第三話 境界線
夜の講義室は、昼とは別の顔をしていた。
高い天井に浮かぶ照明魔石の光は控えめで、机の輪郭だけを淡く浮かび上がらせている。
セレーナは教本を開いたまま、椅子に浅く腰掛けていた。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
「……遅くなってごめん」
扉が静かに閉まり、カイルが入ってくる。
昼間と変わらないはずの制服なのに、夜のせいか、少しだけ大人びて見えた。
「ううん。私も、今来たところ」
嘘だった。
少し早く来て、落ち着かない気持ちを整えようとしていた。
カイルは向かいの席ではなく、隣に腰を下ろす。自然な動作で、距離が縮まる。
「……ここ。昨日詰まってたとこだろ」
彼はそう言って、教本を指で押さえた。
近い。指先が、セレーナの手の甲に触れそうな距離。
「魔力の流し方が雑なんだよ。水属性は、勢いじゃなくて……ほら」
カイルは短く呪文を唱え、空中に淡い水の輪を浮かべた。
淡く輝く水の輪が、揺れず、崩れず、静かに保たれている。
「呼吸と一緒に、ならす感じ。力を入れすぎんな」
「……こう?」
セレーナが真似ると、水の輪がほんの少し歪む。
「違う」
即座に、けれど乱暴さはなく。
カイルは一歩近づき、セレーナの手首を取った。驚くほど、優しい力だった。
「ここ。無意識に魔力を溜めすぎてる」
触れられたところから、熱が広がる。
演技でも、契約でもない距離に、心臓が追いつかない。
「……近い」
思わず漏れた声に、カイルが一瞬だけ固まる。
「……あ、悪い」
けれど手は、離れなかった。
「でも、今はちゃんと覚えろ。これ、治癒術でも使う」
その言葉に、セレーナは頷くしかなかった。
しばらく、二人とも無言で魔法に集中する。
水の魔力が、静かに呼吸するように循環していく。
魔法に集中しているはずなのに、意識の端に、ずっとカイルの気配があった。肩が触れそうで触れない距離。紙をめくる音。呼吸の速さ。
夜の講義室で、二人きりだという事実が、遅れて胸に落ちてくる。
昼なら、きっとこんなふうに思わなかった。
「……なあ、セレーナ」
ふいに、カイルが口を開いた。
しばらく沈黙が続いたあと、カイルがぽつりと言った。
「卒業試験、知ってるだろ」
「官位試験……?」
「そう。あれ通れば、平民でも官位がもらえる」
「俺は、奨学金でここ通ってる」
あまりにもさらっとしていて、セレーナは一拍、反応が遅れた。
「……え?」
「下っ端でも、役所勤めになる。給金は安定してるし、住むとこだって困らない」
「魔術の才があれば、配属も悪くない」
あまりに具体的で、セレーナは思わず聞き入ってしまう。
「……ちゃんとした未来、だね」
「保証されてるって意味ではな」
カイルは肩をすくめた。
「俺、家に戻っても何もないからさ」
「だから勉強する。魔法が好きだからって理由じゃない」
一瞬、言葉が鋭くなる。
「生きるために、一番確実な道を選んでるだけ」
その言い方は冷静で、現実的で。
なのに、どこか自分に言い聞かせるみたいだった。
「……それ、悪いことじゃないと思う」
セレーナがそう言うと、カイルは意外そうに目を細めた。
「同情?」
「違う」
首を横に振る。
「ちゃんと考えてるって、思っただけ」
「……教えてくれて、ありがとう」
カイルは少し黙ってから、視線を逸らした。
「……奨学金も、それが条件だ。成績落としたら、ここにはいられない」
だから勉強する。
だから手を抜かない。
だから、将来を賭ける。
言葉にされなくても、その覚悟は十分すぎるほど伝わってきた。
「……セレーナ」
「なに?」
「だからさ。勉強、ちゃんとやれ」
ぶっきらぼうな言い方に、ほんの少しだけ優しさが混じる。
「お前は選べる立場かもしれないけど、自分でききるだろ」
照明魔石の光が、少しだけ弱まっていた。
夜の個別指導が、終わりに近づいている合図だった。




