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十話「強者と弱者」

2017/03/01 内容一部修正。

 やってきたのは十八歳ぐらいの体格のいい青年だった。嫌な予感がしたのでARで情報を取得してみる……オレール・ウトマン。ウトマン男爵家嫡男、やはり貴族様か。念のために貴族の階級を調べてみると、下から騎士、準男爵、男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵、国王、となっていた。

 下から三番目か、と安心してはいけない。理由? 先生をはじめ生徒全員が一斉に頭を下げたからだよ! 俺もあわてて倣った。


「お久しぶりです、オレール様」


 毒舌っ子のリアーヌさんがかしこまって対応する。イケメンノッポのジルベール君も、真面目な顔で一礼している。


「ああ。お前たちが入学したと聞いて顔を見に来たが。全く、人材の枯渇は深刻だな。末席であっても貴族であるというのに、貴様らを平民と一緒にするとは!」


 ふん、と鼻を鳴らしてこっちに視線をやってくる。ゴミでも見るような目で、だ。なるほど、そういう感じのお貴族様か。フィクションじゃあ何度も見たが、実際見てみると……ただ厄介なだけだな。

 ちらりと生徒たちの顔色を見てみれば、真っ青な子や目をつぶって震えているのもいる。彼らの姿を見れば、この星での貴族がどういうものなのかなんとなく分かる。つまるところ、機嫌を損ねたらろくなことにならないという事か。


「今期入学したのは私たち二人だけですので、分けるのも非効率的であったかと」

「馬鹿者。効率の問題ではない。格の問題だ! 平民は平民、貴族は貴族。超えてはならない境界があるのだ。教師どもはそのあたり、わきまえていると思ったがな」


 強い視線をコウ先生へとむけるウトマン。先生は頭を下げたまま静かに答える。


「申し訳ございません。ですが、先ほどのお言葉通り人材の枯渇が深刻です。本来なら教壇に立つべきではない私のような者が教師をしているほどですので……」

「貴様らの事情など知ったことではない。俺は分けろと命じているのだ。分かるか?」

「人手が足りません。今期の教員は必要数を割っていますこれ以上は……グッ!?」


 コウ先生の言葉は、ウトマンの蹴りによって中断された。下げていた頭に、しなるような蹴りを叩き込みやがったのだ。


「愚か者が! 命じたことにできませんと答えるのはなぁ! 己は無能であるといっているようなものだ! やれと命じられたら、はい、と答えぬかぁ!」


 ウトマンは先生を蹴り続ける。周囲もそれを止めない。……この星の貴族とはここまでなのか。ここまでやっても許される、じゃなくて黙っていなくてはいけないほどなのか。そんなに絶対的で力のある存在なのか。 

 生徒たちは青ざめたまま。同じ貴族であるリアーヌさんやジルベール君も耐えるようにして黙っている。上の階級の者に逆らえば彼女たちも無事では済まないという事か。

 ひとしきり蹴りつけて満足したのか、ウトマンは息と身なりを整えはじめた。


「全く……愚民が使えぬと上が苦労する。そんなに人手が足りぬなら、数を減らせばよいのだ。平民ども、オレール・ウトマンが命ずる。即刻退学せよ」


 ……は? このクソ貴族、なんかとんでもなくトンデモなことを言い出したぞ? 先生もリアーヌさんたちも、驚きで目を見開いている。生徒たちは小さく悲鳴を上げたり、震えたりだ。……とても、冗談を言っている雰囲気ではない。と、いう事は何か? このクソ貴族様のお言葉一つで、本気で退学しなきゃいけないのか? クラス全員が。

 ふざけるにもほどがある。……だが、誰も抗議の声を上げない。上げられない。……逆らえばシャレにならない事態が待っているのだろう。で、あれば。

 俺が動くしかない。


「それだけはどうぞご勘弁ください!」


 俺は飛び出すとウトマンに土下座した。


「何だ貴様? 学生にしては随分と歳を食っているようだが……まあ、それはいい。平民の分際で貴族の命に背くとは何事か!」


 頭を蹴り飛ばされた。火花が飛ぶような幻視と激痛。何とか耐えて言葉を続ける。


「生活がかかっているんです! ここを追い出されたら先がありません!」

「ならば農業ビルでも鉱山でも行くがいい。働き口はいくらでもある」

「家族を支えるにはそれでは足りないのです! お願いします、お許しください!」


 咄嗟の嘘だ。この世界の賃金がどの程度だなんて知らないし。


「知らんなぁ。何故貴様の家族を俺が慮おもんばからねばならない? 私は命じたのだ。それを成すのが平民だろうがぁ!」


 再び蹴り飛ばされる。あまりの蹴りの強さに上半身が浮く。頭もぐわんぐわんと響いている。倒れるようにひれ伏して、土下座を続行する。


「なにとぞお許しを! お慈悲を賜りたく……ガッ!?」

「慈悲だぁ? 身の程を知れ! 平民がそれを求めること自体、差し出がましいにもほどがあるわ!」


 さらに何度も蹴り飛ばされる。痛みが続く。思い出される中学生のころの記憶。あの頃の俺は何かといえばケンカしていた。気に入らない相手に突っかかって、そのたびにボコボコにされていた。回数こそ山ほどあるが、一度だって勝てたことはなかった。いつもこんな感じで、這いつくばって耐えるしかなかった。


「全く腹立たしい……ふむ、そうだ。ではこういうのはどうだ? 貴様が辞めればこの件は無かった事にしてやる。どうだ、それぐらいできるであろう?」

「つぅ……それ、は……ご勘弁ください」

「何だ? できんのか? 全くあれも嫌だこれも嫌だ! わがままが過ぎるぞ平民よ! 聞いたか貴様ら? こやつは貴様らの犠牲にはなりたくないとさ!」


 よくもまあその歳でそんな嫌な話の振り方を覚えているものだ。これで彼らの悪感情は俺に集まる。……まあ、別に。彼らに感謝されたくてやっているわけではないのだが。


「ふぅ……さて、いい加減ここらで終わりにしたい所だな。いいな平民ども、即刻立ち去るのだ……」

「別の! 別の働きをもってお返ししますので! どうか、お許しのほどを……」


 強烈な衝撃。たぶん今までで一番のヤツ。額に叩き込まれてひっくり返ってしまった。意識が飛びそうになる。


「俺の話を遮るとは何事か! ……だが、ふむ……そうだな。よし、では役に立ってもらおうではないか。ついてこい」


 そういい捨てると、クソ貴族の足音が離れていく。……あちこち痛みやしびれがあるが、その程度だ。くらくらして気持ち悪いが、気分を変えられても困る。付いていくために立ち上がる。


「おいよせ、やめろ。行こうとするな」


 ふらつく俺をコウ先生が支えてくれた。リアーヌさんやジルベール君も駆け寄ってきてくれた。ありがたいことだなぁ。


「行かない方がいい。退学した方があなたの為」


 一見冷たい言葉のように思えるが、その表情からは俺を心配してくれているように見える。壁に耳あり障子に目あり、下手なことをいってアレの耳に入ったら事だ。


「いやあ……もう、行かなくても酷いことになりそうだし。行っとけば、被害は抑えられそうだし。ねぇ?」

「ねぇ、じゃない」


 うぉう、ジルベール君が喋ったよ。いろいろ話してみたい所ではあるが、今は時間がない。


「とりあえず、行きます。そいじゃ」


 足に痛みがないのは幸いだ。体を揺らさないようにしながら離れる。彼らの視線に背を向けて。


≪洞屋景。あなたは何故彼らをかばったのですか?≫


 ……珍しい。アドミンさんが本名を呼んできたよ。しかもド真面目な声で。


≪何故も何も。あそこで動かなかったら全員退学させられていたかもしれないでしょう? 土下座とボコられでワンチャンあったかもしれないんだから、行くしかないでしょう≫

≪会ったばかりだというのに?≫

≪時間は関係ないっすなー≫


 強化された身体であったおかげか、酷い怪我になった場所はない様だ。もっとも、時間を置けばまた分からないが。クソ貴族は、校舎とは別にある建物に向かっている。


≪高校のころの話で。別の学校の生徒が、違う生徒に金を渡している所を見たんです。その生徒囲まれてて、カツアゲされてたんじゃないかって思ったんですがね。俺、自転車乗ってたし、相手他校の生徒だし。そのまま通り過ぎちゃったんですよ。……それを今でも覚えてる。もう8年かな? それぐらい経つのに≫

≪……それで?≫

≪後悔は残るんですよ。あれはカツアゲじゃなかったかもしれない。でもそうであったなら、あの時俺が割って入っていれば。ボコられて金とられるのが俺になってたかもしれないけど。でも、だけど……今回もそんな感じですわ≫


 向かう建物は、校舎とは明らかに違っていた。デザイン、装飾、道の舗装まで如何にも金がかかっている。ここまであからさまというのは、一周回って関心できる。


≪何より、今回はあの時と違って条件が良かった! こっちに家族も親戚もいないからトラブっても社会的に問題になることはない。そして身体は特別製。後はもう、その場の空気とノリと勢いとしか≫

≪……あなたが望んで行ったというのは分かりました。では、なぜそんなに怒り狂っているのです? そしてそれを我慢しているのです?≫


 努めて表情を変えぬようにしながら、歯を食いしばった。


≪そらぁ、俺にだってちっぽけですがプライドってもんがありますわ。ガキにさんざん罵倒されて蹴られりゃ腹も立ちます。……でも、我慢できないほどじゃない。社会人になってからでも、似たようなことはありましたよ。でも、ここでキレて殴り掛かったら、何もかんもおじゃん。なんのために土下座までしたか分からなくなるじゃないですか≫

≪……そうですか≫

≪そうなんです≫


 ARで確認する。建物は『貴族専用訓練場・戦士の館』とあった。


/*/


 外側も相当なものだったが、中は完全に別世界だった。まず、植物がある。この星の環境では、植物を育てるには建物内を常にそのための状態に保たねばならない。つまりそれだけ金がかかるという事であるが、この中はたっぷりとした緑にあふれている。

 設備も実に充実している。屋内練習場、各種トレーニング設備、プール、マッサージ、サロン……どこの楽園だここは。

 さらに、施設管理にわざわざ人を使っている、というのもひどい。今までこの星で目にしたのは、高度に自動化された数々の維持設備だ。大抵、小型のロボットが警備や掃除、整備を行っていた。ここでは、まず入り口に屈強な身なりのガードマン。インストラクターに、マッサージ師。植物の手入れをしている人の耳が長くとがっている。……わざわざエルフを雇ったのか。っていうかこの世界にエルフいたのか。まあ、それはこの際どうでもいいか。

 ともかく雇用対策として素晴らしいですね、と言いたいところだが正直な所あのクソ貴族がいるため色眼鏡で見てしまう。


「何をしている平民! ぼさっとするな!」


 ウトマンが室内訓練場で吠えている。感情を表情に出さないようにするというのは、意外と難しい。歯を食いしばって表情を固め、向かう。と、騒ぎに吊られたのか4人ほど、おそらくは貴族であろう少年少女が寄ってきた。


「あっれー? オレール、何してるの? ソレは何?」


 何というかひどくチャラい金髪君が、気取っているのか酔っぱらっているのかよくわからない足取りでやってくる。しかし、ソレときたか。ウトマンのツレだとよくわかる物言いだ。


「身分というものを理解しておらぬ間抜けな平民よ。無礼と無知の集合体のようなやつだ。故に、躾を兼ねて俺の剣の錆落としになってもらうことにした」

「うっわ、なにそれイジメじゃーん」


 ケラケラと、金髪巨乳の眼鏡美少女が笑う。……うん? ARの故障……じゃないな。情報間違い? 男って表示されてるが、あれ?


「うるさいぞマルタン! 邪魔をするならどこかへ行け! ……貴様も何を間抜け面をさらしているか! さっさと構えろ!」


 ウトマンから投げて寄こされたのは、金属製の皿に取っ手を付けたような道具。まあ、皿の部分はかなり分厚いんだが。えーと、これは何かで見たぞ? バックラーってやつじゃないだろうか。もう一つ、無言で放り投げてきたのは、分かりやすいショートソード。抜き身で投げるものじゃないが、そもそも刃が付いていない……というか、バックラー共々機械入ってるなこれ。何だ?


「ええい! 平民は力場装具すら見たことないのか!」

「……さっきのが最初の授業だったもんで」


 なんじゃそりゃ、と思っているといつもの調子にもどったアドミンさんの声が聞こえた。


≪握りのところにあるスイッチですよー≫

「握り……これか?」


 すると、鈍いハム音と共に、バックラーの縁ふちから透明なエネルギーが噴出した。エネルギーは直径1mほどまで広がってそのまま停止、丸盾になった。ショートソードの方もスイッチを入れると、これまたエネルギーが刃を作った。見事にロングソードだ。


「なんだ、できるではないか。では始めるぞ」


 気が付けば、ウトマンも同じようにエネルギーで形作られた剣と盾を構えている。盾の大きさは俺の奴の半分ほどだが、小さい分取り回しがよさそうだ。しかし、始めるという事はつまり……。


「え? ちょ、ま、俺は素人……痛っ!」


 一瞬の事だった。瞬く間に踏み込んできたウトマンの剣が、俺の右手を打ちすえた。痛みに剣を取り落としてしまう。どうやらアニメで出てくるビームの剣のように焼き切る武器ではないようだが、鉄の棒で打たれたように痛い。痛みをこらえる時間がほしかったが、ウトマンの動きは止まらない。剣がさらに閃くのを見て、慌てて盾を前面に押し出す。

 盾を通して衝撃が伝わる。一度ではなく、二度三度。エネルギーの剣と盾、ぶつかり合うごとに甲高い音が響く。ウトマンの攻撃は単調ではない。右の次は斜め下、真っ向から斬りつけたかと思ったら、次は突き。この大きな盾に救われている。動かし辛いが、おおざっぱな守り方でもなんとか防げているのだから。


「攻め込みが手ぬるいよオレール! 相手素人だよ!」

「俺なら一撃だな!」


 見物している四人。その内の残りの二人、紫髪のノッポと筋肉ダルマがヤジを飛ばしているが、当然そちらに意識を向ける余裕はない。


「どうしたぁ! 防いでいるばかりでは終わらんぞ!」

「だったら! 武器を! 拾わせ……くぅ!?」


 盾を両手で持って必死に防ぐ。そうでなければウトマンの攻撃は防げない。剣の振りが早い。かつ、次の攻撃までの時間も短い。息を継ぐ暇もないとはこの事だ。だが、何度も受けたおかげで慣れてきた。これならば……と思ったその時、不意にウトマンの姿がかき消えた。そして唐突な右足の激痛。


「ぎっ! 痛ぅ……!」

「マヌケが! 貴様ごときが油断するからそうなる!」


 思わず盾も放り出し、足を抱えて転げまわる。弁慶の泣き所でも打たれたか、とても痛い。いったいどんな技だったのか、一瞬で身をかがめて足に斬りつけたらしい。……すぐに使わなかったのは普通の攻撃に慣れさせて、本命だった今の攻撃に対応させないためか。


「ほれ、さっさと立て。まだ始めたばかりだぞ?」


 当たり前のように頭に蹴りを叩き込みに来るので、腕で防ぐ。痛みに堪え武装を拾い、よろよろと立ち上がる。見上げれば、俺の姿を笑うウトマンの姿。見物している連中も、好き勝手ヤジを飛ばしているのが聞こえる。


「……つまるところ、訓練の相手をしろってことですか。素人じゃたいしてお役に立たないと思いますがね」

「全く平民は。言って聞かせなければ何も察することができんと見える。愚かすぎて返答すらも嫌になるな」


 ウトマンは、心底バカを見る目で俺に剣を向けた。


「貴様ごとき何度打ち据えても、我が技が伸びることなどあり得ない。インストラクターやアイツらと剣を合わせた方がよほど有意義だ。……しかし、だ。平民である貴様が、我が剣に役立つことが一つある」


 再び剣が振るわれる。反射的に盾を前に出したが、今度は左足に激痛が走った。たまらずまた無様に転がる。確かに防げる剣の軌道だったのに、次の瞬間には消えていた。フェイントをかけられた。痛みにうめく俺を見下ろしながらウトマンが言う。


「それは貴様が生きているという事よ! 生き物に斬りつける事! こればかりはいくら難易度の高いターゲットを叩いても得られぬ経験よ!」


 時代劇か何かで剣の腕を上げたければ人ひとり斬り殺せばいい、などという話が出ていた。

 初めて魔王と戦ったあの日、モンスターに向けて砲を発射した後のあの言いようもないストレス。

 つまりはそういう事。剣の訓練ではなく暴力の訓練。


 俺に生きたサンドバックになれと言っているのだ、こいつは。


「どこまで……ッ!」


 流石に、トサカに来た。歯を食いしばって睨みつけながら立ち上がろうとしたら、横っ面に一撃。再びひっくり返る羽目に。


「何だその目は。俺の役に立つといったのは貴様ではないか。それとも言葉をたがえるつもりか? これだから平民は度し難い」


 頭を、踏まれた。体重がかけられ頭蓋骨が圧迫される。振り払うべく足をつかむと、あっさりとはずれた。代わりに今度はサッカーボールのように蹴っ飛ばされた。


「触るな愚民、穢れるではないか。……いいか? 貴族は世を動かすためにある。お前たち平民はそのためのコマだ。我らのために働く事こそ、貴様らの存在価値なのだ」


 ごろごろ転がってうめく俺に、エネルギーが消えた盾と剣が蹴り寄こされる。痛くはない、が。


「そんなことも分からずその歳まで生きてきたのか。全く、親はどんな教育をしたのか。まあ、貴様のような平民の親だ。ろくなものではないだろうよ」

「ク、ソ、ガキィィィィィッ!」


 吠えた。立った。掴みかかった。真っ向から剣を叩き込まれた。頭に一撃、右肩に一撃、腹に一撃。堪らず体を丸めたら、背中に一撃。


「無礼者が。口に気を付けろ。……それに、俺に怒るのは筋が違う。親を愚弄されるのは、貴様のその体たらくが原因だ。ああ、情けない。俺だったら、そんな有様を親兄弟には見せられんよ」


 言葉にならない雄たけびが、俺ののどから迸ほとばしる。殴りかかろうとして、また頭に一撃。それで、目の前が真っ暗になった。


/*/


 気が付けば、外に放り出されていた。全身に鈍痛がある。痛む身体を起こして周囲を見渡すと、どうやらここが訓練場の裏手であることが分かった。少しでも体を動かすと痛みが走る。それでも無理をして立ち上がった。ろくに上がらない足を動かして歩き出す。とにかく離れたかった。

 痛む身体をかばいながら足を進めて、何とかたどり着いたのは人気ひとけのない小さな倉庫の裏。たぶん何かの用具が入っているのだろうが、誰もいないのは都合がよかった。

 壁に体重を預け、そのまま滑るように座り込む。乾いた冬の風が吹く。遠くの校舎から、意味の聴き取れないいくつもの声。街の騒音。そして、唐突に間近に響く足音。


「洞屋様、今、治療を」


 赤井さんだった。手には薬箱らしきものを持っている。俺は顔を伏せた。


「……赤井さん。外に声を漏らさないような、そんな魔法ってある?」

「ございます」

「おねがい」


 赤井さんが右手を掲げると、何かが周囲を包み込んだ感覚を受けた。


「完了しました」

「ありがとう」


 流石にもう、限界だった。情けなくも、涙がボロボロ零れ落ちる。体が震える。嗚咽が止められない。倒れ、蹲うずくまって、地面を叩く。あああ、とくぐもった声が喉からあふれ続ける。


「チクショウ、チクショウ、チクショウ……!」


 何度も何度も、地面をたたく。やり切れなかった。怒りと悔しさで頭の中がぐちゃぐちゃだった。身体の痛みなどどうでもよかった。


「……洞屋様、お望みとあれば、すぐにでも報復を」

「やめてくれ! これ以上情けない気分にさせないでくれ!」

「しかし、それでは……」

「これで、赤井さんがあいつ殴ってどうなる! 俺より強い赤井さんに代わりに殴ってもらいました! 情けねぇよ! 最悪だよ!」


 それだけ吠えて、また蹲る。嗚咽を止めたいが、あとからあとからあふれ出る。それがまた情けない。情けなくて涙が止まらない。悪循環。


「俺、二十四だよ? それが、あんなガキにボコられてさぁ! あれだけ言われてさぁ! 手も足も出なくてさぁ! あああ、チクショウ……!」

「……」

「ガキだなんだって侮るのも、ガキにキレるのも、大人じゃないかもしれない! 情けないかもしれない! ……大人ってなんだ? 働くようになって、二十過ぎて、酒も飲めるようになって! ……でも、大人になれた気がこれっぽっちもしない。大人になったって気にもならない。さっぱりだ……」

「……」

「大人なら耐えるのが正しいのかもしれないが、何でもかんでも正しいことができるなら苦労はない! ただもう、ただもう、悔しいんだ。耐えられないんだ。歳とか関係なく、あいつにやり返す事しか思い浮かばない!」

「でしたら、すぐにでもそのための力を付与するか、肉体の強化を……」

「それじゃあ勝ったのは俺じゃなくて『もらった力』じゃないか! もらった力で勝っても情けねぇだけだよ!」


 息が荒い。感情のままに吠え続けて、のどが痛い。頭も体もしびれた様になっているが、嗚咽は少し収まった。袖で涙をぬぐう。


「強くなりたい。力をもらってインスタントに強くはなりたくない。俺が、俺自身が強くなりたい……赤井さん、特訓って、できる?」

「特訓、ですか」

「ああ。……この期に及んで、まだ赤井さん頼りってのも情けないんだが」


 再びあふれた涙をぬぐう。袖はもうぐしゃぐしゃだ。


「俺には、これぐらいしか思い浮かばないんだ……頼めないかな」

「それが洞屋様のお望みとあれば」


 俺の肩に手が置かれる。……赤井さんの顔をまともに見れない。只々、情けなさで涙が出てくるためだ。


「傷の治療をいたしましょう。休んだら、早速特訓です」

「……ああ」

「気迫が足りません。私の特訓は苛烈です。もっと大きな声で!」

「ああ!」


 涙が止まるまで、もう少し時間が必要だった。

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