地獄から帰って来た者
「……見事!!」
左のわき腹から、背骨の近くまでを斬られてなお、天狗ジジイは立っていた。
両断した、と言っても良いだろう。ほとんど背骨だけで繋がっている状態になり、おびただしい量の血がボタボタと地獄の黒い岩へと滴って行く。
それでもなお、堂々と空中で仁王立ちをする天狗ジジイのタフネスさと精神力の強さは素直に尊敬する。
普通に考えれば、死んでる。万が一無事だったとしても意識は無い。それがどうだ、身体が真っ二つになる半歩手前までいったというのに、ジジイはあまりにも威風堂々とした振る舞いをしていた。
「よくぞ、己の内に眠る本性を受け入れた」
対する私は肩でぜえぜえと息をしながら、端から崩れていく天狗ジジイの姿と言葉を聞くことくらいしか出来ていない。
これが天狗ジジイと私の差だろう。たった一瞬、私の力が上回った。ただそれだけのことが勝敗を決定づけていた。
「向き合うことも恐ろしい、自らの悪性を受け入れてこそ初めて人は本当の全力を出せる」
「私は、何かしたつもりは、ないんだがな」
「何をする必要も無いのじゃよ。ただ受け入れる。それだけなんじゃ。たったそれだけで他者を傷付ける悪性は、自らを助ける力となる」
息を切らせながら、まるで禅問答のような話に返事をすると天狗ジジイは嬉しそうに笑いながら答えを返して来た。
誰かを傷付ける悪性が、『獣の王』であるショルシエと同じだという人がもつ本能的な獣の部分が誰かを助ける。
一体何を言っているんだと、疲れ切った頭と身体ではチンプンカンプンだ。誰かを傷付けてしまう、どうしようもない本能的な悪意が人の持つ獣性じゃないのか?
そうやって他人を攻撃して悦びを得てしまうような人間は山ほどいる。それが人を助けることがあるようには、思えないが……。
「千草、お主の本質的な獣性、本能は戦いを楽しんでしまうことじゃ。どんなに取り繕っていても、その本心では戦いそのものを求める。自覚が無いとは、言わせんなぁ」
否定は確かに出来ない。さっきまでの戦いの中で無意識のうちに笑っていたこともそうだし、模擬戦なんかは好きだ。没頭して戦うことは思い返すと確かに好んで行っていた。
戦うことを好むのは人間からしたら狂人のそれか、犯罪者予備軍だ。サイコパス、とも言えるのかも知れない。具体的にサイコパスとはどう定義されているのかは知らんが。
「戦いを好み、争いを好む者は分かりやすく人を傷付ける。だが、場所と状況さえ選べば他者を顧みずに戦い、勝利を齎す英雄よ。わかるか? どんな性質だろうと、どんな力だろうと、全ては使い方だ」
「使い、方……」
「そうだ。どれだけ正しいことを成そうとも、それを誰かを虐げて行えば悪であるように、悪として培われた力で正しい行いをすることもあろう」
『獣の力』でもそれは変わらない。ショルシエと同じ力だからと言って本能からくる力が悪い物だと断ずるには早い、ということか。
どんな力も使い方、か。戦いを生業にするものには肝に銘じるべき考え方なのかもしれない。
「己の悪性を認めるという事は、弱さを認めるという事。忘れるな。それこそが自分を律する力になる」
天狗ジジイの姿がどんどんと崩れていく。時間が経てば経つほど、その崩壊のスピードは上がって行く。
その短い時間の中で、天狗ジジイは私に最後の言葉を伝えてくれていることだけはわかる。
ジジイなりの、お節介なんだろう。最初から最後まで、このジジイはそういうジジイだった。
自分の能力を見せびらかし、天狗の鼻を伸ばしながら、人に構わずにはいられない。そういうヤツなんだろう。
それが天狗、何だろうがな。鞍馬の大天狗は特にそういうのが強いのかもな。
何せ牛若丸にも私にもこうやって世話を焼いているのだから。
「正しく恐れ、正しくあれば、自らの悪性に飲み込まれることは無かろう。儂の力を使っても溺れることはあるまいて」
天狗ジジイは最後にじゃあのと軽い口調でそう残して、消えた。正確には私の中に戻ったのだろう。
崩れたジジイの欠片は私の手に吸い込まれていっていた。




