37 旦那様の異変
初めて姿を見せた旦那様に、昏かったシルヴィの瞳に再び光が灯った。
「やだ……思った以上にイケメンじゃないの……」
彼女は頬を染め、この場にふさわしく無い台詞を小さく呟くと、縋る様な目で旦那様を見つめる。
レオとジャックさんが旦那様の登場に驚いている隙に、彼女は二人を物凄い力で振り払った。
所謂火事場の馬鹿力ってヤツだろうか?
「旦那様っっ!! 助けて下さいませ!
奥様達が私を虐めて───」
そして拘束が解けたシルヴィが、旦那様に駆け寄り、腕に抱き着こうとしたその時、
「触るなっっ!!!」
地を這う様な低い声で一喝した旦那様は、シルヴィを思い切り突き飛ばした。
その直後の旦那様の顔は血の気が引いていて、よく見ると額に脂汗も滲んでいた。
息は少し荒く、ぎゅっと握り締めた拳は小刻みに震えている。
その症状はどう見ても『女性が苦手』だなんていう、生易しい物では無い。
多分、旦那様は、『女性恐怖症』だ。
そう言えば、私とはいつも普通に会話をしていたけれど、触れた事はない。
物を受け渡す際などに、指先が掠る事さえ一度も無かった。
だから気付かなかったけれど、もしかしたら……いや、きっと、彼は女性に触れる事が出来ないのだろう。
一方、まさかそんな扱いを受けると思わなかったシルヴィは、助けを期待した相手から侮蔑を込めた眼差しを向けられて、ペタンと床に座り込んだ。
「大声で話していたから、話は大体聞こえていた。
私もミシェルの判断は妥当だと思う。
お前に納得してもらう必要など無い。解雇は決定だ。
雇用主である私の決定なのだから、もう文句は無いはずだよなぁ?
それから、事件については改めて、厳しく取り調べさせるから、そのつもりでいなさい」
旦那様はなんとか平静を装って、シルヴィに解雇を宣告したのだが、その声は微かに震えていた。
何も知らないシルヴィは、それを怒りから来る物だと思ったかも知れないけど。
「そんな……たかが、子供の絵じゃない。
事件だなんて……」
シルヴィは俯いたまま、呆然とした様子で旦那様の言葉を聞いていたが、最後にポツリと不満を口にした。
(ああ、彼女は物の本当の価値が理解出来ないのね。可哀想な人)
「ジャック、レオ。侍女二人を連れて行って、再度事情聴取をしておけ」
「はい、旦那様。お任せを」
そう答えて、ニヤッと黒い笑みを浮かべたレオは、いつもの明るくてちょっとお調子者の彼とは違う顔をしていた。
普段は畑仕事などを無理矢理させてしまっているが、本来の彼は、戦闘だけで無く、こういう仕事も専門としているのだ。
ジャックさんとレオはシルヴィの両脇を固めて、雑に引き摺る様に部屋を出て行く。
ペネロープは自主的に三人の後について行った。
「坊っちゃま、旦那様達は色々後始末する事があると思うので、私達も行きましょうか」
「うん」
ジェレミーもグレースに連れられて、部屋を出て行く。
部屋の中に残ったのが旦那様とフィルマンと私だけになると、旦那様は額を片手で覆って、深く息を吐いた。
その体がグラリと大きく揺れたのを見て、私は咄嗟に手を伸ばしてしまう。
───あ、いけない!
旦那様が女性に触れられない可能性を思い出し、支えるのを躊躇したのだが、
意外な事に、旦那様は差し出した私の手を、迷わずガシッと掴んだのだ。
しかし女の細腕では、彼の体重は到底支え切れず、二人でゆっくりとその場に崩れ落ちてしまう。
「すまない、ミシェ…」
掠れた声で謝罪の言葉を呟き、旦那様はそのまま意識を失った。
「旦那様っ! 奥様っ!」
フィルマンが慌てて駆け寄り、旦那様の体を私の上から退けて、私を助け起こした。
そして部屋の前の廊下を通りかかった男性使用人に、「すまんが、旦那様をベッドにお運びするのを手伝ってくれ」と指示を出す。
その使用人はたまたま体格の良い人だったので、背の高い旦那様を軽々と担ぎ上げて運んでくれた。
私も旦那様のお部屋まで同行し、ベッドサイドに用意して貰った椅子に腰を下ろした。
何故私が旦那様に付き添う事になったのかと言えば───、
旦那様が倒れる瞬間に握った私の手を、意識を失っても離してくれなかったからだ。
痣が出来るほどの強い力では無いものの、結構ガッシリと握り込まれてしまっている。
「あの……こんな風に手を握られたままで、大丈夫なのでしょうか?」
不安になった私は、フィルマンにそう問うた。
「どういう意味です?」
「その、旦那様がお倒れになったのって、もしかして、女性に触ったから……ですよね?
今は意識が無いですが、目が覚めて私の手を掴んでいる事を知ってしまったら、拒絶反応をおこしたり、パニックになってしまうのでは……」
「ああ、やはりお気付きになりましたか?
仰る通り、旦那様は一部の女性に対しては強い恐怖心と嫌悪感をお持ちです。
体に触れると、酷い時は蕁麻疹が出たり、今日の様に意識を失くされる事もあります。
グレースとチェルシーだけは、旦那様が生まれた時からの付き合いがあるので、ごく普通に接することが出来ますが、その他の女性とは出来るだけ接触しないようになさっています」
やっぱり、概ね私が想像していた通りだった。
精神的な問題に、治癒魔法は効果が無いので、悔しいけれど私が彼にしてあげられる事は何も無い。
それどころか、私が手を握っているせいで余計に悪化するかもしれない。
「では、多少無理矢理にでも、旦那様が気付いていない今の内に手を離させた方が…」
「いえ、それはおそらく大丈夫かと。
意識を失う直前とは言え、旦那様は確かにご自分の意思で奥様の手を掴みました。
それに、全ての女性に対してここまで酷い拒絶反応を示す訳では無いのです。
特に強く反応する女性には、幾つかの特徴がございまして、奥様はそのいずれにも該当しません」
「そう、ですか?」
「はい。
普段の旦那様を見るに、逆に奥様の事は………いえ、やはり詳細は、ご本人がお目覚めになったら直接聞いてみてください。
とにかく、無理に手を離さなくて大丈夫。私が保証しますよ」
「分かりました」
根拠となる部分を詳しく説明してもらえない為、完全に安心する事は出来ないけど、本人の許可も得ずにあまり深く詮索する訳にもいかない。
取り敢えず、力強く『保証する』と言ったフィルマンを信じてみる事にした。




