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4


 強く、風が吹いた。ジルレアの髪を乱すことはないが、刑場の塀の外に植えられている木々がさやさやと音を鳴らす。

 ふと、立ち止まったジルレアの瞳が蔭った。消えた首無しを探し、出てきたばかりの北棟の屋根から、夜空を見上げる。


『……何か、始まるのかしら』

『ナニカ?』


 独白だったのにもかかわらず、応えがあった。

 足元で、もぞもぞと黒い塊が動いている。自分の同類だ。いつもふらふらしているのが常なのだが、近くにいて、寄ってきたらしい。


『そうよ。元占師の勘ね。あら……。あんた、前に見かけた時より、小さくなってない?』

 人の形をとれない霊。自分たちが雑霊と形容する、純粋に、念に近いほうの霊だ。真っ黒いが、この霊はどちらかというと無邪気な類のものだ。

 エーファが生まれた時から、シェーンハン刑場は、霊が居着かない。だが、この雑霊は例外だった。よく見掛ける。

『エー、ファ、助ケタ。カラ、疲レタ。死ヌ死ヌ』

『エーファ、ですって?』


 ジルレアは塊に手を伸ばした。塊の記憶を覗く。霊同士は情報の交換や共有ができる。最も相手が無防備な場合に限るが。人型でない霊は何も隠さないので、容易だ。

『…………』

『エー、ファ。連レテ、行カレタ。行カレタ』

『それは問題ないわ。生者が送って行っただけよ。ちゃんと戻ってきたもの。それより、あの子――』

 地下の遺跡。生者たちが大勢来る前、生者に剣を突きつけられた時、不自然な態度をとっている場面があった。

 身の危険を感じただけではない、エーファの怯えの表情が、ジルレアの中のある記憶と一致した。


 ――また、『視た』のか。


『首無シ、ドコ? イナイ』

『奇遇ね。わたしも奴を探しに行こうかと思っていたところよ』

 ジルレアは塊を抱え上げた。

『もっとも、探す必要もないんだけど』

 首無しは目立つ。

 ざっと周囲を見渡す。


 見つけた。


『あそこね』









「……いま、なんて? 父さん」


 目の前が暗くなる。


 父の真意は、薄々と悟っているつもりだった。だからなのだろう、とも思っていた。

 だが、本人の口から直に効くのは、やはり、堪えた。


「お前に、『仕事』を教えるつもりはない」

 父が、繰り返した。


 セルジークは安置室に長く留まることはなく、短時間で弔いを済ませ辞した。そして、黒の間も閉ざされた。


 彼が去った後だ。


 エーファが父に直訴することを決めたのは。

 ――自分の思いを。


 自分もいずれは『仕事』にかかわるはず。

 用事を頼まれる以外で、こうして父ときちんと顔を合わせて話すのは、数日ぶりのことだった。


 父は難しい顔をしたが、応じた。


 そして、エーファを初めて応接室に招いたのだ。『外』からの訪問者用に、調度品が整えられている部屋。ここもエーファは立ち入りを禁止されていた。

 刑場内で、エーファが入れない場所は、数多い。

 これまで、忠実にその約束事をエーファは守っていた。


 けれど、これは第一歩なのではないか。


 これですべてうまくいくのではないかと一瞬でも考えた自分が愚かしかった。

 エーファは強く拳を握りしめた。落ち着こう。すう、と息を吸い、吐く。


「わたしが女だから……?」

「そうじゃない、エーファ」

 父は首を振った。だが、エーファにはまったくわからない。必死で考える。

「わたしが誰かと結婚したら、その人が? その人を跡継ぎにするの?」

 女性が『城』の主になった記録もあるが、やはり、一番多いのは、娘の伴侶がその家を継ぐ事例だ。でも……自分と結婚してもいいと思う男性がいるとは、思えない。


「エーファ」


 フランツがエーファの手に触れようとした。

 何かを恐れるように、ためらいがちに、娘の硬く握りしめた拳に厚い手のひらが重ねられかけ――遠のいた。それを寂しく、エーファは視線で追った。

 父は、自分に近づこうとしても、いつも結局遠ざかってしまう。

 かわりに、フランツは言葉を吐いた。


「そうじゃない……お前は近いうちに、ここを出ていくんだ」


 ぼんやりと、エーファは顔をあげた。

 出て行く。出て行く、と父は言ったのか。


 誰が、出て行く?


 ――わたしが。


「本当は、もっとはやくに、こうしているべきだった。これ以上、ここにお前を住まわせておくわけにはいかない。南に弟が住んでいる。手紙を書いた。お前は『外』に行くんだ。シェーンハンを離れれば、裏街出身だということも隠せる。髪も染め続けなさい」


「どうして、いきなりそんなこと」

 自分は間違ったことを言っていないはずだ。

 エーファは父が好きだ。男手一つで自分を育ててくれた。刑場の『仕事』も、裏街をまとめる仕事も大変だったはずなのに、放っておかれたという記憶はない。


 愛されていることを知っている。

 けれども――抱きしめられたことは、なかった。


 さっきもそうだ。さっきのように、父は、エーファに触れるのを避けていた。今よりずっと幼い頃は、人肌が恋しかった。体温を感じることはできなかったけれど、その寂しさを埋めてくれていたのは、首無しや、ジルレアだ。


 愛情は、感じる。

 なのに、どうして父は、いつも躊躇うのか。頭さえ、撫でてくれない。


「わたしが……父さんの娘じゃないから?」


 ぽつりと、呟く。

 お互い、口にしたことのない、暗黙の了解めいたものだった秘密を、エーファは吐き出していた。

 無論、父が血の繋がりはない、などとエーファに言ったことはない。

 周りの人間が言ったこともない。


 ただ、成長するにつれ、そうなのではないか、と考えるようになったのだ。フランツの娘でいたいのに、自分には、フランツという父との違いばかりがあった。

 髪の色――。父は褪せた金、自分は銀。目の色――父は、優しい茶、自分は薄い青。親子なら、顔つきもどことなく似ていそうなものなのに、まったく違う。ならば自分は母譲りなのだと思ってみても、肝心の母について、父は何も教えてくれない。


 普通、キトリス人は、結婚の際、身分に関係なく家に二人の姿絵を残す。その姿絵もない。

 見せてくれ――とは何故か強く言えなかった。

 フランツも、たぶん、エーファが察していると疑いつつそこには触れないでいた。


 二人とも、ずっと。


「――お前は、おれの娘だ」


 絞り出すような、声だった。


 傷つけた。


 父に、ひどいことを、言ってしまったのだと、エーファは思った。

 一度口にしたら取り返しのつかない言葉は、存在する。

 きっと、今のがそうだった。だが、取り返しがつかないからこそ、この話を続けるしかなかった。

 はじめたのは、自分なのだから。


「……わたしは、母さんに似てるの?」


 母について、かつて父が教えてくれたことはひとつだけだ。自分を生んですぐに亡くなったということ。

 似ている、とも、似ていない、とも父は答えなかった。


「それなら、これは?」


 震える声で、エーファは言葉を紡いだ。自分の頭髪に手を伸ばす。染めている黒の髪。しかし、エーファが何を言いたいのか、父はわかっているはずだ。


「この髪は?」


 父が、目を閉じた。


「――占師の色だ」

「占師?」


「お前の母は、占師だった」


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