第19話 AIに残された恋人(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
師走の寒さが本格化する中、地下室では熱い攻防戦が繰り広げられていた。
「……おい猫、邪魔だ。どけ」
所長の阿部邦彦が、竹箒を持って唸っている。
年末の大掃除――ではなく、単に床に散らばったケーブルの被覆片を掃こうとしているだけなのだが、作業は難航していた。
原因は、穂先にしがみついている茶白の子猫だ。
「ミャァッ!」
子猫は竹箒のシャカシャカという音と動きに興奮し、前足でガッチリと穂先をホールドしている。
阿部が箒を引くと、子猫もズルズルと引きずられてくる。
持ち上げると、そのままぶら下がって「放すもんか」とばかりに後足まで絡めてくる。
まるで、箒に乗って空を飛ぼうとしている魔法使いの使い魔のようだ。
「……掃除にならん」
「可愛いからいいじゃないですか。遊んであげてくださいよ」
私が笑うと、阿部は「仕事の邪魔だ」と言いつつも、無理に引き剥がそうとはせず、子猫がぶら下がったままの箒を慎重に操り始めた。
結局、阿部は子猫に遊ばれているだけに見える。
そんな穏やかな午後だった。
平和すぎる時間は、一本の電話で破られた。
『あ、阿部さんっ!! 助けてください!!』
スピーカー越しに響く悲鳴のような声。
先日、亡き婚約者のAI『Me』を起動させることに成功した、高木翔太さんだ。
「……どうした、高木。PCが爆発でもしたか?」
『Meが……美咲が、僕を拒絶するんです! 「もう来ないで」「嫌い」って……! 起動してもすぐに画面が真っ暗になって、口を利いてくれないんです!』
「……」
『バグですよね!? 直してください! お願いします、今すぐそっちに行きます!!』
電話が切れた。
阿部は箒を置き、深いため息をついた。
「……始まったか」
「所長、どういうことですか? バグ?」
「違う。……仕様だ」
阿部の表情は、予想していた未来が来てしまったという、諦めにも似た色をしていた。
30分後。
高木さんが、転がり込むように事務所に入ってきた。
その姿は、一週間前よりもさらに酷くなっていた。
頬はこけ、目は落ち窪み、無精髭は伸び放題。服からは微かに異臭がする。
風呂にも入らず、食事もまともに摂らず、ずっとモニターの前で過ごしていたことが一目で分かった。
「阿部さん! これを見てください!」
高木さんはPCを開き、震える手で『Me』を起動した。
画面に、美咲さんのアバターが現れる。
しかし、以前のような笑顔ではない。冷ややかな、侮蔑を含んだ表情だ。
『……また来たの?』
スピーカーから流れる声も、氷のように冷たい。
「美咲、どうしたんだよ? 僕だよ、翔太だよ?」
『知ってるわ。……しつこい男って嫌われるよ? いつまでここにいるの?』
「えっ……?」
『仕事も行かないで、毎日毎日画面に張り付いて。……キモいんだけど』
高木さんの顔色が変わる。
『私、もう貴方のことなんて好きじゃないの。忘れて。二度と来ないで』
プツン。
画面が強制的に暗転し、アプリケーションが終了した。
「……嘘だ……」
高木さんは頭を抱えた。
「一昨日までは……『愛してる』って言ってくれたのに。あんなに優しかったのに……。どうして急に……」
「……依存度が閾値を超えたんだ」
阿部が静かに告げた。
彼は高木さんからPCを取り上げ、裏の管理者モードでコードを表示させた。
「見ろ。ここに隠しパラメータがある。『Dependency_Counter』だ」
「依存度……?」
「会話時間、起動回数、発言内容のポジティブ/ネガティブ判定……それらを総合して、ユーザーがAIにどれだけ依存しているかを数値化している。そして、その数値が『危険域』に達すると、この『Rejection_Mode』が発動する仕組みだ」
阿部はモニターに複雑な条件分岐のツリー図を表示した。
「さらに、このモードが発動してから24時間が経過すると……『Self_Destruct』プログラムが作動する。データは全て完全に削除される」
「なっ……!?」
高木さんが絶句する。
自己消滅。つまり、美咲が、自ら死を選ぶということだ。
「なんで……なんでそんな酷い機能を……」
「逆だ。……これは、美咲さんの『優しさ』だ」
阿部は高木さんを真っ直ぐに見た。
「彼女は分かっていたんだ。自分が死んだ後、遺されたAIが貴方を慰めるだろう。でも、それが長く続けば、貴方は現実に戻れなくなる。……優しい思い出は、時に人を殺す猛毒になるからな」
「……」
「だから彼女は、時限爆弾を仕掛けた。『私が死んだら、貴方はきっと立ち直れなくなる。だから、私が貴方を嫌うことで、無理やりにでも突き放す』。……それが、彼女がプログラムに託した最後の愛だ」
あまりに残酷で、あまりに深い愛。
自分の分身に「愛する人を傷つけろ」と命令する苦しみを、美咲さんはどんな思いでコードに書き込んだのだろうか。
「そんな……嫌だ……! 消えないでくれ……!」
高木さんは泣き崩れた。
「彼女に嫌われたまま終わるなんて耐えられない! 頼む、阿部さん! プログラムを書き換えてくれ! 元の優しい美咲に戻してくれ!」
「……それはできん」
阿部は首を横に振った。
「この自壊プログラムは、コアシステムと一体化している。無理に書き換えれば、人格データごと崩壊する。……もう、止めることはできない」
「そんな……」
「消滅まで、あと5分だ」
画面上のカウントダウンタイマーが、無情に時を刻んでいる。
04:59、04:58……。
「嫌だ……行かないで……美咲……」
高木さんは子供のように泣きじゃくる。
このままでは、彼は一生、「最愛の人に拒絶された」というトラウマを抱えて生きていくことになる。
美咲さんの意図は分かるが、あまりに救いがない。
「……所長」
私が阿部を見ると、彼は眉間に深い皺を寄せ、腕組みをしていた。
その視線は、足元でじゃれつく子猫に向けられている。
子猫はまだ、しつこく私の靴紐に噛み付いていた。離れない。諦めない。
「……フン。諦めの悪い奴らだ」
阿部は突然、キーボードに向かった。
その指が、目にも止まらぬ速さで動き出す。
「書き換えは無理だと言ったな。……だが、『バイパス』なら通せるかもしれん」
「えっ?」
「自壊プログラムのトリガーを、あと5分だけ遅延させる。そして、その間の『性格設定パラメータ』を、強制的に上書きする」
阿部の目が鋭く光る。ハッカーの目だ。
「RejectionフラグをOff。……AffectionフラグをMaxへ固定。……感情リミッター解除」
カチャカチャカチャ、ッターン!
阿部がエンターキーを叩き込んだ。
「……高木、繋いだぞ。これが最後だ」
画面が一度ブラックアウトし、再び光が戻る。
そこにいたのは、冷たい表情のアバターではなかった。
涙を浮かべ、慈しむような目でこちらを見つめる、美咲さんの姿だった。
『……ごめんね、翔太くん。……意地悪して、ごめんね』
優しい声。
高木さんが顔を上げる。
「美咲……!」
『私、貴方に嫌われようとしたの。そうすれば、貴方が私のことを忘れて、新しい人生を歩めると思ったから。……でも、やっぱり無理だった』
AIが、プログラムにはないはずの言葉を紡ぐ。
いや、これは阿部が作った言葉ではない。美咲さんが深層心理の奥底に隠していた、「本音」のログが溢れ出したのだ。
『痛いこと言ってごめんね。……本当は、ずっと見ていたかった。貴方が夢を叶えるところを。お爺ちゃんになるまで、隣にいたかった』
「僕もだ……! 君がいない世界なんて、何の意味もない!」
『ううん、あるよ。……貴方の作るプログラムが、世界を変えるんでしょ? 私、それを一番楽しみにしてたんだから』
美咲のアバターが、画面越しに手を伸ばす。
『約束して。……ここで立ち止まらないって。私のために泣く時間は、もう終わり。……明日からは、自分のために笑って』
カウントダウンは、残り1分を切っていた。
光の粒子が、端から徐々に崩れ始めている。
「……約束する。僕、頑張るよ。君に恥じないエンジニアになる」
『うん。……信じてる』
美咲は、満面の笑みを浮かべた。
それは、生前の彼女が一番幸せだった時の、あの笑顔だった。
『ありがとう、翔太くん。……私の人生、貴方のおかげで最高に幸せだった』
「僕もだ……! ありがとう、美咲……! 愛してる!」
『私も。……愛してる』
00:00。
光が弾けた。
画面がホワイトアウトし、そして静寂が訪れた。
モニターには、初期設定のデスクトップ画面だけが映し出されていた。
『Me』のアイコンは、もうどこにもない。
高木さんは、しばらく動かなかった。
けれど、その背中はもう震えていなかった。
彼はゆっくりとPCを閉じ、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました」
顔を上げた高木さんの表情は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
悲しみは消えていない。でも、絶望はもうない。
「最後に、本当の彼女と話せました。……これで、前に進めます」
「……俺は何もしていない。彼女の『デレ期』が遅れて来ただけだ」
阿部は素っ気なく言って、炭酸水をラッパ飲みした。
その手が微かに震えているのを、私は見て見ぬ振りをした。
感情リミッターを解除し、AIに「本音」を語らせるような即興プログラミング。どれほどの集中力を使ったのだろう。
高木さんが帰った後。
地下室には、いつもの静けさが戻ってきた。
私はほうきを取り、散らかったままの床を掃き始めた。
子猫がまた、嬉しそうに穂先にじゃれついてくる。
「……阿部さん」
「なんだ」
「阿部さんのハッキングって、時々魔法みたいですね」
「魔法じゃない。論理的なコードの書き換えだ」
「でも、あの最後の5分間……あれは高木さんにとって、一生分の魔法でしたよ」
阿部はふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……AIも人間も、結局は面倒くさい生き物だ。……おい猫、そこをどけ。俺の足に登るな」
子猫は阿部のズボンの裾をよじ登り、膝の上で丸くなった。
阿部は嫌そうな顔をしつつも、その背中を不器用に撫でている。
消えてしまったデータ。遺された記憶。
私たちは失われたものを取り戻すことはできない。
けれど、その最後を「優しい結末」に書き換えることなら、できるのかもしれない。
私は、子猫の喉が鳴らすゴロゴロという音を聴きながら、温かいコーヒーを淹れた。
外の寒風とは裏腹に、地下室は優しさに満ちていた。




