないけれど、どこかすっきりした気持ちで音楽室を出ると、私は息を飲んで足を止めた。

 学校という場所にそぐわない、黒の燕尾服にシルクハット、その背後にはゆらりと揺れる黒い尻尾。


「お久しぶりです、鈴葉さん」

「ゲーテ」


 私が彼の前まで来るのを待って、ゲーテは深々と頭を下げると、お疲れ様でしたと白い手袋に包まれた手をこちらに差し出した。


「長い間、お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました」


 出された手を取らずにはいられず、私も手を差し出し、軽い握手をする。

 つもりが、その手が離れない。


「……なっ! 何っ!!」

「まだまだ、一言では伝えきれないほど、鈴葉さんにはお礼を申し上げたくて」

「だからって、手、離してくれたっていいじゃない?」

「いえ、この手を離せば、もう鈴葉さんとはお別れなのです」


 ずいぶんと切ない顔をして、溜息を吐く。

 ……って。


「ど、どういうこと!? この手を離せばって、まだ5日間経ってないでしょ?」

「えぇ、鈴葉さんの仰るとおり。ですが今回、なるべく鈴葉さんの要望にお応えしようと思いまして、範囲を広げて世界を作り上げた結果、まぁ、このように主要登場人物以外、幽霊のような影だけになってしまうという事態が起こりました。それと同時に、お試し無料期間も若干短くなってしまいまして。こうして最後の最後までお伝えできなかったのは、この管理人ゲーテの不徳の致すところでございます。大変申し訳ございません」


 謝っているわりには、いつもの満面の笑みだ。


「最後まで、意地悪なのね」

「そういう言い方は不本意です。せめてサドと言って下さい」


 そう言い替えることに、意味はあるのか!?

 突っ込みたくなるけれど、うっかり機嫌を損ねてこの手を離されては困る。


「岩城は?」

「もう、先に戻っていただきました」

「嘘っ!?」

「サドですが、嘘は吐きません。それから結人様も、もうここには存在しません」

「……えっ」

「とはいえ、どうして存在しなくなってしまったのか、最早鈴葉さんには理解できないかもしれませんね」


 きっと朝から気になっていた「何か」のことだ。

 それなのに、もどかしいほどそれが「何」なのかわからないし、記憶を結び付けようとすればするほど、頭の中が混乱していく。


「鈴葉さん、きみのおかげで、ぼくもたくさんの勉強をさせていただきました。様々な貴重なデータも取れたことですし、大いにこの空想遊戯保護区に貢献していただいたと心から感謝申し上げます。何より、ぼく自身、管理人をしていてこんなに楽しかったことはありませんでした。そういう意味でも、きみと別れることになるのは、非常に淋しいのですが……」

「待って!」

「はい?」

「結人に……結人に、まだ私、何も言ってない」


 伝えたい言葉は、明確には浮かんでこないけれど。

 最後の言葉は何だった?

 私はどんな顔してた?

 とにかくこのままじゃ……。


「彼女に、告げられていたはずです。彼がいなくなり、そして、鈴葉さんが、彼女の存在を忘れてしまうということを。今回は鈴葉さんの危機管理能力のレベルの低さを露呈する結果になりました。残念です」

「何を……」

「いえ、言葉が大げさになりましたが、本来、予測できたはずのことだったのに、きみはそれに対処するのが遅れてしまった。その結果、大切な彼らに、感謝やさよならの言葉を告げられなかった」

「でも、だって、こんなに早く終わるなんて……」

「それについては、何度もお詫びします。けれど、鈴葉さん、現実では、当然のことながら別れのタイムリミットなど、誰からも教えられないものでしょう」


 ゲーテの言葉に、急に兄の顔が脳裏に浮かんですぐ消えた。


「それでは、お元気で」

「え!? ちょっと待って!」

「何ですか? 最後にぼくに愛の告白でも?」

「違うっ!」

「そうですか。それは残念です。では、これにて、ゲームオーバーとさせていただきます」


 強く握り締めていた感覚が突然消えて、私は自分の手のひらを握り締めることになる。

 瞬間、ふわりと体が無重力空間に投げ出され、いつかと同じように、あたりは星の散りばめられた闇へと急変した。

 猛スピードで落ちていく感覚に、必死で何かを掴もうと両手を伸ばし、もがいてみても状況は変わらない。


「結人ーっ!!」


 あの時、結人はわかっていたんだろうか。

 もう、会えないってことを。

 あまりにもあっけなく訪れた別れに、私は必死で彼の名を呼んだ。

 意識が遠のく中で、誰かが私の手を握ってくれたような感触があったのは、私の願望だったんだろうか。

 それとも。




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