第五話 実力発揮
「あ〜、疲れた」
そう言って鳴は用意された部屋のベッドに大の字になって寝転ぶ。用意された部屋にソフィアとアレクセイ、それとお連れのメイドさんに連れられてきた。どうやらこの部屋は特別な客人をもてなす最上級の部屋のようだ。まるで最高級ホテルのスイートルームのようであった。まあ行ったことはないのだが。
まず、床だ。床は全て、地中海あたりが原産の真っ白な大理石によって埋め尽くされている。大富豪の邸宅の床のようだ。
中央には大きな机があり、その机の足や周縁部は宝石で彩られている。このような机ではとても勉強はできない。
ベッドは王族が使っているような、上に屋根のようなものがついているものだった。一人で使うには広すぎる。
他にもタンスや棚、ガラスや、鏡などのあらゆる調度品が置かれているが、どれも『世界の名美術』などといった特集本に収録されていそうな豪華なものであった。
うん、これではとても庶民の俺は落ち着かない。あとで国王陛下に奏上して部屋を普通のものに変えてもらおう。
「夕食の時間になったら、また呼びにきますね」
別れ際にソフィアに言われた言葉が脳内で反芻する。まだ外は明るい。夕食まではたっぷり時間がある。謁見の後に少し茶菓子をいただいたから、お腹もそこまで減っていない。
鳴はそう思って天井を見上げながら思索にふける。
さて、この世界にやってきてから数時間経ったわけだが、今の所大した問題はない。グランヴァール王国の保護を受けた上に、学問、魔術、剣術も教えてくれる。
しかしいずれ問題は出てくるだろう。というのも、ソフィアやアレクセイ、クラウドとこれからどんどん親交が深まるだろうからだ。そうなれば、互いのことをもっと知ろうという意識が双方に出てくる。
俺が彼らのことを知る分にはいい。俺がそれを知ったとしてもその事実はこの世界の枠組みに収まるからな。
しかし俺のこととなると、あまり考えずにものを言ってしまえば、この世界の枠組みや価値観にそぐわない発言をしてしまうかもしれない。そうなってしまえば、この世界で生きることがより難しくなってしまうだろう。それだけは何としても避けなければならない。
今のうちにこの世界における俺のこれまでの経歴をある程度、俺の前世に即して創作しておこう。まず俺は19歳だ。これには問題がないだろう。どの世界においても年齢は等しくとるはずだ。
次に出身地だ。これも口が裂けても異世界なんていうことはできない。最悪の場合、迫害を受けて処刑されることさえありえる。とにかく、これに関しては先ほどから言っているように、遠く離れた、歩いてなんて行くことができない場所ということでいいだろう。いや、それでは俺が王都ヴェルタス郊外の草原でソフィアと出会ったことと辻褄が合わなくなる。
やはり面倒だから、今のうちは記憶喪失ということにしておこう。この設定で行って場にそぐうような日本での出来事があったなら、適時記憶を思い出したということにすればいい。
まあ今のところはこんなものでいいか。鳴がある程度思考を終えた時、部屋の扉がノックされる。もう飯の時間か? 少し早すぎる気もするがまあいいか。鳴がそう思って扉まで歩いて扉を開く。
「いかがお過ごしですか?」
そこにはソフィアが立っていた。
「ソフィアか。どうしたの? もう夕食の時間?」
「いいえ、夕食はもう少ししてからです。ただ、鳴ともっとお話しがしたいなって思って。迷惑ですか?」
「そんなわけないよ。入って。って、俺の部屋でもないから俺がソフィアに入室許可を出すのも変な話だけどね」
「ふふふっ。鳴は細いことを考えすぎです。それではお邪魔します」
ソフィアが部屋に入り、真ん中にあるテーブルにつく。鳴はそれに対応してソフィアの前に座った。
「考えたら私、鳴のことを何も知らないなって思って。もっと鳴のことを知りたくなっちゃって、いても立ってもいられなくなりました」
「そういえばお互いの内面については何も知らないな。自己紹介は軽かったし。ちょうどいいからゆっくり話そうか」
あっぶねぇ。タイムリーすぎんだろ。こういう時のために何を話すかしっかり考えておいてよかったぜ。鳴は安堵の表情を浮かべる。
「鳴はとても遠いところから来たって言っていたけど、それはどこなのかしら? 多分、都会ではないですよね。あんなところに出てくる人は、少なくとも王都にはいませんから」
「おいおい、ご挨拶だなあ。確かに田舎から来た、気がする」
「気がする?」
「うん、実はソフィアと出会う前まではあの草原で寝ていたんだ。それで起きた時には自分がなんであそこにいるのかが分からなくてさ。簡単にいうと記憶喪失っていうのかな。かろうじて名前と年齢は覚えていたけど、どこから来たとか、何をして暮らしていたとかは、思い出せなくてさ」
突然のカミングアウトにソフィアの表情が曇る。記憶喪失なんて、なんてかわいそうなのかしら、と言わんばかりだ。ソフィアは実に優しい女性だ。
「そうなのですか……。なんと申し上げていいのかわかりません」
「いいよ、気遣わなくて」
あまりにも鳴のことが不憫に思われたのだろうか、ソフィアは必死に話題を探そうとする。一生懸命なソフィアの方こそ、鳴には不憫に思われたので、鳴が話題を提供してやる。
「ところでソフィアはどうしてあんなところにいたの? 王族が普通あんなところにいないよね?」
「あの時私は、あの付近にある村々の定例視察に参っておりまして。ちゃんと平穏に暮らせているか確かめるためです」
「それを王女のソフィアがやっているの? 他の人に任せればいいのに」
「そういうわけにも参りません。父上は国の統治でご多忙の身ですし、兄上は王都騎士団長ですから、王都の治安維持という重要な役割があります。他の役人に任せればいいとおっしゃられるかもしれませんが、民の暮らしぶりは、やはり統治している王族が見なければなりません。私は大した職務もありません。出来る者がやればいいのです」
なんという出来た女性なのか。鳴は思わず感心してしまう。
「ところで鳴は今幾つですか?」
「19歳だけど」
「私も19です! 私たちってなんだかいろんなところが同じですね!」
「同じじゃないさ。俺はソフィアみたいに国のために行動なんてできないし、いつも自分のためばっかりだ。これまでいっぱい失敗してきたし、俺なんてダメ人間だよ」
鳴は自嘲気味にソフィアを褒め称えて、自分を蔑む。まあ仕方のないことだろう。合格すると自信満々で挑んだ受験に失敗しているのだ。自嘲するのも無理はない。しかしソフィアは鳴の卑屈な態度に露骨に嫌な顔をする。ソフィアは鳴の手をとって鳴を見つめる。
「鳴、そんなことは言わないでください。私はあなたがいかに優れた人かを、出会って間もないですが、しっかりと心得ているつもりです。少なくともダメ人間には、あんな危険が伴う局面で、自分の命を賭けてまで、面識もない女を助けることなんてできません。大丈夫、鳴は十分強い人です」
鳴はソフィアの視線に少し顔を赤らめる。そのまま鳴は視線を若干そらす。
「あ、あんがと……」
ソフィアも自分の行動の恥ずかしさに気づいたのだろうか、慌てて手を離して鳴から視線を外す。
「こっ、こちらこそ、突然手を握ったりして申し訳ありません」
二人の間に気まずい沈黙が漂う。二人とも顔を赤くして目を合わせないようにしている。そのまましばらく時間が経った。ほんの数秒のはずなのに、二人にはとても長く感じられる。あまりの気まずさに耐えきれなくなった鳴はなんとか話題を探そうとする。
「と、ところでさ、この国の言葉の勉強したいんだけど、図書室とかこの王宮にあるかな? もしよかったら案内してほしんだけど!」
「そ、そうでしたわね! 私、部屋にあった幼い頃に使っていた単語帳と絵本をいくつか持って参りましたの! これを先に言うべきでしたわね!」
ソフィアはそのまま懐から本を取り出して机の上に置く。表紙の文字を読んでみてもやはり鳴にはわからない。字体はなんとなくアルファベットに似ている気がするのだが、まさか似た文字がアルファベットとまったく同じ発音ではないだろう。
鳴は一番基礎的と思われる単語帳を手にとって、開いてみる。まずは文字の書き方が載っていた。しかし鳴にはさっぱりわからない。
「この世界の言葉は全て共通でパロラ語が用いられています。多少少数言語もありますが。パロラ語は26の表音文字から形成されていて、それぞれの組み合わせで単語を形成します。それを用いることで文を作ります」
この世界ではパロラ語が使われているようだが、まったく英語とほとんど同じじゃないか。これなら学習はなんとかなるだろう。鳴は早速これからの学習プランを立てた。
「今鳴が持っている単語帳には、パロラ語の基礎単語が網羅されています。日常会話でも使う物がほとんどなので、まずはそれを全て覚えましょうね。それが全部覚えられたら、この絵本は読めると思いますよ」
「了解。そしたら勉強したいから、ちょっと出ててくんない?」
「へ?」
「だから、これから勉強するから。集中できないから一人にしてくれって言ったんだけど」
ソフィアに向けられる鳴の表情はいつもの温和な表情ではない。鳴は完全に集中モードに入った。鳴が一度集中すると、鳴の意識は集中していることにしか向けられなくなる。したがって、今、鳴はソフィアになんの注意も払っていない。鳴の鋭い眼光にソフィアは圧倒される。
「は、はい……。それでは食事の時間になったらまた呼びにきますので」
「うん」
鳴の返事はあまりにもそっけなかった。ソフィアは少し気を落とす。しかし反面には嬉しさもあった。鳴の新しい一面を知ることができた。これまで誰かと表面的な付き合いしかしてこなかったソフィアにとっては、人の素顔を知ることはとても嬉しいことであった。
鳴はもう完全に自分の世界に没入している。単語帳から目を離さない。ソフィアは鳴を邪魔しないように部屋を出て行った。
鳴が勉強を始めてしばらく時間が経った。鳴は早くも単語帳の一つを終わらせようとしている。しかし、まだ1周目だ。終わらせることと習得することは必ずしも同値ではない。かの有名な禅僧、道元も言ったように『することの難きにあらず。能くすることの難きなり』と言う言葉にこの事実は現れている。
「ふう……。ようやく1周目が終わった……」
鳴はとても疲れた様子で単語帳の最後のページを閉じた。ああ、また覚え直す作業をしなければ。そんな憂鬱な気分に浸りながら、今度はどの程度身についているかを確かめるため、ソフィアに言われた絵本を読んでみる。
あまり期待せずに絵本を開くと、鳴は驚嘆した。全て意味がわかるのだ。一度単語帳を眺めただけで、あの単語帳を全て習得できたと言うのか? 鳴はそんな疑念を抱きながら、絵本のページをめくり続けていると、気づいた時にはその絵本を読み終えていた。しかも全て意味を理解して、だ。
さすがの鳴にも信じられなかった。たまたまこの絵本に出てきた単語が、たまたま自分が覚えていたものだったのかもしれない。疑いは募るばかりで、他の絵本を手に取ってみる。予想に反して、それも全て読めた。なんと言うことだ。
「マジかよ……。あの時もらった力、本当だったんだ……」
鳴はようやく自分の力を認めた。しばらく鳴は放心状態であったが、事実を受け入れたのちにやることは決まっている。ソフィアから借りた残りの単語帳も全て終わらせることへと鳴の意識は傾いた。鳴は残り4冊の単語帳に手を伸ばす。その表情には、不敵な笑みがあふれていた。




