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着替えは、アウセムが呼んだ女性に手伝ってもらった。女性は緑色の長衣を着ていた。髪はきつく結い上げている。年齢は三十代後半ほどだろうか。
衣装は身体に巻き付けるようにして着用する形で、着替えろと言われても、エーファ一人ではどう着るか検討もつかなかった。アウセムに連れられ別室へ移動したものの、アウセムはエーファを残し戻ってしまった。
女性がやって来るまで、高級品であろう服を手に、途方に暮れていたのだ。
ほとんど表情を変えることもなく、口数も少なかったが、女性の手つきは正確だった。
濡らした布巾でエーファの身体を拭き、エーファが服を着る手助けをしてくれる。器用に巻き付ける部分の布と垂らす部分の布を分け、整える。
服を着たら、次は髪だ。髪を扱う段階に入ると、僅かに、女性の様子が変化した。鏡に映る、女性の瞳が柔らかく和み、懐かしむように、エーファの髪を手に取った。
身体を拭いてくれた時よりも、注意深く、エーファの髪を扱う。乾いてはいたものの、束のようになっていた銀色の髪を梳かす。引っかかってばかりいた髪が、櫛を通すようになる。
鏡には、知らない少女が映っている。
年頃の、娘らしい姿だ。姿だけなら、もしかしたら、衣装のせいもあって貴族の娘と勘違いされるかもしれない。
だが、その娘は、どこか不安そうに、こちらを見つめていた。
薄く化粧を施された後、何足か用意されていた靴の中の一つに足を通す。
最後に――これはアウセムに言い含められていたのだろう――女性は、エーファが元々持ち歩いていた皮袋を、腰に巻いた。衣装との違和感は、意外にもない。
「こちらへ」
廊下を挟んで反対側にあるアウセムの執務室に戻るのかと思っていた。しかしそこを素通りした。廊下の先へと進む。
「ガルシャス殿下は、別の場所で待っておられます。わたしは、そこまであなた様をお連れする役目を仰せつかりました」
小声だったが、城内では響いて聞こえる。
それほど、物音がしない。カツン、カツン、とエーファと女性が歩く音だけがこだました。女性の歩く速度は早い。慣れない衣服に靴とあって、エーファは彼女の後ろ姿を見失わないようにするのがやっとだ。
――誰ともすれ違わない。
ようやくすれ違ったと思ったら、その姿はいずれも透けていた。
霊のほうが、多い。
衛兵すら、立っていないのだ。
どうして、誰もいないのだろう?
掃除は綺麗に行き届いている。磨き上げられた床。高い天井にも、蜘蛛の巣一つ張っていない。申し訳程度に絵画や壺といった調度品も飾られている。ただ、無人なのだ。幾つもの扉も通り過ぎたが、中に人がいるとは思えなかった。
いないと言えば――。
エーファは、きょろきょろと辺りを見回した。
あれから、気配は感じるのに、首無しを見掛けていない。結局、探し人であるアウセムはエーファのほうが先に見つけてしまったけれども、あのまま、というのが首無しらしくない。一言、声を掛けてくれるか、姿を見せるぐらいはしてくれてもいいのに。
それをしないということは、首無しにも何か事情があって、理由があるのだろう。そうは思っても、でも、という思いが消えない。
首無しに会いたいと思えば、すぐ側にいてくれるのが、当たり前だったのに。
――当たり前?
そうなのだろうか。
自分で、自分の間違いに気づく。
当たり前なんかじゃない。すべては、首無しが、エーファの気持ちを汲んでいてくれたからだ。自分はただ、それに甘えていただけではないか?
何も言わなくても、首無しは、エーファが内心で望んでいた行動を取ってくれた。
けれど、エーファは首無しのことを、知らない。
霊が生前のことを覚えていないからというだけでなく――知らない。
今、「首無し」と、呼べば、来てくれるかもしれない。何事もなく、姿を現してくれるのかもしれない。実際、何ということはないのかもしれない。
だが、エーファは、呼べなかった。
唇を引き結んで、黙々と歩く。それから、どれくらい進んだのだろう。
「ルーレ離宮に好き好んで寄りつこうとする者はおりません」
前のほうから声が聞こえた。少し女性の歩く速度が落ちている。
「ここが……ルーレ離宮、なんですか?」
思いがけない言葉だった。カルクレート城内の、ルーレ離宮。
しかし、城の中心が、これほど閑散としているものだろうか。カルクレート城は、王族の避暑地として建てられたはずだ。現在のカルクレート城は、軍事用途として大増築されているとはいえ、ルーレ離宮は初期の建築物のはず。なのに、華やぎというものがない。
「左様です。ルーレ離宮は、あってはならないことが起こった、忌まわしき場所と認識されております」
「忌まわしき場所?」
「王の占師、アレーラが凶行に及んだ場所です」
アレーラ。それは、ネール戦争中に、国を勝利に導いた銀髪の占師ではなかったか。
その彼女が、凶行に及んだ?
「国の誉れ。王の占師、アレーラが幼いガルシャス殿下を殺そうとしたのが、この離宮なのです」
女性は、歩みをとめていた。何かを思い返すかのように、どこか遠くを見つめている。
「雨の日でした。数日間、雨が降り続いた」
――雨。雨が嫌いだと、アウセムが言っていたのを、エーファは思い出した。
「……彼女は、何故、そんなことをしたのですか?」
女性が首を横に振る。
「理由は、アレーラにしかわかりません。ただ、王宮ではこう言う者が大半です。ガルシャス殿下が国の害になると、占いに出たのだろう。あれは朽ち色の王子だからと。占師として、将来、国に仇なすものを討とうとしたにすぎない――。あなた様もご存じでしょう。朽ち色は、キトリス人にとっては、忌まわしき色、バスハ人の救世主の象徴です。恐れ、忌まわしく思う者が大半です」
恐れ、忌まわしく?
(わたしは、あの人が怖い?)
――恐ろしさは、はじめからあった。けれども、それは、朽ち色よりも、彼の上に『視た』ものに起因していたように思う。
そして、まだ、終わっていない。
胸の前で、拳を作る。
最初にアウセムに『視た』未来は、まだ、やって来ていない。
再び、女性が歩き出した。慌てて、エーファも追いかける。女性は、四つ角で立ちどまっていた。
「ここを真っ直ぐ進めば、カルクレート城内の占宮に入ります。殿下はそこにおられます。右側は外回廊へ続き、内門を隔ててカール殿下の住まいとなります」
左側の通路を女性は示した。
「左に進めば、使用人用の出入り口から外へ出ることができます」
単に説明をした、という風ではなかった。それを裏付けるように、女性は言葉を添えた。
「もし、左へ進むのなら、出入り口までの道案内は、わたしが致しましょう。いかようにも誤魔化すことができます。あなた様は安全に外へ出られます」
帰ってもいい、と言っているのだ。
「そんなことをしたら、あなたが」
「わたしのことは心配なさらずに。あなた様がどうしたいかだけを考えてください。嫌ならば、ガルシャス殿下に従うことはないのです」
「わたしは、拒否できる身分では――」
「では、身分を忘れ、お考えください」
女性が言い放ち、エーファは大きく瞳を見開いた。




