第23話 80歳のYouTuber(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
時刻は午前4時。
夜明け前の最も深い闇に包まれる時間帯だが、地下室には異国の香りが充満していた。
「……カルダモン、シナモン、クローブ、スターアニス。スパイスの焙煎が味の深みを決める」
所長の阿部邦彦は、寸胴鍋の前で静かに、しかし情熱的に作業を続けていた。
彼が作っているのは、アメリカの情報サイト『CNNGo』で「世界で最も美味しい食べ物」に選出されたこともある、タイ南部の至宝――マッサマンカレーだ。
「石川、ピーナッツを炒れ。焦がすなよ。香ばしさがカレーのコクになる」
「は、はい! ……でも所長、こんな時間にこれ食べるんですか? カロリー爆弾ですよ?」
「脳が疲弊している時こそ、スパイスと糖分と脂質が必要だ。……見ろ、あのゾンビを」
阿部が顎でしゃくった先には、PCのモニターに張り付いたまま微動だにしない、小川みずほの姿があった。
彼女はもう10時間以上、ぶっ通しで動画編集を続けている。
ヘッドホンを装着し、充血した目でタイムラインを操作する姿は、まさに何かに取り憑かれたかのようだ。
「……できた」
鍋の中では、ココナッツミルクの油分が分離し、美しい赤茶色の層を作っている。
牛スネ肉は繊維がほぐれるほど柔らかく煮込まれ、ジャガイモと玉ねぎがとろりと溶け合っている。タマリンドの酸味とパームシュガーの甘み、そしてナンプラーの塩気が複雑に絡み合う、濃厚なカレーだ。
「よし、仕上げだ。……ペアリングはこれにする」
阿部が取り出したのは、鍋いっぱいの牛乳と、ダークチョコレート、そして白いマシュマロだった。
「……えっ? カレーに、チョコですか?」
「飲み物だ。ホットチョコレート・ウィズ・マシュマロ」
阿部は牛乳を温め、刻んだチョコレートを溶かし込んでいく。
カカオの芳醇な香りが漂う。
マグカップに注ぎ、その上にたっぷりとマシュマロを浮かべる。熱でマシュマロが少しずつ溶け出し、クリーミーな泡となって広がる。
「マッサマンカレーは甘みとコクが強い。そこに、あえて濃厚で甘いホットチョコレートを合わせることで、スパイスの刺激を包み込み、脳に直接ブドウ糖と幸福感を叩き込む。……徹夜明けの脳には、これくらいの荒療治が必要だ」
阿部はトレイにカレーとホットチョコレートを乗せ、みずほのデスクへ運んだ。
「……おい、小川。休憩だ」
「……」
「無視か。……キーボードにカレーをこぼすぞ」
「……んぁ?」
みずほがようやくヘッドホンをずらし、ぼんやりとこちらを見た。
「……なに、この匂い。すごい……」
「食え。マッサマンカレーだ」
「まっさまん……?」
みずほはスプーンを受け取り、一口食べた。
瞬間、カッ! と目が開いた。
「……うまぁっ!! 何これ、甘いのに辛い! 深い!」
「そうだ。脳が起きたか?」
「起きた! めっちゃ起きた!」
みずほはガツガツとカレーをかき込み、続いてホットチョコレートを啜った。
とろけたマシュマロが唇につく。
「はぁ~……幸せ……。おじさん、天才じゃん」
「知ってる。……で、進捗は?」
「完璧。……エンコード終わったよ」
みずほはニカッと笑い、エンターキーを叩いた。
画面に『書き出し完了』の文字が表示される。
「……できたよ。80歳のおじいちゃんの、最初で最後の傑作」
午前9時。
依頼人の牧村健一さんが、約束通り事務所にやってきた。
その顔色は優れない。おそらく、一睡もしていないのだろう。
父の遺品である機材を「詐欺の証拠」として持ち込んだ彼にとって、昨日判明した「父の本気」は、受け入れがたい事実だったのかもしれない。
「……できましたか」
「ええ。ご覧ください」
阿部はモニターの前に健一さんを座らせた。
再生ボタンを押す。
画面が明るくなる。
そこに映し出されたのは、いつもの散らかった部屋……ではない。
みずほの編集によって、色彩補正が施され、まるで映画のワンシーンのように温かい色調になった父・正三さんの部屋だった。
『……あー、テステス。聞こえとるかな』
ノイズが綺麗に除去され、老人の声がクリアに響く。
BGMには、アキさんが提供した、正三さんが好きだったという演歌のインストゥルメンタルが、ピアノアレンジされて静かに流れている。
『マッキーチャンネル、はじまりはじまり』
画面には、ポップで見やすいテロップが表示される。
あの退屈だった「プリンの食レポ」や「鳩との会話」が、テンポよくカットされ、繋ぎ合わされていた。
『あいつ、飯食ってるかなぁ』
『一人は、広すぎるねぇ』
みずほが拾い上げた、父の独り言。
それが、絶妙なタイミングで挿入される。
ただの独り言ではない。それは、遠くにいる誰かへのメッセージとして再構成されていた。
そして、動画の終盤。
画面が暗転し、一つのテイクが流れた。
それは、PCの奥深く、『削除済みアイテム』の中にあった動画ファイルだ。
エミリーが復元し、みずほが繋ぎ合わせたラストシーン。
カメラの前に座る正三さんが、照れくさそうに頭を掻いている。
『えー……今日は、ある人に手紙を書きたいと思います』
正三さんは、アキさんが現場から拾ってきたあの日記帳を手に持っていた。
『健一。……元気か』
健一さんの肩が跳ねた。
『わしは元気だ。……いや、嘘だ。本当は寂しい。お母さんが死んでから、この部屋は広すぎて、寒くてたまらん』
正三さんの目が、レンズを通して健一さんを見つめる。
『お前が寄り付かなくなったのは、わしのせいだ。わしが頑固で、お前の仕事や生き方を否定ばかりしていたからだ。……すまなかった』
老人の目から、涙がこぼれる。
『でもな、健一。……わしは、お前が自慢だったんだ。商社マンになって、世界を飛び回るお前が、誇らしかったんだ』
日記を握りしめる手が震えている。
『このカメラはな、店員さんに勧められて買ったんだ。「これを使えば、世界中の人と繋がれますよ」って。……わしは思ったんだ。これを使えば、世界のどこかにいるお前にも、この声が届くんじゃないかって』
正三さんは、カメラに向かって精一杯の笑顔を作った。
しわくちゃで、歯も抜けていて、でも最高に温かい笑顔。
『いつか、お前がこれを見てくれると信じて。……健一、体に気をつけてな。ご飯、ちゃんと食えよ。……愛してるぞ』
プツン。
映像が終わり、黒い画面に白い文字が浮かび上がった。
『Directed by Shozo Makimura(撮影・監督:牧村正三)』
『Edited by Digital Archives Inc.(編集:デジタル・アーカイブス社)』
静寂。
健一さんは、動かなかった。
ただ、その肩が激しく震え、喉の奥から押し殺したような嗚咽が漏れていた。
「……親父……」
健一さんは、モニターの中の父に向かって、手を伸ばした。
「バカだよ……。こんなこと考えてたのかよ……。直接言えよ……!」
大の大人が、子供のように泣きじゃくる。
20年間の断絶。埋まらなかった溝。
それが今、一本の動画によって橋渡しされたのだ。
「……これが、お父様が遺した『完成形』です」
阿部が静かに言った。
「詐欺の証拠はありませんでした。ここにあったのは、息子への愛の記録だけです」
「……ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます……」
健一さんは泣きながら、何度も頭を下げた。
「あの……この動画、どうされますか? ご希望なら、データをお渡しして終わりにしますが」
「……いいえ」
健一さんは涙を拭い、顔を上げた。
「公開してください。父は、世界と繋がりたがっていた。……私のところまで、届けてくれたんですから」
阿部は頷き、後ろに控えていた二人の女性に目配せをした。
弁護士の藤田涼子と、ハッカーのエミリーだ。
「出番よ、お二人さん」
「任せて。権利関係はクリアにしたわ」
涼子が書類を振ってみせた。
「BGMの楽曲使用許諾、肖像権の処理、すべて完了済みよ。これで堂々と公開できるわ」
「And subtitles are ready!(字幕も準備できたわ!)」
エミリーがタブレットを操作する。
「英語、中国語、スペイン語……主要言語の字幕をつけたわ。タイトルは『80-year-old, First Video Letter(80歳、はじめてのビデオレター)』。……世界中のおじいちゃん子たちを泣かせてやるわよ」
エミリーがエンターキーを押した。
アップロード完了。
動画は、インターネットの大海原へと放たれた。
それからのことは、まるで嵐のようだった。
動画は数時間で拡散され、再生回数は万単位で跳ね上がった。
コメント欄には、世界中の言語でメッセージが溢れた。
『泣いた。自分の親に電話しようと思った』
『最高の笑顔だ』
『孤独なんかじゃない。私たちがあなたの家族だ』
『R.I.P. Shozo』
孤独死したはずの老人の最期を、数百万人の「デジタル家族」が見送ったのだ。
その日の昼下がり。
健一さんが帰った後、事務所には濃厚な香りが漂っていた。
阿部が明け方に作ったマッサマンカレーだ。
数時間寝かせたことで、味はさらに深まっている。
「……んー! やっぱり美味しい!」
みずほが幸せそうに頬張る。
彼女の目の下の隈はまだ消えていないが、その目は達成感で輝いていた。徹夜明けの体に、スパイスが染み渡っているようだ。
「いい仕事だったな、小川」
阿部が珍しく素直に褒めた。
「お前の編集がなければ、あの動画はただのノイズで終わっていた。……よくやった」
「へへ……。まあね! 私にかかればこんなもんよ!」
みずほは照れ隠しにホットチョコレートを飲んで、鼻の下に白い髭を作った。
エミリーがそれを指差して笑い、アキさんが背中を叩く。涼子さんも、かほりさんも、みんな優しい顔をしている。
私たちはモニターに表示された、増え続ける再生回数とコメントを見つめた。
孤独死という悲しい結末。
でも、遺されたデータの中に、確かに「愛」はあった。
それを掬い上げ、磨き上げ、届けること。
それが、私たちの仕事なのだ。
数日後。
葬儀の日。
会場には、多くの花が届いていた。動画を見た人々からの献花だ。
棺の中の正三さんは、とても綺麗な顔をしていた。
葬儀屋のアキさんが、エンバーミングを施したのだ。
「……どう? イケメンにしたでしょ?」
アキさんが小声で私に自慢する。
頬のこけはふっくらとし、顔色は血色が良く、口元は動画の最後で見せたあの笑顔のように結ばれている。
「はい。……すごく、いい顔です」
健一さんは、棺の中の父の顔をじっと見つめていた。
その表情は、依頼に来た時の険しいものではない。
穏やかで、そして誇らしげな息子の顔だった。
「……親父。よかったな。有名人だぞ」
健一さんは、父の冷たい手に触れた。
「俺も……頑張るよ。ご飯、ちゃんと食うよ。……ありがとうな」
最後のお別れ。
出棺の時、空は澄み渡るような青空だった。
霊柩車のクラクションが、長く、高く響き渡る。
それは、正三さんの新しい旅立ちを告げる汽笛のようだった。




