11.ワダン
結局、それ以降もアカザネは宿に泊まるということをしなかった。
なんでも、
「自分一人が眠るだけのために一部屋分の金を取られると思うと腹立たしくて寝られない」
とのことだそうで、ミナモがなんと言っても彼がその意見を翻すことはなかった。
「意味がわからないよ」
「判らなくてもいい。おまえはこれまでどおり、一人で宿に泊まれ」
「一人で一部屋使うっていうのが耐えられないのなら、じゃあやっぱり、わたしと一緒の部屋に泊まる? 布団に入らなければ月の神さまも勘違いしないだろうし、問題ないでしょ?」
「おまえは一体どんな苦行を俺に押しつけるつもりだ」
「なんで苦行? わたしがいると一晩中子守りをしなくちゃならないって、あれのこと? だって宿の中なら見張りもいて安全だって言ってたじゃない。布団がなくても二人でくっついていれば寒くないと思うよ」
「余計寝られない」
「なんで?」
なんでどうしてと問いただしたが、「うるさい」とそっぽを向いてしまったアカザネからは答えをもらえなかった。
いろいろと難しい人である。これ以上うるさく言うと間違いなく耳を引っ張られそうだなと思って、ミナモは仕方なく口を噤んで、ため息をついた。
「……そんなに気になるなら」
ややあって、よそに顔を向けたまま、アカザネがぼそりと口を開く。
「うん?」
「夜、窓から外を覗いてみろ。それで少しは安心できるだろ」
「……うん?」
その時のミナモにはアカザネの言葉の意味が判らなかった。判ったのは、夜になって、言われたとおり宿の窓から外を見てみた時だ。
二階の窓からは、家々の屋根が並んでいるのが見える。すっかり暗くなった今、外に出ている人の姿はない。家の中からは仄かな明かりが薄っすらと漏れてはいるが、ほとんどが漆黒の空に呑み込まれるかのように影に包まれていた。
──その闇の中に、ぽつんとした光がある。
光は、ミナモが顔を出している窓から見下ろせる位置の、小さな家の屋根の上でふわりと浮いているように見えた。
かすかな強弱をつけながら、明滅する輝き。
明るすぎず、かといって暗くもなく、それはまるで蛍が宙を舞っているかのように優美で幽玄で、美しかった。
「……アカザネ」
小さな声でミナモは呟いた。
あれはアカザネが発している光だ。宿のすぐ近く、ミナモの目が届く範囲にいてくれる。
ここにいるから安心しろ、と言うように。
屋根の上で寝るのかなと少し気になったが、それ以上に、闇の中で彼の居場所を示してくれている白い光に見惚れた。
暗すぎて姿は見えないが、確かにあそこにアカザネがいるのだと思うと、ほっとする。
窓を跳ね上げたまま、すぐ近くに灯明皿を置いて、その光を眺め続けた。手を振ってみたが、あちらがミナモのほうを見ているかどうかは判らない。こちらを向いているといいなと思う。いや、早く寝てもらったほうがいいのか。自分でも自分の考えることがよく判らないなんて、不思議なこともあるものだとミナモは思う。
確かなのは、今のミナモの心がとても落ち着いていて、そのくせ、足元からふわふわと浮き上がるような気持ちにもなっている、ということだけだ。
……もしかして、こういうのを、「幸せな心地」と呼ぶのかもしれないなあ。
こんな気持ちを今までに抱いたことはない。生まれてはじめて芽生えた感情が、胸の中でひそかに育とうとしている。
根を張り、茎を伸ばして。
──花が咲くことは、ないのだろうけれど。
そんなことを思いながら、ミナモはずっと長いことその場に立って、屋根の上で灯る輝きを眺め続けた。
そして翌日、顔を合わせるなり、「阿呆なことをしていないでさっさと寝ろ」とアカザネに叱られた。
***
ユキザサに至るまでの道のりに難儀なところはないとアカザネは言っていたが、途中にあったワダンの町で、ミナモはちょっと大変な思いをすることになった。
なぜならワダンは高台にある町で、そこに行くまでずっと上り坂の道が続いているからである。
決して急勾配というわけではないが、それでも延々と緩く長い坂を上っていかなければならないのは、かなり疲れる。ここまでの旅路でなるべく弱音を吐かないようにしていたミナモだが、ここだけはアカザネに頼んで何度か休憩を挟んでもらった。
立ち止まって汗を拭い、ふうふうと呼吸を整えながら、周りの景色に目をやる。
坂の途中であっても、細い道の両側には、家や店がずらりと列を作るようにして並んでいた。アカザネによると、ここはもうワダンの町の一部なのだという。
道は斜めなのに、それらの家は斜めではなく、ちゃんとまっすぐ建っている。両端に高低差をつけているのだとアカザネはなんでもないように言ったが、ミナモはひたすら感心した。
「ちゃんと、その場所に合わせて考えられているんだねえ」
「そりゃそうだろ。人が住める土地は有限だからな、なんとか工夫して家を建てないと」
「人が住めない土地っていうと」
「いくら平地でも、土壌が柔らかすぎたら土台は組めない。逆に硬すぎてもうまくいかない。この国には険しい山がいくつかあるし、大岩鳥が好むような岩だらけの場所もある。川や海に近すぎたら、下手をすると洪水や津波で流される」
「海……」
ミナモはぽかんとした。
そういえばこの国は海に接しているのだったっけ。地図では知っていたが、こうして当たり前のように口に出されると、改めてそのことに驚かされた。
ミナモは海なんて一度も見たことがない。山だって、大岩鳥に攫われなければ、目にすることはなかっただろう。
「アカザネは海を見たことがあるの?」
「まあな。じいさんが死んでから、あちこちをフラフラしてたから」
アカザネは素っ気なく言ったが、ミナモは「へえー」と感嘆した声を出した。
ミナモが知らない世界を、彼はたくさん知っているのだなと思う。自分を拾って育ててくれた老人と死に別れ、数年もの間、アカザネは各地を放浪していたということか。それは自由であると同時に、ひどく寂しいことでもあっただろう。
そしてこれからも彼は、そうやって一人で流離っていくのだろうか。いろいろなところに行って、いろいろなものを見て、広い広い空の下、鳥のように風のように舞い飛んでいくのだろうか。
アカザネはこの世界のどこへでも行ける。
「……わたしも」
小さな声で出てしまった言葉は、その先を続けてしまう前に急いで呑み下した。
そんなことを言ってもどうしようもない。アカザネだって返事のしようがないだろう。いや、きっぱり拒絶されるだけかもしれないが、どちらにしろそれは意味のないことだ。
わたしも一緒に行ってみたい──なんて。
「アカザネ、海ってどういうもの? わたし、絵でしか見たことがないの。匂いはするの? わたしが落ちた湖よりも広いんでしょう? どれくらい?」
益体もないことを言い出さないように、思考を別方向に向けて口を動かした。この先自分の目で見ることのないだろう海だ。せめて、話くらい聞いておきたい。
「…………」
子どものようにあれこれ知りたがるミナモを、アカザネは無言で見返した。何かを言いかけて、しかし彼もまたその言葉を外に出すことなく口を閉じてしまう。
「そういえば、海って塩辛いって聞いたけど、本当? 何もしていないのに塩の味がするなんて変だよね、どうしてかな?」
答えが返ってこなくても気にせずに、ミナモは明るく話し続けた。少し休憩もできたことだしと、お喋りしながら再び坂を上りはじめる。
アカザネがすぐ隣に並んだが、そちらは見なかったし、その袖を掴むこともしなかった。
***
ワダンの町にある店に入って、軽く食事をした。
日暮れまでにはまだまだ時間があるが、ここを出ると次の町までは結構な距離があるらしい。急げば間に合わないこともないが……と、アカザネは少し迷っているようだった。
「わたしなら平気だよ。これを食べたら出発しよう」
ミナモがそう言うと、彼はちょっと考えるような顔をして、立ち上がった。
「……念のため、水と食い物を補充してくる。場合によっては野宿になるが、それでもいいか」
「うん、いいよ! わたし、外で寝るのはじめて!」
「嬉しそうな顔をするな。ここで待ってろよ」
「はあい」
言いつけられて、渋々返事をした。一人で待つのはやっぱり好きではないのだが、さすがにもう捨てられることは心配しない。それに、まだ食べ終わってもいないのだ。アカザネはどうしてそう、毎回あっという間に平らげてしまうのだろう。
去っていく背中を見送ってから、食事を続行した。薄く味噌を塗った握り飯を軽く火で炙ったものだが、食べるのが遅いミナモはまだ半分くらいが残っている。
竹の皮で包んであるそれを、両手で持って口に運んでいたら、道を歩く人たちのひそひそ話が耳に入ってきた。
「……なんでも、人を探しているって話で」
「若い娘かい? どこのお嬢さんだろうな」
「さあね、しかしかなり裕福な家の娘であることは間違いないんだろうさ。なにしろ、わざわざ馬に乗ってほうぼうを廻っているそうだから」
「物々しいねえ。あんなにも人手をかけるなんて、大変だろうに。見つけたら、多少は金をもらえたりするのかね?」
「そうかもな。だが、どうもあまり大っぴらにできない事情があるようだ。おれも訊ねられたがね、年の頃は十六で、名前は……なんて言ったかな、ミ……ミナモ、か」
ミナモはガタンと音を立てて、座っていた椅子から立ち上がった。
それからすぐに、立ったまま、握り飯の残りをぐいぐいと押し込むようにして口に入れた。行儀が悪いが、この際そんなことは言っていられない。
喉に詰まりそうなのを拳で胸をどんどん叩いて胃へと落とし込み、まだ話している男性たちから自分の顔を隠すようにしてこそこそと店を出る。
手を額にかざしながら、目立たないように道の端を進み、必死になってアカザネを探した。
確かこちらの方向に行ったはず。早く見つけて、ワダンの町を出ていかないと。
が、そこでピタリと足が止まった。
前方から、馬の蹄の音がする。今までいくつかの町を廻ったが、牛は見かけても馬なんてどこにもいなかった。馬の所有はそれだけで特権階級の証だとミナモが気づいたのは、つい最近のことだ。
咄嗟に、家と家の狭苦しい隙間に身体をねじ込んだ。
少ししてカツカツという音が近づいてきて、すぐ横を通り過ぎていく。幸い、ぺっしゃんこに平べったくなって家の間に挟まっている変な娘がいることには、気づかれなかったようだ。
蹄の音が小さくなっていくのを確認してから、またずるずるとそこから這い出して、そちらに目をやった。
馬に乗っているのは大柄の男だった。後ろ姿で顔は判らないが、服装は判る。あの色、あの形、やっぱり間違いない。
──月天宮の警護。
「ど、どうしよう」
ミナモはおろおろして、馬が駆けていった方向とは逆に向かって走り出した。
今、彼らに見つかるわけにはいかない。
アカザネはどこだろう? 早くここから離れないと。
水の補充、と言っていたから、井戸にでも行ったのだろうか。それとも、どこかから分けてもらっているのだろうか。そもそもこの町の共同井戸がどこにあるのかも判らない。お尋ね者になっている現在、そこらを歩く人々に聞いて廻るのも憚られた。
小さくとも町は町なので、それなりに建物もあれば、地形が入り組んでいるところもある。高台にあるから遠くはよく見通せるが、近くは遮るものが多くて視界が悪い。
まごまごしながらアカザネを探して動き回っているうちに、ミナモは完全に迷子になってしまったらしい。自分がどちらに向かっているのかも判らなくなって泣きそうになる。ここで大声を出してアカザネを呼べば来てくれるだろうか。いや、そんなことをしたら、かえって注目を集めてしまう。
「ア、アカザネええ~……」
情けないほど弱々しい声で名を呼んだ時、いきなり、がしっと横合いから腕を掴まれた。
来てくれた、と目を輝かせたのは一瞬で、すぐに顔から血の気が引いた。
自分の腕を掴んでいるのは、同じ水干姿でもアカザネではない屈強な男だ。
蹄の音がしないから、気づかなかった。馬に乗っていた男以外に仲間がいたのか。そういえば、「あんなにも人手をかけるなんて」とか話していたような気がする。一体、全部で何人いるのだ。
「やっと見つけた……!」
男は顔に喜色を浮かべたが、腕を掴む力はまったく緩まなかった。ミナモが懸命にそこから引っこ抜こうとしても、びくともしない。
「大丈夫です、私は月天宮の者です」
ミナモが怯えていると思ったのか、男は慌てたように言った。いや知ってる。だから逃げようとしているのではないか。
「は、離してください……!」
「ご無事でなにより、ミナモさま。我々はずっとあなたを探していたのです」
「お、お手数をかけてすみません。でも今、ちょっと事情が」
「一刻も早く月天宮にお戻りを。ご安心ください、もう危険なことなどございませんから」
「聞いて聞いて、あの、わたし、あそこに戻る前に、しなきゃいけないことがあって」
「ここまでつらい思いをされましたでしょう。心配なさらずとも、馬に乗れば月天宮はすぐです」
男はまったくミナモの言うことを聞いてくれなかった。その手はぎっちり細い腕を捕らえて離さない。
彼らは彼らで苦労したのだろうし、ようやく目的を果たせてホッとしているのも判る。しかしもうちょっとくらい、ミナモの意志を尊重するという姿勢を見せてもいいのではないか。
このままでは、本当にすぐに月天宮に連れ戻されてしまう。
「……っ」
ミナモは歯を喰いしばった。
話を聞いてもらえない。腕を離してもくれない。この調子だときっと有無を言わさず馬に乗せられてしまう。アカザネに会う機会ももらえなさそうだ。これでは自分は無力なただの人形ではないか。
この男たちにとって──いや、月天宮にとって、「月の子」とは本当にそれだけのものなのか。
意志も考えも必要ない。
だから必要な情報を与えられず、自分の目も耳も使うことを許されない。
ただ、月天宮という大きな容れ物に収まっていればいいだけのもの。
「……ごめんなさい!」
一応謝ってから、ミナモは思いきり男の腕に噛みついた。何かを傷つけるのは、大岩鳥に次いで二回目だ。「うわっ」と男が叫んだが、今回は前回ほど罪悪感を覚えなかった。
「月天宮には必ず帰ります! でも、もう少し待って! ウスキとスオウさまに、心配は要らないからと伝えて!」
手が離れた隙をついて、踵を返し走り出す。すぐに後ろから追ってくる足音が続いた。それはそうだろう。これで諦めてくれるだろうなんて甘い考えは、ミナモも持ってはいない。
すうっと息を吸う。
「アカザネ、助けてえっ!」
しばらく走ったところで、男に追いつかれた。
もう一度腕を取られ、今度はぐいっと力ずくで引っ張られる。あちらも頭に血が昇っているのだろう。痛みでミナモが顔をしかめた途端──
ドン、ドン、という音がものすごい勢いで近づいてきたと思ったら、最後のドン! という音と同時にアカザネが空から降ってきた。
どうやら、また屋根の上を移動してきたらしい。ザッと砂煙を立てて地面に着地した彼は、その低い姿勢のまま、持っていた刀の柄頭を突き上げ、男の手首に打ちつけた。
ミナモに噛みつかれた上に、柄頭の直撃を受けて、たまらず呻き声を上げた男がミナモから手を離す。よろめいたところをすかさずアカザネの蹴りが腹の真ん中に食い込み、ドガッ、という鈍い音と共に、その身体が勢いよく後方へと吹っ飛んでいった。
相変わらずあっという間の出来事に、呆けてしまったミナモを、アカザネが振り返る。
「無事か」
声をかけられ、やっと我に返った。
「あ、う、うん、首飾りね、ちゃんと無事」
「阿呆、おまえだ」
ん?
一瞬首を傾げてしまったが、すぐにそれどころではなかったと思い出した。慌ててアカザネの袖を強く掴む。
「そ、そうだ、大変なの、アカザネ。すぐに逃げなきゃ」
アカザネは、「は?」と眉を寄せた。
「他にもいるから、見つからないうちに早くこの町を出ないと」
「他にもってなんだ」
「だから、この人以外にも何人かいるんだってば」
「集団に追われてたのか。おまえ今度は一体何をしでかした」
「何もして……いやあの、今回はしたけど、だって、今捕まるわけにはいかないし」
「まったく次から次へと……」
ぶつぶつ言いながらも、こっちだ、とアカザネがミナモの手を取って走り出す。
どこからか、馬の蹄の音が聞こえた。
「きゃあっ、どうしようアカザネ、あっちは馬だもん、すぐに追いつかれちゃう!」
「……馬だと?」
アカザネはふいに真面目な顔つきになって、足を動かしながら後ろへ目をやった。
まだ追手の姿は見えないが、全部で何人いるのかも判らない。いつ突然目の前に現れるのかと、ミナモは生きた心地がしなかった。
「ひょっとして、さっきのやつ……」
「月天宮の警護の人! わたしを探してたんだって!」
走りながらなので、ミナモの説明はすっかり息が切れている。
きっと、少しずつ手がかりを探りながら追ってきたのだろう。大岩鳥の住処であるあの岩山から手繰っていけば、不可能ではない。
エンレイでは騒ぎを起こしたから、汗衫姿のミナモを見た人は多い。都へと向かう街道を歩いている時も、たくさんの人たちと行き会った。マンリョウでは、花を咲かせるという、この上ない徴を残してきている。
月天宮は秘密裏に、攫われた「月の子」の捜索をしていたのだ。こちらは徒歩で、あちらは馬、一度跡を見つけたら、それを辿っていけばすぐに追いつける。
アカザネはその言葉に目を瞠り、「ウソだろ」と唸るような声を出した。
「だったら、なぜ逃げる必要があるんだ。迎えが来たなら、そのまま月天宮に戻れたのに」
「ダメだよ! わたし、まだアカザネとの約束を果たしてない! ユキザサに行って、おじいさんのお墓にお花を供えるんでしょう?! あの人たちに捕まったら、わたしはそのまま月天宮に連れ戻されて、もう外には出してもらえない! また箱の中に入れられてしまう前に、わたしはどうしてもアカザネと一緒におじいさんのお墓に行きたいの!」
「…………」
アカザネは口を引き結んで黙ったが、その足が止まることはなかった。
ただ、ぽつりと一言、
「……阿呆だな、おまえは本当に」
小声で呟くように、そう言った。
蹄の音が後方から近づいてくる。別のところから、「あっちだ!」という声も聞こえた。このままでは挟み撃ちにされてしまうかもしれない。
今度捕まったら、本当に問答無用でアカザネと引き離されてしまうだろう。ミナモの背中が冷たくなった。
そこで突然、アカザネが立ち止まった。手を引かれていたミナモの身体がつんのめる。
「え、アカザ──」
目を瞬く間もなく、ふわっと足が地面から離れた。
身体が宙に浮いた。と思ったら、ミナモはアカザネに抱きかかえられていた。えっ、と声を上げた途端、今度はひゅっと空を飛んだ。いや違った、アカザネがミナモを抱いて、猛烈な速度で駆け出したのだ。
「ア、アカザネ……!」
「舌を噛むから黙ってろ。しっかりつかまってろよ」
それは本当に飛んでいるかのような動きだった。めまぐるしい勢いで景色が流れていく。
頬を掠めていく風が鋭くて痛いほどだ。本当にこれを「走っている」と言っていいのか。アカザネの足が地に着いているような気がしない。あまりにも速すぎてぐるぐる目が廻る。
振り落とされないように、ミナモは無我夢中でアカザネの首にしがみついた。
「飛ぶぞ」
アカザネがそう言ったかと思うと、次の瞬間、内臓が持ち上がるような浮遊感が来た。
高台にあるワダンの町は、側面が急角度の傾斜地となっている。岩の断面が剥き出しになったその場所は、少しなだらかな崖、と形容してもいいくらいだ。もちろんそんなところ、登るのはおろか、滑り落ちでもしなければ下ることなんてできるはずもない。だからこそ、人々がこの町を行き来する時は、時間がかかっても緩やかな坂のほうを選ぶのである。
その急斜面を、アカザネはあちこちにあるほんの小さな突起を目がけて跳び、そこを一瞬の足場にしながら下っていった。しかも、ミナモを抱きながら。
驚愕するよりも唖然としてしまう。
──アカザネは狼ではなく、カモシカの化身だったのか。
首に廻した手に、ぎゅっと力を込める。アカザネがちらっとミナモの顔を見た。
「怖いか」
「怖いよ!……でも、楽しい!」
アカザネがミナモを落とすわけがないという、絶対的な安心感がある。彼に対する信頼は揺るがない。空を飛ぶのは大岩鳥の時でだいぶ慣れたし、あの時のような不安がない分、今のほうがずっと落ち着いていられた。
弾けるように笑い出したミナモを見て、アカザネも小さく喉を鳴らした。
今度は、はっきりと判った。
……アカザネが、笑っている。




