第五話 揺らぎ
一人になった講義室は、昼よりもずっと広く感じた。
照明魔石の光が落とされ、机の影が床に滲んでいる。
カイルは、何もないはずの自分の手を見つめる。
――まだ、残っている。
さっきまで触れていたはずの温度。
指先に残る、かすかな柔らかさ。
「……気づきたくなかった」
誰に言うでもなく、呟いた。
喉の奥がひどく乾いている。
はは、と短く笑うと、それは自嘲にしかならなかった。
セレーナは、お嬢様だ。
治癒科の優等生で、周りから期待されて、未来がある。
一方、自分は奨学金で通っているだけの平民。
卒業試験を越えられるかどうかで、人生が決まる。
――釣り合うわけがない。
三ヶ月の契約。
女避けのための、ただの“役”。
そう決めたのは自分だ。
なのに。
「……触るなよ」
誰もいない空間に、吐き捨てる。
これ以上近づけば、
きっと、手を引けなくなる。
明日からは、少し距離を取ろう。
ちゃんと、契約通りに。
そう思った瞬間、
手のひらに残る温度が、やけに重く感じられた。
セレーナは困惑していた。
廊下の向こうに、見慣れた背中を見つける。
無意識に足がそちらへ向かっていた。
「……カイル。おはよう」
いつも通りの声だったと思う。
少なくとも、セレーナの中では。
けれど。
カイルは一瞬だけこちらを見て、ほんの短く頷いただけだった。
「おはよう」
それだけ言って、歩調を緩めることもなく、先へ進んでしまう。
――あれ?
立ち止まったまま、セレーナは瞬きをした。
昨日までなら、少なくとも隣に並んで歩いていた。
声をかければ、何か一言、余計なことを言ってきたはずだ。
なのに今日は、距離がある。
意図的に、半歩分。
教室に入っても、カイルは自分の席へ直行した。
こちらを気にする素振りもない。
……気のせい?
そう思おうとして、胸の奥がざわつく。
昨日の夜。
講義室で交わした視線と、触れた体温が、やけに鮮明によみがえった。
――契約なのに。
自分で言った言葉が、今になって刺さる。
席に着いても、落ち着かなかった。
視線が、どうしても彼の背中を追ってしまう。
カイルは一度も振り返らなかった。
それが、なぜか。
ひどく、怖かった。
昼休み。
鐘が鳴ると同時に、教室は一気にざわめいた。
椅子を引く音、弁当箱の蓋が開く音、笑い声。
――いつもなら。
セレーナは、無意識に視線を巡らせてしまう。
席を立つカイルの姿を探して。
けれど。
彼は立ち上がると、そのまま友人に声をかけられ、反対側へ歩いていった。
こちらを一度も見ないまま。
「……あ」
小さく声が漏れたのは、自分でも気づかないほどだった。
昨日までは、決まっていた。
目が合って、どちらともなく立ち上がって、並んで歩く。
それが“演技”だと、ちゃんとわかっていたはずなのに。
席に残されたまま、セレーナは弁当箱を開く。
箸を持つ手が、わずかに震えた。
忙しいだけ、だよね……
そう思おうとした瞬間。
「ねえ、セレーナ」
背後から声がして、肩が跳ねる。
振り向くと、同じ治癒科の女子が立っていた。
「今日、一緒に食べない?」
「最近、ずっとカイル君と一緒だったから、誘いづらくてさ」
善意なのはわかる。
それでも、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……うん、ありがとう」
席を立つとき、無意識にもう一度だけ、教室を見回す。
けれど、カイルの姿はなかった。
食堂へ向かう途中。
通路の角で、カイルを見かけた。
数人の女子に囲まれている。
笑ってはいないが、逃げてもいない。
――女避け、じゃなかったの?
胸の奥で、何かがひっかかった。
視線に気づいたのか、カイルがふっと顔を上げる。
一瞬だけ、目が合う。
けれど彼は、すぐに視線を逸らした。
それが、答えのように思えてしまって。
セレーナは、何も言えないまま、歩き出した。
夜の講義室。
灯りは最小限に落とされ、長机の上に置かれた魔導書だけが、淡く光を返していた。
窓の外は暗く、校舎全体が眠っているように静かだ。
「……そこ、式の順が違う」
カイルの声は、低く、事務的だった。
セレーナは頷き、言われた通りに式を書き直す。
けれど、魔力の流れはうまく整わず、指先がわずかに震えた。
「……すみません」
「謝る必要はない」
即答だった。
昨日までなら、もう一言、何か付け加えてくれたはずなのに。
距離がある。
物理的には、机一つ分しか離れていないのに。
沈黙が、講義室に落ちる。
セレーナは、視線を魔導書に落としたまま、ぽつりと呟いた。
「私……何か、しちゃった?」
カイルのペンが、止まる。
「昼から、ずっと……避けられてる気がして」
言葉にした瞬間、自分の声が少しだけ震えているのがわかった。
契約なのに。演技なのに。
こんな言い方をする資格は、ないはずなのに。
「気のせいだ」
間を置いて、カイルはそう言った。
その声音は、冷たくはない。
けれど、昨日までの優しさも、そこにはなかった。
「勉強に集中しろ。今はそれだけでいい」
セレーナは、唇を噛む。
それ以上踏み込めば、何かが壊れる気がして。
しばらくして、カイルが立ち上がった。
机を回り込み、セレーナの背後に立つ。
紙の上を指し示す距離。
触れそうで、触れない。
「ここ。魔力の収束点を、もっと絞れ」
息が、近い。
それだけで、胸がざわつく。
――昨日は。
肩に置かれた手を、思い出してしまう。
無意識に、身を強張らせたその瞬間。
カイルは、はっとしたように一歩引いた。
「……悪い」
低く、短い謝罪。
そして、まるで自分に言い聞かせるように。
「これ以上、優しくするな」
セレーナは、顔を上げた。
「……え?」
「俺たちには、必要ない」
講義室に、また沈黙が落ちる。
セレーナは何も言えず、ただ魔導書に視線を戻した。
胸の奥が軋んで、音を立てて崩れていく。
そうか、私、もう遅かったんだ。




