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嘘だった。三ヶ月だけ恋人のふりをする契約でした。  作者: 絹ごし春雨


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第一話 契約

 夕刻の鐘が遠くで沈む。

 魔法学院の石畳は、日の名残をすくい取るように淡く光り、校庭の空気にはまだ微かに残暑が潜んでいた。


 セレーナは教本を胸に抱えたまま、塔の影に身を寄せる。

 ――呼吸が浅い。

 今日こそ言わなければならない、とわかっているのに、喉だけが冷たく硬くなっていた。


 三か月。

 その間だけ“恋人”になってほしい。

 そんな馬鹿みたいな頼みを、どうして自分は引き受けてしまったのだろう。


 塔の向こう側から、ゆっくりと足音が近づく。


「……待たせたか?」


 カイルの声は、低くて、無駄に優しかった。

 彼はいつものように涼しい顔で歩み寄り、セレーナの前で立ち止まる。その手には、魔法薬実験室の鍵。彼はそれをふらりと揺らした。


「今日から、だよな。契約」


 セレーナは小さく頷く。

 視線を合わせられない。彼の瞳の奥で何が揺れるのか、知るのが怖かった。


「……期間限定、だから。あんまり、私のこと気にしないでいいよ」


 気にしないで、なんて。言ってる自分が、一番気にしてるというようなものだ。

 本当はそんなの、言いたくなかった。


 カイルは少しだけ眉を動かし、それからかすかに笑う。


「気にするなって言われても……恋人なんだろ?」

「……期間限定だよ?」

「知ってる。でも、三か月は三か月だ」


 穏やかな声なのに、逃げ場を奪われるようで、セレーナの胸の奥で、微かな痛みが芽吹く。


 ――この契約が、何かをもたらしてしまいそうで、こわい。


 行こう、と手を差し出しかけ、カイルが引っ込める。

 それなのに、彼の隣に立ってしまう。

 歩き出した二人の影だけが、夕闇の上でひとつに重なり、揺れた。




ことの始まりはこうだ。


二日前、セレーナは難しい魔法理論の問題を前に、ひとり唸っていた。

ひとつ先の式がどうにも腑に落ちない。紙の上を視線だけが彷徨っていく。


そのとき。

後ろから、トントン、と軽く机を叩く音。


覗き込んできたのは、カイルだった。


「その公式、間違ってる」


いつもの抑えた声。

けれど、彼は自分のノートを開いたまま、ためらいもなくセレーナの隣へ身を寄せた。


「ほら。ここ」


ふたりの肩が触れそうな距離――その瞬間だった。


クラスに、どよめきが走った。


「え、ちょっと……あれって」

「二人って、付き合ってるの?」

「めっちゃお似合いなんだけど……!」


セレーナは驚いて顔を上げたが、カイルはまるで気づいていないように淡々と式をなぞっていく。


「ここ。符号が逆。だから次のページで崩れる」


「……あ、ほんとだ」


近いのは、ただそれだけの理由だった。

ただそれだけのはずだったのに――噂は、光より速かった。




放課後。

廊下の陰で、セレーナはドキドキする胸を押さえながら、カイルを捕まえた。


「……ねえ、なんでさっき否定しなかったの?」


カイルは少しだけ息を吸い、視線を外へ流したあとで言った。


「頼みたいことがあるんだよね」


「え……?」


「セレーナ、三ヶ月だけでいい。……俺の“彼女役”をしてほしい」


あまりにも唐突で、セレーナは息を呑んだ。


「もちろん交換条件は出す。三ヶ月間、お前の勉強を見てやる。

 どうだ、優等生さん」


「どうして私?」


「……お前なら、変に期待したりしないだろ。女に騒がれるのって、けっこう疲れんの」


その言い方は、軽いようでいて、どこか本気だった。


セレーナは短く息を整え、静かに答えた。


「……いいよ。三ヶ月だけなら引き受ける」


カイルは緩く息を吐いた。

その表情は、ほんのわずかだが、安堵にほどけていて。


その仕草に胸が揺れたことに――

セレーナはまだ、気づいていなかった。




 翌朝、学院に入った瞬間、空気が妙にざわついているのに気づいた。


 何人かの生徒がセレーナを見るたび、そわそわと視線を交わし合う。

 ひそひそ声は隠すつもりがないらしく、耳に届くほど露骨だった。


「ほんとに……?」

「だって昨日、あれ……見たでしょ」


 ――昨日。

 カイルと近い距離でノートを覗き込んでいただけの、あの瞬間。


 胸がざわりと揺れ、セレーナは歩く速度を少しだけ早めた。

 カイルと“契約”を交わしたのは、つい昨晩だ。正式に彼の“恋人役”になる初日。


 教室へ入ると、空気が一段階濃くなる。

 生徒たちの視線が一斉にこちらへ向いた。期待と、好奇と、半分は面白がりだ。


「……おはよ」


 挨拶すると、返事はあるのに、どこかぎこちない。


 席につこうとしたとき。


「おい、セレーナ」


椅子に座ったまま机の上に足を組んで投げ出したカイルが呼びかけてくる。


ーー普通にしてろよって言われたけど、普通って何?


「ちょっと、こっち」


呼び出され、教室の空気がまたざわつく。セレーナは戸惑いながらカイルのそばへ歩く。


「……なに?」


「これ。昨日言ってた課題の答え」


無造作に差し出されたのは、彼の字でびっしり書かれた補足ノート。

ページをめくれば、式のポイントに赤い線で説明が入っていて、驚くほどわかりやすい。


「ありがと。……でも朝からわざわざしてくれなくても」


「言っただろ。三ヶ月、きちんと面倒見てやるって」


何気なく言うくせに、その声音はどこか柔らかい。


「ねえ、あれ……絶対付き合ってるでしょ……」

「ええー嘘……カイル君カッコいいから狙ってたのに」

「でも、あの空気は……」


 セレーナは慌てて視線を逸らした。


「あの……カイル」


「いいだろ。”恋人役“なんだから」


さらりと当然のように言って、彼はノートを押し付けるかのように渡してくる。


「昼、一緒に食うかどうかは任せる。……無理なら別でいい」


「え……普通で……」


「普通って一番難しいよな」


からかうわけでもなく、ただ事実として言われた言葉。全部嘘だから。そんな意味が押し寄せてきて、セレーナの胸が不意に痛んだ。


ーーこの契約、思っていたよりも心に触れる。


そんな考えが一瞬よぎり、セレーナは慌てて胸の奥に押し込めた。


ただの三ヶ月。

ただの“役目”のはずなのに。


どうして、こんなに呼吸が浅いのだろう。




教室を出ると、廊下のあちこちで、誰かがひそひそと名前を囁いている。

足を踏み出すたびに視線がふっと集まり、すぐに逸らされる。

胸の奥がざわついた。


「……セレーナ!」


いつもより早足のミアが、頬を紅潮させて駆け寄ってきた。


「ちょ、ちょっと! これ、どういうことなの!?」


「どういうって……」


ミアは言葉にならない声を漏らしながら、手にした小さな紙片を突き出した。


そこには、魔法薬学の教室に貼られていたという落書きの写しが描かれていた。


──カイル先輩の彼女、セレーナ・グレイス?


「ちが、違うの! これは……!」


否定しようとした瞬間、ミアがセレーナの手をつかんだ。


「ちがうならちがうでいいんだけど……あのね、さっきからみんな、その、カイル君が……」


言いかけたところで、廊下の奥が急に静まり返った。


背筋にかすかな冷気が走る。

振り返ると、学生たちの視線の向こうで、カイルがこちらへ歩いてくるところだった。


無駄に堂々としていて、落ち着き払っていて、通りすがる生徒が勝手に道を開けていく。


セレーナの心臓は、何もしていないのに忙しく跳ねた。


カイルの視線がセレーナを見つけた。

そのまま迷いもなく、真っ直ぐに歩み寄ってくる。


「セレーナ」


いつも通りの平板な声なのに、周囲の空気がぴん、と張り詰める。


「……カイル」


「行くぞ。授業、始まる」


自然な動作で手首を軽く引かれ、セレーナは驚いて足をもつれさせそうになった。


(ちょっと……ちょっと待って、なんでこんな自然に……!)


横でミアが口をぱくぱくさせているのが視界の端に入る。


「カ、カイル君……その、二人って……」


ミアが勇気を振り絞って声をかけた瞬間、カイルはさらりと言った。


「三ヶ月、俺が預かるから」


一拍。


廊下中が、爆ぜるようにどよめいた。


セレーナは思わず立ち止まる。


「ちょ、ちょっとカイル!? それ言い方……!」


「言っとかねえと、また変な噂立つだろ」


あくまで淡々と返す。


騒ぎの中心になっていることを気にも留めないその態度に、胸の奥が妙にざわめいた。


(……こんなの、聞いてないんだけど)


けれど握られた手首のぬくもりは優しくて、振りほどく理由も、また、見つけられなかった。

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