第17話 消された小説家の未完原稿(後編)
神保町の地下、『デジタル・アーカイブス社』。
深夜の静寂を、電子機器の駆動音が支配している。
デスクの上には、一台の黒いICレコーダーが置かれていた。
それは、葬儀屋の岡田アキさんの情報に基づき、編集者・勝田から奪還したものだ。
「……データがない」
ヘッドホンをした小川みずほが、眉を寄せて呟いた。
「ファイルシステムが破損してる。あの編集者、盗んだくせに中身を消そうとして、慌ててフォーマットしたっぽいね。扱いが雑すぎる」
「復元できるか?」
所長の阿部邦彦が、腕を組んで尋ねる。
「やってみる。……私の耳をナメないでよ」
みずほはPCに向かい、波形編集ソフトを立ち上げた。
残留磁気の痕跡から、消された音声データをパズルのように繋ぎ合わせていく。
気の遠くなるような作業だ。
私は祈るような気持ちで、その背中を見守っていた。
その時だった。
ふわりと、異質な臭いが漂ってきたのは。
「……ん?」
阿部が鼻をひくつかせた。
スパイスの香りでも、古書の匂いでもない。
もっと原始的で、強烈なアンモニア臭。
「ミャァ……ミャァ……」
部屋の隅の段ボール箱から、悲痛な鳴き声が聞こえる。
阿部が弾かれたように立ち上がり、箱の中を覗き込んだ。
「……なんてことだ」
「ど、どうしたんですか所長!?」
「大惨事だ。バイオハザード発生」
阿部が両手で抱き上げたのは、茶色と白の子猫――ではなく、茶色一色に染まった泥人形のような物体だった。
どうやら、お腹を壊してしまったらしい。自分の排泄物の上で転げ回り、全身が目も当てられない状態になっている。
「あちゃー……。子猫って、環境変わるとお腹下しやすいもんね」
みずほが画面から目を離さずに言った。
「石川、ぬるま湯を用意しろ! 38度だ! 洗面器とペット用シャンプーもだ!」
「は、はい!」
阿部は汚れた子猫を慎重に抱え、給湯室のシンクへ走った。
その顔は、ウイルス解析をする時よりも真剣だ。
私は急いで温度調整したお湯を張る。
「いいか、猫は水を嫌がる。顔には絶対にかけるな。首から下だけを、素早く、かつ優しく洗うんだ」
阿部は袖をまくり上げ、子猫をお湯に浸した。
「ミャー! ミャー!」と暴れる子猫を、大きな手でガッチリと、しかし優しくホールドする。
シャンプーを泡立て、汚れた毛並みをマッサージするように洗っていく。
「よしよし、気持ち悪いな。すぐ綺麗にしてやるからな」
阿部の指先が、小さな体の汚れを落としていく。
強面の大男が、掌サイズの生き物に話しかけながら身体を洗っている光景は、あまりにシュールで、そして愛らしかった。
泡にまみれた子猫は、情けない顔で「フニャ……」と鳴いている。
「……よし、上がりだ」
阿部は手早くタオルで包み込み、水分を拭き取った。
そして、弱風に設定したドライヤーを当てる。
濡れて貧相になっていた子猫が、みるみるうちにフワフワの毛玉に戻っていく。
石鹸のいい匂いがした。
「……ふん。悪くない手触りだ」
阿部は満足げに子猫の顎の下を撫でた。子猫は気持ちよさそうに目を細め、阿部の指を甘噛みしている。
「……できた」
その時、みずほの声が響いた。
子猫の世話をしていた私たちが振り返る。
「復元完了。……でも、変だよ」
「何がだ?」
「聞いてみて」
みずほが再生ボタンを押した。
スピーカーから流れてきたのは、予想していた「作家の声」ではなかった。
『カチャ、カチャ、ッターン……カチャカチャカチャ……』
ただひたすらに続く、乾いた音。
キーボードを叩く音だ。
「……打鍵音?」
「うん。音声メモじゃない。財前先生、自分の執筆中のタイピング音を、延々と録音してたみたい」
「……なるほどな」
阿部はニヤリと笑い、子猫を私に預けた。
そして、ハッカーの顔に戻り、デスクに座った。
「これは『音響キーロガー』だ」
「キーロガー?」
「キーボードの打鍵音には、キーごとに微妙な周波数の違いがある。特にメカニカルキーボードなら顕著だ。エンターキーの強い音、スペースキーの軽い音、指の移動距離による打鍵間隔のズレ……。それらを解析すれば、叩かれた文字を特定できる」
阿部はみずほに向かって言った。
「小川、お前の絶対音感と、俺の解析AIを同期させる。この音を『文字』に変換するぞ」
「りょーかい。……ここ、エンターキーの連打。改行だね」
「パターン認識完了。マッピング開始」
二人の天才による、異次元の共同作業が始まった。
モニター上に、次々と文字が浮かび上がっていく。
失われたはずの、小説家の最後の言葉たち。
数十分後。
復元されたテキストデータが完成した。
しかし、そこに書かれていたのは、ミステリー小説ではなかった。
『盗まれた手紙は、暖炉の上に。』
『黄金虫は左の眼窩を通る。』
『赤死病の仮面は、十二時の鐘と共に落ちる。』
意味不明な短文の羅列。
私は首を傾げた。
「……なんですか、これ? 詩?」
「引用だな」
阿部が眼鏡の位置を直した。
「だが、脈絡がない。……ただのメモ書きか? それとも認知症の兆候か?」
「違うわ」
凛とした声が、頭上から降ってきた。
いつの間にか、階段の上に大家の後藤かほりさんが立っていた。
手には分厚い洋書を抱えている。
「騒がしいと思ったら、また面白そうなことしてるじゃない」
「大家……盗み聞きか?」
「人聞きが悪いわね。上の店まで猫の悲鳴が聞こえてきたから、虐待でもしてるのかと確認に来たのよ。そうしたら、文学の香りがしただけ」
かほりさんは優雅に階段を降り、モニターを覗き込んだ。
「……やっぱりね。これはエドガー・アラン・ポーよ」
「ポー?」
「『盗まれた手紙』『黄金虫』『赤死病の仮面』。全てポーの代表作のタイトルね。……財前静夫は、古典ミステリーの信奉者だったもの」
「じゃあ、これは読書メモですか?」
「いいえ。これは『ダイイング・メッセージ』よ」
かほりさんは断言した。
「『盗まれた手紙』のトリックを知ってる? 警察が血眼になって探した手紙は、実は犯人の部屋の、一番目立つ場所に無造作に置かれていたの。『木を隠すなら森の中』の原型ね」
「……つまり?」
「財前先生は、消された原稿のバックアップを、誰もがアクセスできる、けれど誰も気づかない場所に隠したってことよ」
かほりさんは次の行を指差した。
『黄金虫は左の眼窩を通る』
「『黄金虫』は暗号解読の古典よ。左の眼窩……髑髏の左目。そこを通した糸の先に宝がある。……阿部くん、財前先生の公式サイトを開いてみて」
阿部が言われた通りにサイトを開く。
トップページには、最新刊『歪んだ時計塔』の表紙画像が大きく表示されていた。
不気味な時計塔のイラスト。文字盤の上には、装飾としてドクロが描かれている。
「……このドクロの左目だ」
阿部がマウスカーソルをドクロの左目に合わせる。
クリックする。
何も起きない。
「……リンクはないぞ」
「違うわ。座標よ」
かほりさんが即答する。
「『黄金虫』の宝の在処は、特定の木からの距離と方位で示される。……画像のピクセル座標を見て」
「……左目の中心座標は、X:333, Y:666か」
「その数字を、サイトのURLの末尾に入力してみて」
阿部がURLを書き換える。
エンターキーを押す。
画面が切り替わった。
現れたのは、真っ黒な背景に、パスワード入力欄だけのシンプルなページ。
隠しサーバーへの入り口だ。
「……開いた」
「パスワードは分かるわね? 『赤死病の仮面』よ」
「十二時の鐘か……。『1200』か?」
「単純すぎるわ。ポーが『赤死病』を発表した年……1842年よ」
阿部が『1842』と入力する。
ロックが解除された。
画面に、一つのPDFファイルが表示される。
タイトルは『告発』。
阿部がファイルを開く。
そこに書かれていたのは、小説ではなかった。
生々しい、実録手記だった。
『私は、担当編集者・勝田に脅されている。
彼は私の印税を長年にわたり横領し、架空の経費を計上して裏金をプールしていた。
それに気づいた私を、彼は「過去のスキャンダルを捏造してばら撒く」と脅迫した。
私は書けなくなった。スランプではない。書く気力を奪われたのだ。
だが、私は作家だ。最後はペンで戦う。
ここに、勝田の横領の証拠と、脅迫の録音データを記す』
PDFには、緻密な帳簿のコピーと、勝田の恫喝音声へのリンクが貼られていた。
これは、ミステリー小説に見せかけた、命がけの告発文だったのだ。
「……最低ね」
いつの間にか事務所に来ていた弁護士の藤田涼子が、低い声で言った。
彼女はハイブランドのコートを翻し、冷徹な目で画面を見つめている。
「著作権者を食い物にするなんて、万死に値するわ。……阿部、このデータ、私が預かるわよ」
「どうする気だ?」
「決まってるでしょ。出版社に乗り込んで、役員会議でこれをプロジェクターに映してやるのよ。勝田の首を物理的にも社会的にも飛ばして、美和子さんへの損害賠償と未払い印税を、骨の髄まで搾り取ってやるわ」
涼子は楽しそうに、しかし残酷に笑った。
法廷の魔女の本領発揮だ。
「……勝田は、財前先生がPCにデータを残していると思い込み、必死で消去した。だが、先生はあえてPCを囮にし、本当の原稿をネットの海という『一番目立つ場所』に隠していたんだな」
阿部は感心したように呟いた。
「まさに『盗まれた手紙』ね。……作家としての矜持、見せてもらったわ」
かほりさんが本を閉じる。
「よし、解決だ」
阿部は伸びをした。
そして、私の膝の上ですやすやと眠っている、ふわふわになった子猫を見た。
「……この猫も綺麗になったし、財前先生の名誉も綺麗になる。今日はいい日だ」
「名前、まだ決めないの? 『ポー』でいいんじゃない?」
かほりさんが提案する。
「却下だ。縁起が悪い」
「じゃあ『チビ』でいいじゃん」
みずほが適当に言う。
「……まあ、今は『猫』でいい」
阿部はそう言って、子猫の頭を指先でつついた。
翌日。
出版社は大騒ぎになったらしい。
涼子さんの手腕により、勝田は業務上横領と恐喝の容疑で逮捕された。
そして、隠されていた『告発』の文章は、財前美和子さんの意向で、「最後のノンフィクション・ミステリー」として出版されることになった。
それは、財前静夫という作家が、最期まで「真実」を書こうとした証だった。
事務所の地下室。
今日も子猫の「ミャー」という声と、キーボードを叩く音が響いている。
音と、言葉と、記憶。
それらを繋ぎ止めるのが、私たちの仕事だ。




