第六話 長い一日の終わり
ソフィアが鳴の部屋を後にしてからしばらく時間が経った。もうそろそろ夕食の時間だ。ソフィアは鳴を呼びに行くため、廊下を歩いている。
「鳴の口にこの国の料理は口に合うかしら?」
鳴の食事への嗜好の心配をしながらソフィアは歩くが、まあ心配はないだろう。この王宮に所属している料理人はグランヴァール王国から選りすぐられた超一流の料理人ばかりだ。料理ははっきり言って天下一品だ。
「鳴、美味しすぎてどんな顔するんだろう?」
ソフィアは鳴の、美味しいものを食べて喜ぶ姿を思い浮かべて楽しんでいた。そうこうしているうちに、鳴の部屋の扉の前に立つ。ソフィアは軽くノックする。
「鳴、夕食の時間ですよ」
ソフィアが声をかけても返事はない。ソフィアが耳をすませても、そこには人が活動している様子はなかった。まさか鳴は、やはりお世話になるわけにはいかないと思い直して、姿を消してしまったのではないだろうか。ソフィアの脳裏に一抹の不安がよぎる。
「鳴、いるのですか? 開けますよ?」
ソフィアが恐る恐る扉を開けると、そこには鳴の姿があった。ソフィアは鳴がいることに安堵する。ただ、ソフィアが部屋を去った時とは違っていることが一つあった。
鳴は爆睡していた。ベッドで辞書を開きながら。ソフィアはそんな鳴のがさつな姿にため息をつきながらも、鳴は疲れていたのだと鳴を気遣う。
鳴は布団も着ずに寝ていた。
「そんな格好で寝ていたら、風邪をひきますよ?」
ソフィアは鳴に布団をかけてやろうと思ってベッドへと近づく。鳴の近くまで来て、布団をかけてやろうとし、鳴の顔を見ると、鳴は辞書を顔にかぶりながら眠っていた。もう、仕方ないですね。そう思いながら、布団をかけようとしたが、ソフィアは思わず鳴が開いたまま眠っていた本の題名を二度見する。
「こ、これは、私が念のために持って来た、ほぼ全ての単語が網羅されている辞書じゃ……」
ソフィアはこれからも鳴が勉強を続けることを見越して、何千ページにも及ぶ大辞書を念のために持って来ていたのだった。かと言って、使うのはまだまだ先だと思っていた矢先、鳴は早くも使用していた。驚きのあまりにソフィアは布団を持っていた手の力を図らずも抜いてしまう。その布団が鳴の腕にふっと当たった。
その衝撃で、鳴は誰かの存在に気づいたようだ。目を覚まし、眠い目をこすりながら顔にかかっている辞書に手をかける。
「うーん、いま何時? って、ソフィアじゃん。どうしたの? もしかして、もう夕食の時間? 俺もう腹減りすぎて、死にそうなんだよ。助かったぜ」
鳴は起き抜けのいかにも間抜けな発言をする。こんな様子の人がこの大辞書を使うなんて考えられない。ソフィアは恐る恐る鳴に質問する。
「こ、この辞書をどうして使っているのですか……?」
「どうもこうも、あっちにある単語帳を全部覚えたからに決まってんじゃん。そんな当たり前の質問しないでくれよ」
「でもまだ鳴はパロラ語を学び始めて、数時間しか経ってませんが……」
おっと、そういえば今の俺にはありえない学習能力があるんだった。鳴のこの状況は他者から見ると、はっきり言って異常だ。その違和感はもはや埋められない。ここは、自分でもよくわからないことにしよう。
「俺もよくわかんないんだけど、なんかやってたら熱が入っちゃってさ。どんどん頭に入って来て、気づいたら覚えてた、みたいな。まあ一通り読んだだけだから覚えているかどうかわかんないけどさ!」
「そんな……。その辞書はパロラ語を母語とする人間でも、知らない単語が書かれているって言うのに……」
「へ、そうなの? あんまりそういうこと意識してなかったな。とにかく覚えないと、って思ってたから」
ソフィアの表情が固まる。いかにも鳴の言っていることが何一つ理解できませんという感じだった。そんなソフィアは、鳴が本当に覚えているか、試したくなった。
「じゃ、じゃあ本当に覚えられているかどうかテストします!」
ソフィアは鳴から辞書を取り上げると、適当にページを開く。いきなりのテストに鳴は焦る。俺の覚えきれていない単語はやめてくれよ? 覚えたって豪語していきなり失敗したら恥ずかしいからな。
しかし、鳴の思いは杞憂に終わった。鳴はソフィアに無作為に出された単語の意味を全て正答してみせた。これにはソフィアも驚きのあまり空いた口が塞がらない。
「す、すごい……。全問正解です。一体どんな頭を持っているのですか?」
「さあ……。俺にも詳しいことは」
鳴は何となく知らないふりをする。この事実がバレてしまってはまずいからな。
「おい、ソフィア。遅いぞ。みんな食事の準備をしているのに、食べられなくて困っているぞ」
鳴とソフィアはしばらく話していたようだ。夕食が食べられなくてしびれを切らしたクラウドが鳴の部屋の扉の前に立っていた。クラウドは扉の縁にもたれかかりながら、うんざりした表情をしている。そんなクラウドにソフィアは今起こった驚くべき出来事を語った。
「クラウドお兄様! 鳴ったらすごいんですよ! つい数時間前からパロラ語を勉強し始めただけなのに、もうこの大辞書を全部覚えてしまったんです! 鳴の才能はすごいんです!」
「何だと?」
クラウドは怪訝な表情を浮かべながら、ソフィアの言葉に半信半疑な様子だ。
ソフィアから事の成り行きを詳しく聞いた。鳴は集中モードに入るとそれにしか集中できなくなること。集中するとそれがすぐにできるようになること。試しにテストしてみると全問正答したこと。クラウドも信じることができなかったが、ソフィアがあまりに一生懸命話すので、鳴の才能を認めた。
「す、すごいな……」
クラウドは驚きすぎて、月並みな表現しかできない。鳴は二人に賞賛されて、何か恥ずかしそうにしている。
「と、とにかく続きは夕食の場で話し合おう。みんな待ってくれているからな」
クラウドに導かれて、鳴とソフィアは夕食部屋へ向かった。とにかく二人には、鳴は大きなインパクトを与えることができた。印象は悪くなさそうだ。
「それでお父様! 鳴ったらすごいんですよ! ね、お兄様!」
ソフィアは食事が始まってから国王にずっとさっきの話をしている。食事は国王とクラウド、ソフィアと鳴で食べている。国王は微笑みながら娘の話に耳を傾けている。かたやクラウドは先ほどから同じ話しかしないソフィアにうんざりしている。
しかしすごいなこの料理。かなり豪華な料理だ。ステーキみたいな肉料理、いや、ローストビーフと言った方が適切か。何やら上品なスープもある。まるで食卓は高級フランス料理店に行ったかのようであった。
「はっはっは。そうか、鳴はすごいんだな。ところで鳴、料理の味はどうかな? 料理人に最高の料理を出すように指示したのだが」
「いや、美味しすぎます。こんな美味いもの初めて食べました」
こんなうまい料理は本当に初めてなのだ。鳴の実家はあまり裕福ではなかったので、こんなに高級そうな料理を食べる機会などほぼなかった。
「そうか、口にあって良かったよ」
国王が鳴に話しかけている時も、ソフィアはずっと鳴を褒め称えるような発言をしていた。
「ソフィア、さっきから鳴の話ばっかりじゃないか。同じ話ばかりされても面白くないんだけど」
「お、お兄様! それでも鳴はすごいじゃないですか! それとも、お兄様は鳴の能力に嫉妬しているんじゃ?」
「はいはい、そういう鳴の話ばかりするお前は鳴のことが大好きなんだな」
「っ……! お兄様、からかわないでください!」
ソフィアは顔を赤らめながらクラウドに反論する。鳴も若干恥ずかしがりながらその場で気まずそうにしている。そこに国王が口を挟む。
「鳴、このグランヴァール王国に仕えてはくれぬか? ソフィアの話を聞いていれば、お主の有能さは身にしみてわかる。その能力、グランヴァール王国に活かしてはくれぬか?」
「お言葉は本当に嬉しいんですが、まだ展望は少しわからなくて……。はっきりとお答えできなくて申し訳ありません」
「いや、いいのだ。それほどにしっかりと考えてくれているということだ。ゆっくりと考えて答えを出してくれるといい」
国王と鳴のシリアスな話の間にソフィアがまた割り込んでくる。
「鳴、もう明日から私と治癒魔術を練習しましょう! 早く鳴の成長した姿が見たいです! アレクセイにも明日から剣術の稽古を鳴につけるように言います! お兄様も堅いことを言わずに、鳴に攻撃魔術を教えてあげてください!」
ソフィアが教育ママ化した。ソフィアは鳴の将来に楽観的なようだ。しかし、クラウドは依然として毅然とした表情を崩さない。
「それはできんな」
「どうしてですか!? お兄様には鳴の才能はわからないんですか!?」
「わかっているからこそだ」
「へ? それは一体どういう意味ですか?」
ソフィアは意味がわからないという表情でいる。鳴の能力を評価しているからこそ、自分は攻撃魔術は教えないというのは、逆説的だ。
「確かに鳴が剣術も魔術も極めたら、それは心強いことだ。このグランヴァール王国にとってなくてはならない存在になるだろう。しかし、そんな強力な鳴が敵に回ったらどうするんだ? グランヴァール王国の脅威となりうるだろう!? まだ鳴がグランヴァール王国に対してはっきりと協力の意思を示していない今、まだ鳴に攻撃魔術を教えることはできない。そもそも、まだ鳴が攻撃魔術を身に付けるに値するかもわかっていない」
クラウドの至極説得力のある説明にソフィアは納得せざるを得ない。クラウドはかなり聡明な人物のようだ。話す内容や、その考えを聞いただけで鳴にもクラウドの賢さがわかる。
「そうですか……。それでは私とアレクセイで明日から鳴にしっかり訓練しますからね!」
そんなこんなで、明日からアレクセイによる剣術の訓練と、ソフィアによる治癒魔術の訓練が始まろうとしていた。正直鳴は、うまくできるかどうか不安に思うのではなく、新たなことが起こることにワクワクするしかなかった。




