第三十四話 脅威
漆黒の闇に包まれる市街地を一人疾走する男がいた。もうずいぶん長い間走り続けている。あれからもう日は暮れてしまった。額からは汗の雫が滴り落ちてくる。鳴は走り続けていた。微かな感覚を頼りに敵の位置を特定している。
「俺はここだぞ! さっさと出てこい!」
鳴は不意に立ち止まって大声で呼びかける。ふと気がつくと、鳴は町の広場に出ていた。真ん中には噴水があって、環状に建物に囲まれた広場だ。このような広場は開かれているために、敵の姿を捕捉するのが容易だ。しかしその一方で、敵に見つかりやすく、1対多数では圧倒的不利に陥ってしまう。鳴は賭けに出た。このまま敵の姿を掴めないくらいなら、いっそ自分から見つかりやすい位置に行って、そこで敵の攻撃を待つというものだ。
広場に一人立ち尽くす鳴。目を閉じて、心の目で敵の気配を探る。聴覚を研ぎ澄まし、わずかな気流の変化さえも鳴の皮膚は捉えていた。それと同時に魔力の探知も始める。カルデブルグに至るまでの尾行者が刺客の正体かもしれない。
しばらく時間が経った。10分か15分と言ったところだろうか。その間、全く敵方に動きはなかった。それでも鳴は微動だにしない。ただただ全感覚を研ぎ澄ましている。あと1分経ったら場所を変えよう。鳴がそう心で思った次の瞬間、微かな気流の変化が鳴の皮膚を捉える。鳴はそれを逃さず、気づけばすでに剣を抜いていた。気流の変化が感じられる方向に向かって剣を振るう。その間鳴は目を開けてはいなかった。剣が何かを切ったような感覚がした。そっと目を開けると、そこには一本の矢が真っ二つになって割れていた。すると突然、屋根の上から手を叩く音が聞こえる。ようやく敵のお出ましか。鳴がそう思って音の聞こえる建物の屋上に目を向けると、弓を持った一人の若い男、いや少年といったほうが正確だろうか。その男が手を叩いていた。
「いやあ、お見事。まさか目を閉じたまま矢を受け止めるだけでなく、割ってしまうなんて。あんた只者じゃないね」
「お前は何者だ?」
敵の賛辞に耳を傾けることもなく、鳴は淡々と事務的な問いかけをする。こんな鳴の態度にこの男は首を傾げる。
「つれないなあ。せっかく僕が褒めてあげているのに」
「貴様からの賛辞など求めていない」
その少年の表情から笑みが消えた。無表情になり、冷酷ささえ浮かぶ。
「お前、気に入らないな。おい! もう面白くないからさっさとやっちゃってよ!」
少年が突如大きな声をあげたと思うと、今度は地上から脅威が襲いかかって来た。疾風のように漆黒の中から一つの影が蠢く。鳴は目でそれを捉えることはできなかったが、感覚でその存在に気づく。間違いなくこの影は俺を攻撃してくる。そう思った鳴は勘で剣を構える。思った通り、そこに敵の一撃が見舞われた。その一撃は短剣から放たれたものであった。鍔競り合いになって剣と剣とのせめぎ合いが火花を散らす。鳴はふとその相手の顔を見ると、驚いたことに、相手は女性であった。
「お、女?」
「なんだよ、女じゃ悪いってのか?」
その女は機嫌を悪くしたようにして、鍔競り合いを制して、短剣による連撃を放ってくる。しかし鳴も負けてはいない。得意の剣術で、巧みにそれらを受け止める。
「へえ、あんたなかなかやるじゃないか。私、強い男は嫌いじゃないよ?」
「俺はお前みたいな暴れ女は嫌いでね!」
「ほざけ!」
女は一度態勢を立て直そうとして、短剣を鳴の剣に押し付けた勢いを利用して後ろへと退く。
「しかし驚いたね。私が敵の実力の目算を誤っちまうなんてさ。こんなこと、今まで裏稼業に徹して来たけど、これが初めてだよ」
「俺の力を目算しただと? そんなことどうやって……」
少し思索を巡らせただけで、鳴はその女が一体何を意味しているのかを即座に理解した。
「そうか、お前たちがカルデブルグに至る俺たちの尾行者だったのか」
「さすが、察しが早い。そういうところもわからなかったんだよ」
「一体お前たちの狙いは……」
鳴が言葉を続けようとしたところで鳴は自身の右腕の上腕のあたりに鋭い痛みが走るのを感じた。恐る恐る見てみると、そこには矢が突き刺さっていた。
「ぐっ!」
この世界に来て初めての怪我だ。矢が突き刺さるとこんなにも痛いのか。鳴は未知の痛みを感じながらひしひしと感じ入った。鳴は思わずしゃがみこんでしまう。
「楽しそうに二人で話しないでよ。僕のことも忘れてもらっちゃあ困るっての」
「そいつは申し訳なかったな」
鳴は微かな笑みを浮かべながらそっと立ち、立つと同時に傷を負った部分に治癒魔術をかける。それも無詠唱でだ。鳴の傷はみるみるうちに治っていった。ついには元どおり、綺麗な状態に戻った。違うのは服が破れていることだけだ。
「無詠唱だと!?」
それを側から見ていた少年が動揺する。鳴の無詠唱はやはりとても珍しいようだ。
「ははは、驚いたか? 見たところお前も魔術師のようだな。お前が俺たちに探知魔術を使っていた男だな? 魔術探知も俺はしていなかったのに、俺に気づかれるような魔力操作のミスをしてしまうなんて、まだまだだな」
「うっさい!」
鳴の挑発に、その少年は図らずも乗ってしまう。
「おい、ルーカス! 相手の挑発になんて乗るな!」
「へえ、あの子はルーカスというのか。貴重な情報をどうもありがとう」
「何俺の名前だしてんだよ! ジェシカのばか!」
「で、お前はジェシカと」
鳴の自信満々の様子を目の前で見ていたジェシカは露骨に気分を悪くする。
「このクソ野郎!」
「そんな汚い言葉を使う女性も俺のタイプではないな」
鳴はどんどん自分のペースに相手を飲み込んでいってしまう。このままもっと飲み込んでやればこっちのものだ。鳴はさらに挑発を続ける。
「おい、早く矢を打てよ? 打たなきゃ当たらないぞ?」
「うるっさい! このバーカ!」
ルーカスは鳴の挑発にまんまと乗ってしまい、矢をひたすら打ち続ける。それは鳴の元に飛んでくる。しかし、挑発に乗って精神が動揺しているままに放たれた矢など鳴の恐るところではない。鳴は次々と飛来する矢の雨を軽い身のこなしで難なくかわす。
側から見ていたジェシカはこのままではいけないと感じた。このまま止まっても鳴のペースに載せられるだけだ。ルーカスはその幼さから、鳴の策略には気づけない。年長者である自分が状況を打開しなければ。そのような使命感に駆られてジェシカはルーカスに向かって声を荒げる。
「おいルーカス! これはあいつの策略だ! まんまと乗せられてるんじゃないよ!」
「あいつムカつくんだよ! 俺がぶっ殺してやる!」
「ダメだといってるじゃないか! ほら行くよ!」
ジェシカは突如駆け出して、まるで忍者のようにヒラリヒラリと建物を乗り越えてルーカスがいる建物の屋上へとたどり着く。
「今回はあんたの勝ちだよ。ただ、せいぜい気をつけることだね。私たちはいつでもお前たちを殺せるんだから」
ジェシカはそう言い残すとルーカスを置いて先に闇に姿を消した。ルーカスも遅れまいとして、鳴を前にして引き下がるのはいかにも不本意だと言いたい様子ではあったが、捨て台詞をはく。
「まだ俺は負けていないからな! 勝負は次に回してやったんだ! 感謝しろよな!」
ルーカスもそのままジェシカの後を追って暗闇に姿を消した。相手の気配が消えたところで鳴は剣を納めた。今回の一戦で、鳴自身、圧倒的な優位に立ってはいたが、そのために要した労力は常軌を逸していた。とにかく体を休めなければ。鳴は今にも眠れそうなほどに疲労困憊であったが、邸宅まで気を保って帰ろうと、邸宅に向かって歩み始めた。
鳴が邸宅の扉を開くと、そこにはラッセルとキャロルの姿があった。二人は鳴の姿を見ると深刻な表情から一転して、笑みを浮かべる。
「ただいま戻りました」
「よく無事で帰って来たな! 大儀であった!」
「ご無事で何よりです! 本当に良かった!」
労いの言葉を二人からかけられるが、鳴はまだ気を抜くことはできない。おそらく彼らの標的となったフィオナの安否が未確認であった。
「フィオナは? ご無事なんでしょうか?」
「ああ、お前のおかげで、無事にこの邸宅に帰って来たよ。さっきまであいつも鳴の帰宅を待っておったのだが、疲れが溜まっていたようでな。今しがた眠ったところだ」
「そうですか。これでようやく気が抜けます」
ようやく鳴の肩の荷は下りた。一気に脱力する。鳴は大きな安堵のため息をつく。そんな鳴の様子を見てラッセルは気後れしながら声をかける。
「いち早く眠りにつきたいと思っているだろうが……」
「ええ、わかっています。報告はさせていただきますよ。場所はラッセル様のお部屋でよろしいでしょうか?」
「あっ、ああ」
「それでは先に向かわせていただきます」
鳴はよろけながらラッセルの部屋へと向かった。重い足取りであった。今にも倒れんばかりだ。あんなにも余裕をかましていた鳴ではあったが、その負担は限りなく大きかったようだ。
「待ってくれ、私も行こう!」
「わ、私も!」
キャロルは足元のおぼつかない鳴に駆け寄り、鳴を脇から支える。ラッセルもそれに遅れまいとして後を追った。
ラッセルの部屋に着いて、鳴とラッセルは席についていた。二人とも重々しい表情である。キャロルは鳴の椅子の隣に立っていた。それを見かねた鳴はキャロルに提案する。
「おいキャロル、俺の隣の椅子に座ってはくれないか? 何もこんな非公式の場でもちゃんと振舞う必要はないんだ」
「お言葉ですが、侍女は主人と同じ位置に立つことなど許されません」
「全く、硬いなあ」
鳴が笑いながら応答し、今度はラッセルの方に顔を向けた。
「どこからお話しすればいいでしょうか?」
「どこからでも構わん。襲撃者についてを中心に話してくれ」
「まず、襲撃者はカルデブルグまでの尾行者で間違いありません。彼らは男女二人組です。女の方はジェシカという、短剣を駆使する、まさに暗殺稼業といったところでしょう。その動きは鋭敏でついていくのがやっとでしょう。マックス、ブレフトならば対応は可能でしょうが、優位に立つのは難しいかと。男の方はルーカスという少年です。彼からは魔力が感じられました。彼が魔術師に違いないでしょう。平常時は弓を使って攻撃してきます。その腕はなかなかのもので、私も油断してしまい、右腕に怪我を負ってしまいました。退治した場合は十分な注意が必要です」
「なるほど……。ラマレア帝国の息はかかっていると思うか?」
「ええ、間違いなくかかっています。我々グランヴァール王国が先の戦闘に際して、被害を与えたのはラマレア帝国だけです。あの豊かなカルデブルグを奪ったのですから。それ以外に恨みを買うようなことはしていません。我々に憎しみを抱いているのはラマレア帝国でしょう」
「それはわかったのだが、攻撃を加える必要があるか? それでは外交交渉を申し出たラマレア帝国の不利益になるではないか。国際的な非難を浴びてしまうぞ?」
「それは我々が小国だからです。もしもラッセル様が行政の際に、乞食から意見されたとしたらいかがなさいますか?」
「聞く耳すら持たないだろうな」
「ええ、私もそうします。しかし、ジェイミー様やアレクセイ様が意見なさったらいかがでしょう?」
「意見を聞いて、納得させるか、私が納得するかのいずれかであろう」
「つまりそういうことです。グランヴァール王国はラマレア帝国にとって乞食同然の矮小な存在なのですよ。こんな小国がどうなろうとも、大勢に影響はないと考えているのでしょう」
「そうは思っていたが、口にされるとやはり耳が痛いな」
「ですから、明日ラッセル様がなさることは一つです。交渉をいかに対等に進められるか。たとえ死を免れなくなったとしてもです」
鳴の残酷な言葉にラッセルは思わず言葉を失ってしまう。これまでラッセルは三大貴族という立場から、死の危険とは無縁であった。しかし今回、初めてラッセルは死の危険と隣り合わせになってしまった。これまで遠くのもののように感じられていた死という概念が、今やこんなにも身近なものになってしまっt。ラッセルはこれまでにはない恐れとも言えない緊張した感情を抱いていた。難しい表情を浮かべているラッセルを気遣って鳴が言葉をかける。
「といっても、ラッセル様やフィオナ様が死の危険にさらされた時には、命に代えてもお守りいたしますので、ご安心ください。あなた方は何があってもこの私がグランヴァール王国に無事送り届けます」
「あ、ああ。心強くて助かる」
「話はこれで終わりでしょうか?」
鳴は依然として毅然とした表情を浮かべている。
「ああ、これで終わりにしよう。疲れているのに済まなかったな。ゆっくり休んでくれ」
ラッセルから報告を終えてもいい合図をもらうと、そのまま鳴はにっこりと笑ってその場で目を閉じた。鳴はそれから全く動かない。
「鳴様?」
隣に控えていたキャロルが鳴に声をかけるものの、鳴は目覚めない。キャロルがそっと耳を鳴の顔のあたりで耳を澄ませると、気持ち良さそうな寝息がすうすうと聞こえていた。
「あらあら、鳴様は眠ってしまわれたようです」
「そうか、彼には苦労をかけたな。ここでゆっくり休ませてやってくれ。彼の様子は私が見ておく。キャロルも部屋に帰って休みなさい。気遣いはいらんよ」
「はい、私も少々疲れておりまして、お言葉に甘えさせていただきます。それでは失礼します」
そのままキャロルは深い寝息を立てている鳴をラッセルの部屋に残して自室へと戻った。




