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「祝いの言葉を述べに参りました、兄上」
まだ変声期を迎えていない高い声が、淀みなく言葉を紡ぐ。
優雅に、アウセムが一礼する。家臣の、礼だ。
「有り難く頂戴致します。しかし――失礼ながら、フィル様が単身で私の元を訪問するのは、軽率かと思われます。先のこともあります。いらぬ噂が立つでしょう」
フィル、と呼ばれても、カールの顔に、これまでのような感情の揺れは生まれなかった。
「心配はいりません。私の占師、シャンティールが、占いを行いました。私が祝いの場に足を運ぶべき、と出たのです。それなのに、誰が、反対するというのですか」
カールは、近くにいた貴族に呼びかけた。
「ザレリ伯。あなたもそう思いませんか」
水を向けられた貴族が、慌てて笑顔を作り、追従する。
「もちろんですとも。シャンティール様のお言葉を、疑うはずがありません。専用占師の占いに耳を傾けるのは、王族としても当然のことです」
カールも笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ザレリ伯。同意を得られて私も嬉しい」
笑顔のまま、カールが続けた。
「ならば、これにもザレリ伯は賛同してくれるだろう。シャンティールの占いには続きがあるんだ」
「……は?」
貴族が、ぽかんと口を開けた。
「私と兄上は、もっと接触の機会を持つべきである、と。つきましては、兄上」
カールが、アウセムに向き直る。
「都合がつきましたらどうぞ、いつでも私の元へおいでください。私がルーレ離宮に参上しても良いのですが」
弟と接している時、ほとんどと言っていいほど表情を動かさないアウセムの横顔に、はじめて感情の色が宿った。口角が、微かに持ち上げられる。すぐ、消えてしまったが。
「――カール殿下! 何を馬鹿なことを! ましてや、ルーレ離宮になど!」
追従していたはずの貴族が、笑顔を捨てた。
「ザレリ伯。同意してくれたのではなかったのか? 言ったろう? これは、我が専用占師であるシャンティールの言葉である、と。占宮も、他の占師も、誰も覆すことはできない。異を唱えるのは、我が占師を侮辱するも同然だ。――その勇気はあるのか?」
カールがアウセムに近づこうとすることも、その逆も。内心は、誰もが反対なのだろう。しかし、青ざめた貴族たちは、誰も口を開こうとしない。
「兄上はどうでしょうか? シャンティールを侮辱しますか?」
アウセムはゆっくりと首を振った。
「……まさか。せっかくの招きを断るなど。後日、うかがいましょう」
「約束ですよ? この場の皆が、証言者です」
部屋をぐるりと見渡し、言い放ったカールは、宴に参加していた人々に対して微笑みかける。そのカールの瞳が、杯を両手で持ったまま、立ち尽くしていたエーファの位置でとまる。にこりと、カールは変わらぬ笑顔を向けてきた。
「さ、さあ。音楽などいかがでしょう? 新しき銀髪の占師の誕生を祝し、楽隊を呼んでいます」
貴族の一人だろう。カールの登場で乱れた場を取り繕おうと、手を叩いた。楽隊が、即興で曲を奏で始めると、男性が女性の手をとって踊り出した。
「占師様、僭越ながら、お手を」
とにかく、アウセムのところに行こうとしていたエーファの前に、手のひらが差し出された。近くにいた若い貴族だ。エーファは頭が真っ白になり、恐慌状態に陥った。貴族は微笑んでいるが、目は笑っていない。足が震える。
だが、次の瞬間、若い貴族が着ていた紫の服に、水音と共に盛大な染みができていた。
「…………? ――ああ! 申し訳ありません! 自分はなんということを……!」
「貴様……! 兵士風情がよくもわたしに酒など!」
杯に入っていた酒をかけられ、貴族の顔に朱が昇る。
「どこの隊だ! 所属を言え!」
「は! 近衛隊第五隊に所属しておりましたノア・ランガーと申します!」
朱が薄れ、貴族の顔に嘲笑が浮かんだ。じろじろとノアを眺め、鼻を鳴らす。
「第五隊だと……? ああ、数合わせで王都から行列に参加したとかいう……」
「現在は、ガルシャス殿下に引き抜かれ、殿下の側に仕えております! 本当に申し訳ありませんでした! 自分にはどうお詫びして良いかわかりませんので、今、殿下を呼んで参ります!」
さっと踵を返しかけたノアに、貴族が、慌てて声をかける。
「ま、待て!」
「は! 何でしょう!」
「わたしは、心が広い。占師様の手前もある。貴様の非礼は許してやろう。特別にだ」
今度は、エーファに微笑みかける。
「では占師様、いずれまた」
貴族の姿が完全に見えなくなるとノアは、ふう、と大きく息を吐いた。まだ三分の一ほど残りのある杯の酒をぐいっと喉に流し込む。
「あー。緊張したー」
「あの……ありがとうございました」
エーファが礼を述べると、ノアは罰の悪そうな顔をした。
「いや、えー、殿下に一応、エーファ様のことをですね、自分が側にいない時は見ていてやれって命令されていたんですけどね……」
歯切れの悪い口調だ。頭を掻いている。
「記憶が途切れて我に返ればああなっていたというか、酒をぶっかけた後だったというか……。たまに、なんかこんな……疲れてんのかな?」
難しい顔をして目を瞑った後、肩につくんじゃないかという勢いで首を傾げた。エーファがそんなノアを不思議そうにじっと見つめていると、ノアが敬礼した。
「これは、ガルシャス殿下、カール殿下!」
人々の輪が、巧妙に、道を作る。王族の兄弟のために。兄弟に付き従うように、セルジークが続く。彼らは、エーファの前で立ちどまった。
「こちらが私の占師です。名は、エーファ」
カールが軽く会釈する。エーファもカールを真似する形で慌てて頭を下げた。
「こうしてきちんと自己紹介するのは初めてですね。カールと申します」
「エーファ、と申します」
つと、悪戯っぽい笑みをカールが浮かべた。
「私もあなたに一曲お相手願おうかと思っているんですけど、同じように追い払われてしまうんでしょうか?」
「えっ?」
下がろうとしていたノアの声が裏返る。
「カール様。悪い冗談は……」
諌めようと発言したのだろうセルジークの言葉を、アウセムが遮った。
「では、我が占師をしばしお貸ししましょう」
カールが、意味を計りかねたのか、瞬きした。しかし笑みにすぐに覆い隠される。
「――占師様。兄上の言葉に甘えます。どうぞ私と一曲」
手が届く距離までエーファに近づいたカールは、若い貴族がそうしたように、貴族よりも恭しく手を差し伸べた。
まるで肉食獣に狙われているような強い恐怖感も湧き起こらなかった。
しかし。
「あの、わたしは、踊れないんです」
途端、素知らぬ顔をしながら、エーファたちに目を光らせていたのであろう人々の間で、微かな嗤い声が上がった。
「まあ、踊れないんですって……」
「それは酷というものよ。銀髪の占師さまといえど、平民ですもの」
「わかっていて誘うなんて、キース子爵もひどい人」
「あら。あれは第五隊の兵士のせいで失敗したじゃない。第五隊ですって! それに、ガルシャス様も踊れないそうよ。踊れない同士、お似合いじゃない?」
くすくすと話し声が、嗤い声が、自分を取り巻いている。
それから、哀れむような視線。これは、セルジークからだった。アウセムの視線にはそんなものは一切含まれていない。朽ち色の瞳で、エーファがどうするかを見守っている。
唾を飲み込む。カールの手は差し出されたままだ。
「占師様、杯をお下げ致します」
先程、黒苺の果実水を持ってきてくれた給仕がいつの間にか近くに立っていた。エーファが左手に持ち替えていた、まったく中身の減っていない杯を受け取る。
それが、踏ん切りになった。
カールの手のひらに、右手を重ねる。少年の手に、漠然と想像していたような、柔らかさはなかった。剣だこの残る、固い手のひらだ。毎日、稽古に励んでいなければ、こんな風にはならないだろう。
「ぼくに任せてくださいね。これでも、踊りには自信があるんです」
カールに引っ張り出され、踊りの輪の中へと、エーファも加わった。自信がある、と言うだけのことはあって、ぎこちない動きのエーファを、手慣れた様子で導く。そして、自分でも意外だったのが、身体がカールの動きに対し、すんなり順応していったことだ。
楽隊が奏でている曲にも、何となく、聞き覚えがあるような気がする。
――ああ、そうか。この曲は。
キトリスの民族舞踊だ。懐かしい、曲だ。楽器などないから、歌いながら踊る練習をした。裏街が最も賑わう、春を祝う祭りの日。大人も子供も着飾り、広場を使って舞踏会の真似をする。
綺麗な服を着て、踊ってみたい。そんな願いが叶うと信じて、エイルと、一緒に踊ろうと約束をした。練習を、した。あの時、エイルに習って覚えた順番と、動き。二人で踊るのを楽しみにしていた。皆、あっと驚くに違いないと。
カールに誘導され、身体が一回転する。
セルジークが苦々しい顔をしながら、何かをアウセムに訴えている光景が、その最中で視界に入った。
「筋が良いと思います。これなら、練習すれば誰が相手でもすぐに踊れるようになります。どこかで基本を習ったことがあるのですか?」
「友達に……エイルという友達に、習いました」
「……エイル? 遺跡でぼくを見た時、確か、そう、呼びましたよね?」
踊りながら、少年が首を傾げる。
「はい。エイルは、カール様に似ていたんです」
「似ていた?」
過去形になっていたのに気づいたのだろう。カールが痛ましげに目を伏せた。互いの身体が、曲の調べにのって、離れ、また近づいた。
「――彼は、それほどぼくに似ていましたか?」
その声音は、緊張をはらんでいるようにも聞こえた。
背丈は、僅かだがカールのほうがある。晴れ渡った空のような明るい青の瞳がエーファを見下ろしていた。別人だとは、分かっている。纏う雰囲気も異なる。だが、カールがもし、「自分はエイルだ」と言ったら、信じてしまいそうなほど、顔立ちは似通っていた。
「似ている、と思います。でも、もう六年も前のことです」
もう、ではない。まだ、たった六年、だった。エイルは成長することはない。
「……六年前? 六年前……。そうですか」
空の青色が翳りをおびる。それきりカールは口を噤んだ。
曲が、終わる。男女に互いに離れ、左手を背に、一礼し合う。エイルに教わった通りの動きを、周囲の人々も行っている。
「それほど似ているなら、ぼくもぜひ、彼に会ってみたかった。残念です」
呟き、カールが静かな微笑みを浮かべた。だが、その微笑みは、次の瞬間には、仮面を被せたかのように、いつも少年が浮かべているものにすり替わった。にこりと笑い、礼をする。遅れて、エーファも一礼した。
乾いた拍手の音がどこからともなく響き渡る。
――アウセムだった。
彼は、給仕が差し出した杯を掲げた。
「新しき我が占師と、第二王子の素晴らしい踊りに」
それが契機となった。
広間のあちこちで鳴り出した拍手の音が、一曲踊り終えたエーファとカールを迎えた。




