第22話 80歳のYouTuber(中編)
神保町の地下にある『デジタル・アーカイブス社』。
この場所は、データの墓場であると同時に、阿部邦彦という男の「食の実験室」でもあった。
深夜の地下室に、蒸気の白煙が立ち込めている。
「……皮の透明度が命だ。温度管理を怠るな」
阿部は中華包丁を握り、まな板の上でエビを叩いていた。
ミンチにするのではない。包丁の腹で押し潰し、プリプリとした食感を残すのだ。
その横では、ボウルに入った白い粉――浮き粉と片栗粉に、熱湯が注がれている。
「熱湯で練ることで、デンプンが糊化し、蒸した時に透き通るような『水晶肌』になる。……石川、手際よく練れ。冷めたら終わりだ」
「あ、熱っ! これ火傷しますよ所長!」
「根性を入れろ。点心師への道は険しい」
阿部は私の悲鳴を無視し、エビ餡の味付けにかかった。
塩、砂糖、胡椒、そして隠し味の豚の背脂とタケノコのみじん切り。
練り上がった生地を棒状に伸ばし、小さな円形に切り分ける。
ここからが阿部の真骨頂だ。
彼は専用の「点心棒」を使わず、中華包丁の腹だけで生地を薄く、丸く伸ばしていく。
その手つきは魔法のようだった。
「……包むぞ」
阿部は薄い皮に餡を乗せ、親指と人差し指を使って、繊細なヒダを作っていく。
1、2、3……正確に12個のヒダ。
あっという間に、美しい半月形の餃子が並んでいく。
蒸籠に並べ、強火で一気に蒸し上げる。
5分後。
蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気と共に、食欲をそそる香りが爆発した。
湯気の向こうから現れたのは、宝石のように輝く「水晶海老餃子」だった。
半透明の皮から、中のエビのピンク色が透けて見えている。
「……完成だ。Dim sum(点心)の時間だ」
阿部は蒸籠をテーブルに置き、冷蔵庫からピッチャーを取り出した。
中に入っているのは、鮮やかなオレンジ色の液体だ。
「オレンジジュース?」
「ああ。それも、バレンシアオレンジを生搾りしたストレート果汁だ」
阿部は氷の入ったグラスにジュースを注いだ。
「点心には中国茶が定番だが、エビの甘みと背脂のコクをリフレッシュするには、柑橘の酸味が最適だ。オレンジのフルーティーな酸味が、口の中の油を切り、次の一口を誘う」
「なるほど……いただきます!」
私たちは熱々のハーガウを口に放り込んだ。
プリッ! という弾けるような食感。
噛むほどに溢れ出すエビの甘みと、背脂の旨味。モチモチとした皮の食感がたまらない。
そして、すぐに冷たいオレンジジュースを飲む。
キュッとした酸味が口の中を洗い流し、爽快な余韻を残す。
「……美味い。阿部ちゃん、あんた中華街で店出せるよ」
葬儀屋の岡田アキが、3個目を頬張りながら絶賛する。
カナダ人のエミリーも、「Amazing!」と叫びながら蒸籠に手を伸ばしている。
この地下室は、今や多国籍料理店と化していた。
しかし。
この宴に参加していない人物が約2名いた。
一人は、依頼人の牧村健一さん。彼は隅のソファで、イライラと貧乏揺すりを続けている。
そしてもう一人は、大家の後藤かほりさんだ。
彼女はデスクの一角を占拠し、特殊なライトの下で、ピンセットと筆を操っていた。
「……終わったわよ」
静かな声が響いた。
かほりさんが、眼鏡を外して目を揉んだ。
その手元には、アキさんが現場から拾ってきた「汚れた日記帳」があった。
数時間前までは、腐敗液とカビで真っ黒な塊だったものが、今は一枚一枚剥がされ、綺麗に洗浄されて乾燥台に乗せられている。
「すごい……! 読めるようになってる!」
私が覗き込むと、そこには少し滲んではいるものの、確かに青いボールペンの文字が浮かび上がっていた。
かほりさんの「紙の修復技術」。
酵素系の洗浄液で汚れを分解し、さらに特殊な波長の光で消えかけたインクを可視化させたのだという。
「……読んでみて。阿部くん」
かほりさんが日記を差し出した。
阿部は手を拭き、日記を受け取った。
依頼人の健一さんも、恐る恐る近づいてくる。
「……『○月×日。今日も誰とも話さなかった』」
阿部が読み上げる。
「『コンビニの店員に「ありがとう」と言ったら、無視された。私の声は、小さすぎたのだろうか』」
「『△月○日。テレビでYouTubeというものを見た。誰でも世界に発信できるらしい。私のような老人の声でも、誰かに届くだろうか』」
日記に綴られていたのは、詐欺被害の記録でも、認知症の妄想でもなかった。
孤独だ。
圧倒的で、静かな孤独。
誰とも繋がれない寂しさと、それでも誰かと繋がりたいという切実な渇望。
「『機材を買った。高かったが、店員さんが親切に教えてくれた。久しぶりに人と長く話せた』」
「『今日はカメラに向かって喋ってみた。レンズの向こうに、誰かがいる気がした。……健一は、元気だろうか』」
息子の名前が出た瞬間、健一さんの肩がビクリと震えた。
「『健一と最後に食べたプリンの味を思い出しながら、食レポをしてみた。上手く喋れない。入れ歯が合わないせいか。……健一に見られたら、笑われるだろうか』」
阿部がページをめくる。
最後の日付のページには、震える文字でこう書かれていた。
『パスワードを変えた。忘れないように、一番大切な日にした。……あいつが生まれた日だ』
阿部が日記を閉じた。
地下室に、重い沈黙が流れる。
健一さんは、顔を両手で覆っていた。
「……1975年、10月12日」
健一さんが呟いた。自分の誕生日だ。
阿部は無言でPCに向かい、その数字を入力した。
カチッ。
ロックが解除された。
フォルダの中身が展開される。
『未編集』というフォルダに、数百本の動画ファイルが並んでいた。
「……再生するぞ」
阿部がクリックする。
モニターに、亡き父・正三さんの姿が映し出された。
『えー、マッキーチャンネルです。……今日は、公園の鳩に名前をつけてみたいと思います』
ブレブレの映像。風の音がひどい。
老人が鳩を追いかけ回し、「ポッポ1号」「ポッポ2号」と呼んでいるだけの映像。
『次は、カップラーメンの食べ比べです。……ズルズル。うん、しょっぱいね』
薄暗い部屋で、一人寂しくラーメンをすする老人。
画角が見切れていて、顔半分しか映っていない。
テロップもなければ、BGMもない。
ただただ、地味で、退屈で、そして痛々しい映像が続く。
「……なんだこれ」
健一さんが、失望したように吐き捨てた。
「これを見せたかったのか? こんな……惨めな姿を?」
「……」
「やっぱりボケてたんだ。YouTuber? 笑わせるな。こんなゴミみたいな動画、誰が見るんだよ。世界に発信? 恥を晒すだけじゃないか」
健一さんは、怒りと悲しみが入り混じった声で叫んだ。
父の孤独を知ってしまった罪悪感を、動画のクオリティの低さを罵ることで誤魔化そうとしているようにも見えた。
「消してください。こんなもの、残しておきたくない。父の名誉のためにも」
健一さんが阿部に懇願する。
阿部はマウスに手を伸ばした。
その時。
「……待って」
声がした。
小川みずほだ。
彼女はいつの間にか、エミリーから借りたヘッドホンを装着し、モニターを食い入るように見つめていた。
「消さないで。……これ、素材はいいよ」
「はあ? 何を言ってるんだ君は。見て分からないのか、この酷さを」
「酷いのは編集だよ。撮りっぱなしだからつまんないだけ」
みずほはヘッドホンを外し、健一さんを真っ直ぐに見た。
「このおじいちゃん、伝えたいことはあるんだよ。……ほら、ここ」
みずほがキーボードを操作し、動画を巻き戻した。
カップラーメンを食べるシーン。
麺をすすった後、老人がふと、カメラの外に視線を逸らした瞬間。
『……あいつ、飯食ってるかなぁ』
ボソリと、独り言が漏れていた。
ノイズに埋もれて聞き逃してしまいそうな、小さな声。
「ここだけじゃない。……鳩の動画も」
みずほが別の動画を再生する。
鳩に逃げられた老人が、ベンチに座り込むシーン。
『……一人は、広すぎるねぇ』
寂しげな呟き。
そして、カメラに向かって無理やり作った笑顔。
「音声レベルがバラバラだし、環境音もうるさい。でも……声の『成分』は生きてる。寂しさも、愛しさも、全部入ってる」
絶対音感を持つみずほには、聞こえていたのだ。
老人の枯れた声の中に含まれる、純粋な感情の周波数が。
「編集させて」
みずほは阿部の方を向いた。
「ノイズを除去して、音量を調整して、テロップとBGMを入れて……余計な間をカットすれば、これは『作品』になる。おじいちゃんが本当に伝えたかったメッセージが、形になるはずだよ」
「……」
阿部はみずほの目を見た。
そこには、かつて「幽霊の声」の正体を突き止めた時と同じ、クリエイターとしての熱い光が宿っていた。
この子は、音と映像の中に潜む「真実」を見抜く天才だ。
「……健一さん」
阿部は依頼人に向き直った。
「あんたは言ったな。『父は機械音痴で、何もできなかった』と。だが、親父さんは最期まで、新しいことに挑戦していた。不器用なりに、あんたと繋がろうとしていた」
「……」
「その努力を『ゴミ』として消すか。それとも、プロの手で磨き上げて『遺作』にするか。……決めるのはあんたが」
健一さんは、モニターの中の父の顔を見た。
しわくちゃで、情けない笑顔。
でも、記憶の中にある厳格だった父よりも、ずっと人間らしい顔をしていた。
「……できるんですか? こんな動画でも、見られるものに?」
「当たり前でしょ」
みずほがニカッと笑った。
「私に任せて。最高にエモい動画にしてあげるから」
阿部は口元を緩め、蒸籠に残っていた最後のハーガウをみずほの口に放り込んだ。
「……食ったら働け、小川」
「んぐっ……熱っ! 美味しいけど!」
「お前のセンスで、この動画を『完成』させろ。……納期は明日の朝だ」
「マジ!? 徹夜じゃん!」
みずほは文句を言いながらも、目は楽しそうだった。
彼女は自分のハイスペックPCを開き、動画データを転送し始めた。
「エミリー姉ちゃん、英語字幕お願いできる?」
「Sure! 任せて!」
「アキさん、おじいちゃんの好きな曲とか分かる?」
「葬儀で流した演歌があるよ。データ送る!」
チームが動き出した。
孤独死した老人の、誰も見てくれなかった「YouTuberごっこ」。
それが今、プロフェッショナルたちの手によって、世界へ届くメッセージへと生まれ変わろうとしていた。
私はかほりさんが修復した日記を、そっと閉じた。
表紙の汚れは落ちていたが、染み込んだ涙の跡までは消えていなかった。
その涙を、笑顔に変える魔法。
それが、ここの「整理」なのだ。
深夜の地下室に、キーボードを叩く音と、オレンジジュースの氷が溶ける音が響いていた。




