26.目に見える確実なもの
リリスが目覚めると、そこは見知らぬ部屋のベットの上だった。
時刻は夜のようだが、カーテンの開けられた窓からは月の光がさしていて真っ暗ではない。
頭の上にあるベッドの天蓋は豪華で現実味がない。
ぼんやりする頭を動かして何があったのかを思い出す。
(そうだ、閣下に会えてガー様のことを伝えたら激高されて……)
それでも何とかしようとしていたら、体の自由が利かなくなったのだ。そして普段のリリスではあり得ない言葉遣いでランスロットを叱りつけた。
(私、完全にガー様に乗っ取られていたんじゃないかな)
そうとしか考えられない。リリスは怒ったり怒鳴ったりするのは苦手である。そして“ド阿呆”や“貴様”なんて単語は使ったこともない。
(あれは、ガー様だったね)
魔力の吸い取りに、体の乗っ取り。
事象だけ積み上げると、ばっちり呪い人形だ。
(こうしてみると、私、完全に呪われてるんじゃん。別にガー様ならいいけど)
ふふふ、と苦笑したところではっとする。
(ところでガー様は? 閣下は?)
がばりと体を起こそうとしたが、頭が揺れる感覚がしてゆっくりとしか起き上がれなかった。体が怠い。
何とか半身を起こして周囲を見回すと、枕元にガー様が置かれていた。
「……ガー様」
ほっとして呼びかけるが応答はない。
「ガー様?」
もう一度呼んでみても無反応だ。
ここでリリスは怠さに加えて、ぞくぞくした寒気を感じていることにも気づく。
この感じは知っている。ガー様と出会った当初に魔力を吸い取られてなったやつだ。
どうやらガー様はリリスを乗っ取ったことで、かなりの魔力を消費したらしい。まだ喋れないのだろう。
とりあえずはよかったと思っていると甘い声がかかった。
「おはよう、子猫ちゃん」
ぎくりと体を強張らせて声の方を見ると、部屋の扉付近の椅子に銀髪の美しい男が座っていた。
「お、おはよう、ございます。サイラスさん」
「あはっ、俺の名前知ってるんだねー、確かにこれは期待しちゃうな。でも、まだ喜ばないよ」
ゆらりと立ち上がったサイラスは足音をさせずにリリスの側まで来ると、その髪に指を絡めた。
「あの」
「ほっぺたの傷、手当てしといたよ」
頬に手をやるとガーゼが貼られていた。押さえると少し痛い。
「ありがとうございます」
「はあ、やっぱりこの手触り好き。子猫ちゃんが悪い子で、全部嘘だったら俺が貰おうかな。お嬢に包まれてると思って一緒にいくのもいいよね」
「………」
起き抜けから不穏だ。
ものすごく不穏である。
(貰うって何? 一緒に行くってどこに?)
ますます体を強張らせたリリスにサイラスはくすりと笑った。
「怖がってる、可愛いね。ねえ、俺の名前はあの魔法使いくんから聞いたの?」
「! そうだ、シオン様! シオン様は?」
すっかり忘れてしまっていた。リリスはここにシオンと来たのだ。弾かれたように辺り見回すが、シオンはいない。
「帰ってもらったよ。王太子の成人の儀式で城の魔法使いは忙しいんだ。今日もちょっと抜けてきただけのはずだよ。いやー、すっごくごねてたねー、もう少しで俺が実力行使するとこだった」
「何かしたんですかっ?」
「ううん。するよって脅しただけ。大体、騙し討ちみたいなことしてきたのはそっちだからね。大公家が訴えたら魔法使いくんの家も子猫ちゃんの家も負けるよ」
「…………」
リリスの顔が引きつる。
「大丈夫。そんなことしないよ。子猫ちゃんのお家には君を保護しているって連絡してあるよ。もちろん、大公家に無断で侵入したことも伝えてるけどね」
「む、無断では」
「魔法使いくんはともかく、子猫ちゃんは無断だよね?」
リリスは黙り込むしかない。
「仕方ないでしょ。こっちとしては君を帰すわけにはいかないけど、騒がれては困る。圧はかけておかないと」
家族に心配と苦労をかけていると思うと、リリスの目に涙が滲んだが、泣いてる場合じゃないと乱暴にそれを拭った。
「偉いね。けっこう強い子なんだね。因みに魔法使いくんは最終的に、子猫ちゃんに傷は付けないって約束したら渋々帰った。だから傷はつけないよ」
“傷は”の“は”を強調してくるサイラス。
(もうやだ、いちいち怖いんだよ)
再び滲みそうになる涙をリリスはぐっと堪えた。
「そして魔法使いくんは明日も来るってさ。くっそ忙しいはずなのに律儀だよね」
リリスの胸がほわりと温かくなる。シオンは責任を感じているようだ。巻き込んでしまったのはこちらなので申し訳ないが、明日も来てくれるのは心強い。
「ねえ、それよりさ。執務室で何があったの?」
ここでサイラスの声の響きが変わった。
ベットに腰掛けるとリリスに顔を近づけてくる。
「っ……」
やたらと顔が近くて身がすくむが、こうして近くで見ると、サイラスの金色の瞳にはあまり余裕がないのにリリスは気づいた。
そこには縋るような気配すらあった。リリスをおちょくるような態度とは裏腹である。
サイラスは指を絡めていたリリスの髪を握りしめて、苦しそうに頬を寄せた。
「閣下はさあ、お嬢が生きているかもって言ってた。でもさ、遺体を確認したのは俺なんだよ。あれは…………お嬢だった。手触りも何もかもお嬢だったんだ。そのお嬢を棺に入れて蓋を閉じて、釘を打ったのも俺。だからさ、生きてるかもなんて到底信じられないんだよ。でも、君の中にお嬢がいるなら会いたい。俺も会いたい」
リリスの髪を握る手は震えていた。リリスは胸が苦しくなる。
この人もガー様に会いたくて堪らない人なのだ。
「子猫ちゃん、俺を信じさせて」
サイラスが切なく囁く。
リリスはその手を握ってあげるべきか迷って、止めた。
リリスはガー様ではない。慰めたところで気休めにもならないだろう。
「…………」
ガー様は生きていますよ、と言おうとしてそれも止めた。
言うのは簡単だし、リリスにとってはそれが事実である。しかしそれをそのままサイラスに信じろというのは無理がある。
リリスとサイラスの間には信頼はない。
だから、生きているという言葉だけではなくて目に見える確実なもので伝えるべきだ。
(閣下が生きてるかもって言っただけじゃ、信じられないんだもんね)
リリスが言っても無理だろう。
ここでふと、肝心のランスロットはどう思っているのだろうと不安になる。
ランスロットは執務室でのリリスの変化を目の当たりにしているが、果たしてガー様にガーベラの魂が入っていることを信じてくれているのだろうか。
(まだ信じてないとかあるのかな?)
嫌な予感が浮かんだところで、廊下から足音が聞こえてきた。軽いものではなく重たいものだ。
サイラスもそれに気付いて顔を上げる。
「子猫ちゃんが目覚めたって知らせたから、閣下が来たね」
サイラスは名残惜しそうにリリスの髪に頬ずりすると、立ち上がって距離を取った。切なく切羽詰まっていた様子が消える。
「さて、子猫ちゃん。閣下にいろいろ聞かれるだろうから、頑張ってね。言っておくけど閣下は混乱の極みだ。精神状態は俺より悪いね。ぐっちゃぐちゃだよ。明後日の晩にはお嬢を追って全てを終わらせるつもりだったのに今日、君が来て、それをひっくり返すだけの何かが起こった。身辺整理も仕事の引き継ぎもぜーんぶ終わりかけだったのにさ」
サイラスがやれやれと肩をすくめる。
「執務室で何があったか知らないけど、閣下は希望をみてしまった。お嬢が生きているっていうあり得ない希望。だけど本当だったらと願わずにはいられないものだ。でも嘘だったら? 生きてるなんて嘘かもしれない。嘘ならさ、愛しい人を二度失くすんだよ? 耐えられないよね。だから閣下も君のことを心底は信じられてはいない」
予感が的中してしまったリリス。頭を抱えたい気分だ。
「それでも押さえきれない期待で頭はいっぱいで、わけが判らなくなってる。成人の儀式の準備で、本当は今日の夕方から城に行ってそのまま帰ってこないはずだったのに、城から仕事を持ち帰って屋敷にいるんだ。気をつけてよ? 閣下はたとえ態度が普通に見えても中身は錯乱状態だから。魔法使いくんとの約束なんて意味ないからね」
サイラスはそこでうっそりと笑った。
「もし、子猫ちゃんが嘘をついているなら細心の注意を払った方がいい、あっという間に八つ裂きにされるよ。その頬の傷、閣下の風魔法のせいでしょ。そんなものじゃない鎌鼬で粉々になる。俺としては君が細切れになるのは悲しい。だから本当に気をつけてね。君に触れなくなるのは嫌なんだ」
サイラスはそう言って口を閉じる。
最後の部分ではリリスを見ながら切なく目を細めた。
「…………」
ランスロットの精神状態は自分よりもひどいと言ったサイラスだが、この男もかなりきている、とリリスは思う。
かなりヤバそうな目の前の男と、これから来るもっとヤバいらしい男。
リリスはこれから、その二人を説得するのだ。
(私、絶体絶命じゃないかな)
リリスはゴクリと唾を呑み込んだ。
(何でもいいから証拠とか、根拠とか)
ぐるぐると必死に考えるリリスの頭の中で、先ほどのサイラスの言った“遺体”が引っ掛かった。
リリスはその“遺体”という言葉に違和感を覚えたのだ。
(だって、それは……)
ガーベラの遺体。サイラスが砦まで行って確認し、流行り病だからと近くの墓地に埋められたそれは、ランスロットが棺ごと大公家に移している。
だからガーベラの遺体は今、大公家の庭に埋められているはずだ。
(………………)
リリスはある可能性に思い当たる。
ガー様の言っていたことを思い出しながら、その可能性について検証してみた。
(………………)
これはいけるんじゃないだろうか、と希望の光が見えた時、ばたんと部屋の扉が開いた。
入ってきたのはサイラスの言った通り、ひどい顔色で表情ががちがちに強張ったランスロットだった。
ランスロットはベットの上のリリスを探るように見た。
「シオンから聞いた。リリス・グレイシー嬢だな」
「はい」
ランスロットがゆっくりとベットサイドまで来る。
「ガーベラには戻ってないんだな」
ぽつりと呟くランスロット。
初っ端から完全に不穏だ。
アウトである。
リリスはリリスだ。ガーベラではない。だからガーベラに戻ったりはしない。
リリスの枕元には人形のガー様が置いてあるから、ランスロットはリリスの言った“人形に夫人の魂が入っている”というのをちゃんと聞いていたはずなのだ。
でも理解はしていない。サイラスが言うように信じるのが怖いのだろう。
それなのに、一瞬だがガーベラが乗り移ったリリスのことをガーベラだと思い込もうとしている。
混乱の極みである。
リリスはぐっと拳を握った。
これは伝え方を間違えれば危険だ。最悪、ランスロットはリリスをガーベラとして扱う可能性もある。その場合は監禁とか薬漬けとかの暗い展開になる予感がする。
リリスは震えそうになる体に力を入れた。
(怯えてる場合じゃない。落ち着いて、とにかくガー様は生きていて、本体もちゃんとあるってわかってもらうのよ、リリス)
リリスは己を奮い立たせる。
ガー様の『リリス!』と呼ぶ低くて安心感のある声を思い出す。力強い声。それを聞くとけっこう何でも怖くなくなる不思議な声だ。
(大丈夫。できる。やれる。成し遂げる)
リリスは意を決して口を開いた。
「大公閣下、ガーベラ夫人は生きています。でも私がこう言っただけでは信じられないことでしょう。だから、大公家の庭の夫人のお墓を掘りおこして下さい。棺に入っているのは夫人の土人形です。何年もかけて作った緻密なものだと聞きました。それはおそらく今も、朽ちずに夫人の形をとどめているはずです」




