14.裁きの場
「花使いミナモの、はじめての恋……そうだろうとも。そうでなければ、こんなことには」
スオウは何度も小さく頷きながら呟くようにそう言って、重苦しいため息をついた。
そこに乗っているのは、理解と同情、そして悔恨ばかりのようだった。
「警護の者から報告として聞いているよ。おまえたち二人がいた場所に、青いスミレの花がたくさん咲いていたと。さぞ、綺麗だったのだろうね。おまえの清らかな愛情そのままに。──それを無残に踏み荒らすとは、なんという暴挙。まったく……」
もう一度大きく吐き出された息には、明確な怒りが滲んでいた。いつも涼しげな顔で微笑を絶やさないスオウが、ここまで感情を露わにしたことはない。常に近くに侍っている護衛の男でさえ、驚いたように目を丸くしている。
ミナモは顔を両手で覆って、下を向いた。
今は何を聞いても、心臓を鷲掴みにされるようで、苦しくてたまらなかった。青い花が、アカザネの血で赤く染まっていく場面が、ずっと頭から離れない。目を閉じればありありと蘇る彼の苦悶の表情は、ミナモにも耐えがたいまでの痛みを生じさせる。
スオウはそんなミナモをじっと見つめて、しばらくの無言の後、静かな声で訊ねた。
「……ミナモ、おまえは文字どおり、力を開花させた。それも、月天宮にいる他のどんな『月の子』より、大きな力だ。今のおまえはもはや立派な『花使い』となった。自分の意志で使えるようになったのなら、よく判るね? その力を操るために、最も必要なものが何か」
「…………」
ミナモはしゃくり上げながら、震える手の下で、唇を結んだ。
今はもう、判っている。
月の神さまから授かった力。それを使うために、本当に必要なもの。
──人を想う心。
スオウはゆっくりと頷いた。
「『月の子』が持つ力は、その者の『心』が大きく作用する。そしてそれは、月天宮にいる『月の子』たちに、欠けているものでもある。それはそうだね、この場所から出ることもなく、毎日毎日同じことの繰り返しでは、身体は大きくなっても、中身まで成長するはずがない。知識だけ詰め込まれたって、心のほうは何も得られない。国の宝などと持ち上げられて肯定されるばかりで、失敗も挫折も知らず、別の考えを持つ他人と触れ合うことがないのだから当然だろう。従ってここにいる『月の子』たちは皆、誰もが頭でっかちで幼稚なんだ。『月の子』が決して大人にはならないというのは、そういう揶揄の意味も含んでいるんだよ」
いつも優しく微笑んで、「月の子」たちに労いの言葉をかけるスオウが、こんな痛烈な批判めいたことを言うのを、はじめて聞いた。
のろのろとミナモが涙に濡れた顔を上げると、彼はひどく醒めた表情をしている。
今まで知らなかったスオウの一面。いや、もしかしたらこれが本当の姿なのかもしれない。
ふいに、背中がひやりとした。
「訓練次第である程度扱えるようになるとはいえ、それは本来の力とは程遠いものだ。ミナモももう気づいているだろうが、『月の子』の力というのは、十全に発揮されたらあんなものではない」
ミナモは自分の胸に手を当てた。
この身に宿る力が、自分で思っていたよりもずっと大きいのではないか、と疑問に感じたのは確かだ。
自分自身さえ引っ張られてしまいそうなくらいの大きな流れ。あれをもっときちんと使いこなせるようになれば、ミナモはさらに広範囲に花を咲かせることも可能だろう。
あれが本来の力だというのなら、「月の子」たちがこの国にもたらすことの出来る恵みは計り知れない。
それをスオウは以前から知っていたという。だったらなぜ、もっと力を引き出すように働きかけをしなかった? 必要なものが何かを理解しているのなら、それを与えてやればいいだけの話ではないか。
ミナモは一度も、ここでそんなことは教わらなかった。いいやそれどころか、月天宮がしているのは、どう考えてもそういった行為とは真逆のことだ。
この狭い箱の中に閉じ込め、外の世界の実態を見せず、他の人々と触れ合うことを禁じ、小さな成果だけを褒めて満足させる。
……むしろそれは、「月の子」たちの持つ力を、抑えようとしているような。
「なぜ、ですか」
ミナモはスオウと目を合わせ、掠れた声で問いかけた。
「──『月の子』とは、一体、何なのですか」
スオウは無言でこちらを見返している。その黒い瞳の中に、今までは決して見えなかった深い闇のような何かが現れていることに、ぞくりとした。
ここにいるのは、いつもミナモに対して柔らかく微笑んでいたスオウではない。彼が後ろに背負っているものは何だろう。月天宮か、それともセイランという一国家か。
彼は今、私情を挟むことが許されない王弟という立場で、ミナモと向かい合っている。
「ミナモよくお聞き、普通『月の子』というのはね、この月天宮に入る時、かなり注意深く扱われるはずなんだよ。その力が認められたなら、慎重に親と子とを切り離し、子どものほうに精神的な負荷を与えないよう取り計らうものなんだ。親のほうにどんな浅ましい思惑や欲があろうとも、それを決して子どもの目には見せないように。……けれどおまえの場合はね、一体どんな手違いがあったものだか、不運と誤解などが重なって、その厳しい決まりが守られなかった。よりにもよって子どもの前で親に金を渡すところを見せるなど、絶対にあってはならないことだったのに」
スオウがひとつ息をつく。
ミナモがここに入った時、月天宮の責任者はまだスオウではなかった。もしも現在そのようなことがあったなら、彼はそれを決して許さないだろう。
自分の心の中に居座り続けた過去の記憶。あれは手違いから生み出された景色だったのか。
……どうりで、他の「月の子」たちの口から、そんな話を聞いたことがなかったはずだ。
親に売られた子どもは、ミナモだけなのかと思っていた。
「そのせいで、おまえはこの月天宮ではいつもびくびくして、身を竦めて遠慮しているような子になってしまったね。当然だとも、誰だってそんな悲しい思いをしたら、心に傷を負ってしまう。ミナモはずっと萎縮し、怯えていただろう? よく泣いていたけれど、今度は捨てられたりしないようにと、誰よりも頑張っていた」
自分を大事にしてくれるウスキに笑って欲しかった。
彼女にまで「要らない子」だと思われるのが怖くてたまらなかった。
だからミナモはいつも人より努力した。
でも、その努力が実ったことは、ほとんどなかった。
「心が縮こまっていたら、力を解放することなど出来るはずもない。視野を広く持ち、安心感を抱いて、気持ちが柔軟になればなるほど、滑らかに体内を巡り流れる──その力はそういう性質のものだ。努力が空回り、他の『月の子』たちにも笑われて、何も出来ないとどんどん自信をなくしていては、より使えなくなるという悪循環にしかならない。ミナモが今まで花を咲かせることが出来なかったのは、そういう理由によるものだった」
スオウはそこで一旦言葉を切り、小さな息を吐いて、顔を建物の中へと向けた。
軽く手を叩く。
ややあって、固い表情をしたウスキが、鉢を抱えて濡縁までやって来た。
両膝をつき、板敷きの床に注意深くそれを置く。ウスキの顔色は悪かった。今にも泣きそうな目をしてミナモを見ると、スオウに向かって一礼し、後ろに下がってその場に控えた。
「……これを覚えているね、ミナモ?」
スオウに問われて頷く。
あの祭りの日の直前に、ミナモがようやく咲かせた花だ。最初の一輪はもう萎んでしまったが、そのすぐ脇に、もうひとつ別の小さな蕾がついている。
「あれからウスキが必死に世話をして、なんとか新しい蕾がつくところまでいったんだよ。毎日毎日、この花に水をやり、陽の光を当てながら、ミナモの無事を祈っていた。おまえを守ることが出来なかったと、ウスキはずっと泣いて悔やんでいたんだ。探しに行くと言ってきかないのを止めるのが大変だったよ」
ミナモはウスキのほうに目をやった。
彼女の目の下には大きな隈がある。頬のあたりの肉も削げてしまっているようだ。今まで気づかなかった自分が恥ずかしい。ウスキだってミナモにとって大事な人であるのは変わりないのに、こんなにも心配させてしまった。
目を伏せて、「……ごめんなさい」と小さく謝ると、ウスキはくしゃりと歪めた顔を袖で覆い隠し、床にぺったりとくっつけた。
スオウが鉢をミナモのすぐ前へと押しやる。
「ミナモ、この蕾を開かせてくれるかい? 今のおまえなら簡単に出来るはずだ」
今の今、そんな要請をする彼の意図が判らない。
それでもミナモはごしごしと顔の涙を拭い、素直に自分の手の平をその蕾の上にかざした。
不在の時も、戻ってきてからも、ウスキには心労をかけどおしだ。せめてもの謝罪の気持ちも込めて、ゆっくりと目を閉じた。
──神さま神さま月の神さま、
心の中でそう唱え、意識を集中しようとした。
が、その集中はすぐに途切れた。瞼を下ろして真っ暗になった視界に、ぼんやりとした光が浮かんできたからだ。
ああ、これはアカザネの光。闇の中に明るく温かく、凛として輝く光だ。強くて優しい、ミナモの用心棒。この人とずっと一緒にいられたらと、ミナモがどんなに願っていたか。
あの時、矢を射かけられたのがミナモであればよかったのに。
その途端、ぐらりと変調が来た。
身体の中で巡っていた力が唐突にぴたりと止まる。渦を巻いて手の平へと向かっていた流れが、大きく軋むようにして曲がり急激に方向を変えた。今までに感じたことのない異様な違和感が身の裡いっぱいに膨れ上がった。何かが暴力的なまでに胸を圧迫し、心臓を締め上げる。
苦しい、苦しい、息も出来ないほど。アカザネ、わたしはあなたを助けられなかった。何も返せなかった。ごめんなさい、わたしはどうすればいい? もう消えてしまいたい。わたしはどうしてここにいるの。どうして、どうして。
真っ黒な手が、ミナモの細い身体を押し潰そうとしている。
「……ぐうっ!」
強烈な吐き気が押し寄せてきて、ミナモは両手で口を押さえ勢いよく倒れた。
「ミナモさま!」
ウスキの叫び声が響く。
ほとんど何も食べていなかったせいか、吐瀉することはなかったが、その代わりに盛大に咽た。激しく咳き込む合間に、何度もえずく。悶えるように床の上でのたうち回り、胸をかきむしった。耳鳴りが酷い。頭もがんがんと痛む。おそろしいほどの苦痛がいっぺんに襲いかかってきて、ただでさえ弱っていたミナモを完膚なきまでに痛めつけた。
駆け寄ろうとするウスキを手で制して、スオウはじっと観察するようにミナモが苦しむ様子を眺めている。
その瞳に憐れみはあるが、驚きはない。彼はこうなることをはじめから予想していたのだ。
今まで自分のものだと思っていた「月の子」としての力。それが今、まるで反旗を翻すかのようにミナモの中で暴れている。自身にはどうすることも出来ない。現在、その力はミナモに従うものではなく、ミナモを支配するものとなっていた。
まだ何度も咳き込み、喘ぎながら汗にまみれた顔を鉢に向ける。
花は、完全に枯れてしまっていた。
「──判るかい? ミナモ。『月の子』とは一体何だという問いに対する、答えがこれだ」
スオウの声は重い。ミナモは呼吸を荒げ、震えの止まらない身体をなんとか起こした。
花は見る影もなく枯れ果てていた。葉がすっかり水気をなくして変色しカサカサと音を立て、まっすぐ立っていた茎はぐにゃりと折れ曲がって伏している。さっきまで膨らみかけていた蕾は、もうどこにあるのか見分けることすら出来ない。
……「花使い」の力が、花を殺した。
「おまえたちが持つ『月の子』の力というのはね、世界にとって諸刃の剣なんだ。その力は、空気や大地を浄化し、草花を蘇らせることが出来るが、逆に、空気も大地も今よりもさらに穢し、残っている草花さえ死滅させることも出来る。力の持ち主の心の方向性によって、その力の方向性も変わるんだ。……それはこの地に生きる人間にとって、脅威以外の何物でもない。そうは思わないかい?」
ミナモは血の気の抜けた顔で、枯れてしまった花を凝視した。
同じくそれを見ているスオウの表情にも翳が差している。
「──もしも神というものが本当にいるのなら」
浄衣をまとい、「自分は月の神に仕える身だから」といつも言っていたスオウの口から出る言葉とは思えない。
どこからどこまでが、彼の作り上げた虚像だったのか。
「その存在は、一体何を思ってこんな力を人間に授けたのだろうね。再生か、滅亡か、どちらの道を取るか、お前たち自身で選べ、と突きつけているようじゃないか。けれども、私たち普通の人間にとっては、そんなのたまったものではないよね。自分たちの命運が、無作為に抽出された、何も知らない子どもたちの手に委ねられるなんて。そんな恐ろしい存在を、野放しにしておくわけにはいかない。そう思うだろう?」
スオウの静かな声に、ミナモの全身の震えがより激しくなった。
ようやく、判った。
月天宮は、そのためにあるものだったのだ。
特別な力を持った「月の子」を保護するためではなく、隔離するため。
世界を滅ぼしかねない危険な存在を、本当の意味で、外に出さずにおくために。
「環境に直接影響を及ぼすかもしれない『月の子』たちは、この月天宮に集められ、教育を施される。一種の洗脳と言ってもいい。外界と接触させず、箱庭の中で満足させて、欺瞞に塗り固められた価値観を植えつけるんだ。精神が成熟しなければ、その力も育ちきることはない。小さな力なら特訓次第で子どもでも十分制御は可能だから、その方法を教え込む。小さくともその力を操れれば、国にとって確かに有益でもあることだしね」
そして放置しても害はないと判断された者たちが「月の落とし子」と呼ばれて、国から見逃される。
彼らは周囲からの疎外を受けるが、その変わり、月天宮に縛られない自由を得る。
どちらが幸せで、どちらが不幸なのだろう。誰一人として、自ら望んで手にした力ではないのに。
「──けれど、ミナモ、おまえは」
スオウが憂える表情でこちらを向き、何度目かの息を吐いた。
ウスキは床に顔をくっつけて、泣いている。彼女もこれから起こることが判っているのだ。
「おまえは、力が育ってしまった。可愛いミナモ、いつまでも無邪気な子どもでいてくれればよかったのに……外の世界に触れ、人を愛し、人を助けたいと願う、その健全で賢明な心の在りようは、もうすでに大人のものへと変貌を遂げた。子どもは自分のことしか考えないものだからね。おまえのその大きな力は、正しく働けば、この国を荒廃から救う天の使いとなるかもしれない。しかし負のほうへと働けば、国を滅びに導く魔性となるかもしれない。……そして今のおまえがどちらの方向を向いているかは、明らかだ」
「月の子」が持つ力は、その者の心が大きく作用する。
ミナモは、大事な人が傷つけられるところを目の当たりにし、心を踏みにじられ、希望が絶望に変わった瞬間、自分が持つ力の性質を歪めてしまった。
ここに至って、ようやく理解した。なぜスオウがこんなにも暗い表情をしているのか。
「これからおまえの『処分』について、正式な決定が下されることになるだろう。……ミナモ、おまえには、この月天宮でいつも明るく笑っていて欲しかった」
スオウの目線が下を向く。ウスキがわっと泣き伏した。
ミナモは涙を落とさずに、ただ頷いた。
花の命を奪い取る「花使い」。そんなものがあっていいはずがない。
──消えなければならないのは、ミナモのほうだ。
***
ミナモはそれから、ぼんやりして日々を過ごした。
日がな一日、濡縁に座ってじっとしている。やるべきことが何も思いつかなかったというのもあるし、今のミナモが庭を歩いたりしたら、下手をするとそこら中の植物を枯らしてしまうかもしれないので、そうしているしかないというのもある。自分のせいで茶色くなった花を見るのはもう御免だ。
詳しい事情は伝えられていなくとも、なんとなく普通ではない雰囲気を察しているのか、周囲は腫れ物に触れるような扱いで、ウスキ以外は誰も近づいてこない。そもそも出来損ないのミナモには、仲の良い「月の子」などいなかった。
ウスキは以前と同じようにせっせと面倒を見てくれようとするが、目を合わせてくれないので、どんな顔をしているのかよく判らない。一人の時にしょっちゅう泣いているようだから、涙の跡を見られたくないのだろう。
彼女に申し訳ないので食べ物は少しずつ口にするようになったが、人形のように動かないのはあまり変わりない。ぼうっとしているうちに朝が来て夜になるので、何日経ったのかもよく判らないくらいだった。
でも、ミナモが泣くことはもうない。むしろ、ここに戻った当初よりも胸の痛みが軽減されて、ほんのちょっと楽になった。
ミナモはずっと、誰かに自分を罰して欲しかったのだ。
スオウが再び月天宮にやって来たのは、五日くらいが経過した夜遅くのことだった。
ミナモの向かいに端然と座した彼は、少々窶れているように見えた。上の人たちとどんな話し合いがもたれたのか、ミナモは知る由もないが、いろいろと紛糾したのだろうことは想像できる。
「月の子」が大岩鳥に攫われるところからはじまり、このセイラン国では、前代未聞のことばかりであっただろう。
不寝番の警護たち以外はもう寝ている時刻のため、月天宮はしんと静まり返っている。
「ミナモ、すまなかった。やはり私の力は及ばなかった」
憔悴した面持ちのスオウが、低い声で言った。顔色が悪いようにも見えるが、もしかしたらそれは、夜空で輝く月明かりのせいかもしれない。
小さく狭い穴の中、アカザネと並んで見上げた時には半円だった月は、今はすっかり満ちた真円となっている。
横に顔を向ければ、皓々とした白い光が、闇に包まれた月天宮の庭を明るく照らし出していた。
こんな場合であるにも拘らず、綺麗だなと思う。
あの一件以来、ほとんど何に対しても無反応だった心が、ようやく少しだけ動いた気がした。
「──これを」
ことんと小さな音を立ててミナモの前に置かれたのは、小さな杯だった。
透明な液体が、杯の中でゆらゆらと揺れている。入っているのは酒でも水でもあるまい。
ミナモは背中をまっすぐにして正座したまま、無言でそれを見下ろした。
「多くの意見が出たが……おまえを、陽も射さないような小さな一室に死ぬまで監禁するようなことだけは、私はどうしても許せなかった。どこもかしこも調べられて、実験体のような扱いをされることもだ。もちろん、数少ない選択肢の中から、おまえが選ぶことも出来る──しかし、どれも、あまりにも」
惨い、と言おうとしたのかもしれないが、スオウはその言葉を呑み込んで黙ってしまった。
王弟としての立場と、スオウの個人的な感情との間で煩悶した結果が、この杯ということなのだろう。
「王をなんとか説得しようとしたが、無理だった。もともとこのセイランは、花の国とも呼ばれていたくらい、彩り豊かな花に溢れていたことが誇りだった国だ。この地からどんどん花が失われていくことに、皆が過敏になっている。もう少し様子を見たいと何度申し出ても聞く耳を持つ者はいなかった。『花使い』は他の『月の子』よりもずっと繊細だから、何かのきっかけでさらに悪い方向にいくのではないかという恐れのほうが強い。……いや、私がもっと上手くやれればよかったんだ。なるべく政治に関わらないようにしていたのが仇となって、ろくな人脈もない私には、どうしようもなかった」
スオウは悔やむように言って目を伏せ、「すまない」と謝った。
やはり優しい人物なのだ。この国を守るという大義は破れなくても、ミナモへの情も捨てきれないでいる。
「せめて、少しでも苦しまないものをと」
そこまで出した言葉は、中途半端なところで途切れた。
庭の反対方向、建物の中の部屋の隅からは、ウスキの押し殺した泣き声が聞こえてくる。彼女もまた、何度も何度も、スオウに向かって、ミナモの助命を嘆願してくれていた。それが駄目なら自分も一緒に、と言うので、ミナモはそれだけは許さないとはっきり告げた。
明かりも点けないから、室内は真っ暗だ。ウスキの顔が最後に見たかったけれど。
「──ありがとうございます、スオウさま。ありがとう、ウスキ」
頭を下げると、スオウは目を逸らし、ウスキの泣き声はさらに大きくなった。
杯を手に取る。両手で包むように持って中を覗き込めば、水面に映した丸い月が波紋を描いて揺れているのが見えた。
やっぱり綺麗だ。この世界には、まだまだ綺麗なものも美しいものもある。
ミナモはアカザネと出会ってそれを知った。アカザネが住むこの世界が好きだと思ったし、これからもずっと続いていくといいと思った。
少しでも人々が笑顔になるように、その手助けがしたかった。何も出来なかったみそっかすの「月の子」は、ようやく自分のやれることを見つけたはずだった。自分の手で咲かせた花が、誰かの癒しや慰めになることが出来なら、どんなに喜ばしいことだろうと。
それなのに。
杯の中の月がまだ揺れている。いや違う、それを持つミナモの手が震えているのだ。
この結果を受け止めて、落ち着いた気持ちで向き合おうと思っていたのに、今になって、ミナモの心も揺れ始めている。
本当にこれでいいのか?
ミナモがしようとしていることは、ただの逃げではないのだろうか。
自分の罪悪感に耐えられず、目を閉じ耳を塞いで、自分で自分を「なかったもの」にしようとしているだけなのでは?
ミナモの存在がなくなれば、アカザネの記憶も消えてしまう。彼の口の悪さも、ぶっきらぼうな態度も、時に見せる優しさも、笑った顔も、ミナモしか知らないことがたくさんあるのに。
俺のことを忘れるなと言われた。果たすべき約束は、まだ残っている。
立ち止まるな、進め、と彼は言ったのではなかったか。
泣いてばかりで、一人では何もしないし何も出来ない。それでは以前と同じくミナモは子どものままだ。
なんて情けない。こんなことだから、阿呆とか頭が足りないとかこれだから月の子はとか言われてしまうのだろう。耳を引っ張る手は近くにないけれど。
怒られるのはまだしも、アカザネに軽蔑されるのだけは嫌だ。
ミナモは眉を吊り上げた。
唇を強く引き結び、じわりと滲んだ涙を振り払う。
叩きつけるように杯を床に戻したら、スオウが驚いたように目を見開いた。
「スオウさま、わたし、やっぱり嫌」
きっと顔を上げる。真っ向から彼と視線を合わせて、力強い声を出した。
口を開いて続きの言葉を出そうとした──その時だ。
ガシャン! と音を立てて、床に置かれた杯が勢いよく砕け散った。
ぱっと飛沫を上げ、中の液体が飛散する。原型を留めないくらい木っ端微塵になった杯の破片が、ばらばらと床に降り注いだ。
ウスキが短い叫び声を上げ、スオウが表情を引き締める。彼の護衛は、今は離れた場所に下がらせてある。咄嗟に片膝立ちになり、周囲に厳しい目を向けた。
ミナモは──ミナモも驚いた。心臓が止まるかと思うくらいに、驚いた。
杯が割れたことではなく、その近くをコロコロと小石が転がっていくのを目にしたからだ。
弾かれたように庭のほうに顔を向ける。
そして、見つけた。さっきまで、ただ月の光を浴びていただけの人工緑のすぐ近くに、もうひとつ別の、清浄な光が輝いているのを。
いつの間にそんなところまで来ていたのか。まったく気づかなかった。大体、どうやってここまで入ってこられたのだろう。
彼はいつでも、神出鬼没だ。
ミナモの目からぽろぽろと大量の涙がこぼれ落ちた。
「──この阿呆」
月天宮の庭に立った不愛想な顔の若者が、指でぴんと小石を弾きながら言った。




