第十九話 新たな出会い
朝だ。いや、正確には昼に近い朝だ。太陽は空の真上に上がろうとしており、そこからいつもよりも一段と燦々と光を地表に注いでいる。カルデブルグの大地は今日も美しい自然に囲まれている。美しく香る花々、風にそよぐ木々、歌声のように美しい鳴き声で飛び回る小鳥たち。カルデブルグは今日も美しい。しかし、これまでとは違う部分があった。カルデリア家の圧政がなくなったのだ。もうカルデブルグはグランヴァール王国の統治下に入り、グランヴァール王国におけるのと同じような優しい統治が行われ始めていた。
鳴の活躍でカルデブルグがグランヴァール王国に降伏し、グランヴァール王国が救われてから5日目。鳴は依然として休憩室のベッドに寝込んでいた。あの時倒れ込んでから、まだ目覚めていない。そろそろ目覚めてもいい頃だった。窓から差し込む太陽の光が鳴の顔を明るく照らす。起きている人が浴びたら、眩しいとすら感じるだろう。さすがに鳴もこの光に反応したようだ。
「ん、んん……」
鳴は寝起きの声をあげながら、おもむろに目を開く。鳴の目の前には見たことのない光景が広がっていた。見覚えのない天井。寝心地の違うベッド。使った覚えのない一連の家具。間違いない、この部屋は初めて使う部屋だ。鳴はそう直感して身を起こそうとする。ふと、手が誰かに握られていることに気づく。まだ視界ははっきりとしておらず、少々ぼやけている。手の指を少し動かしてみると、手を握っている人はかすかに反応する。
「鳴!?」
声からして、女性のようだ。それも聞き覚えのある声であった。
「鳴、起きたのですか!?」
「ああ、おはよう」
「もう、おはようじゃないです! どれだけ心配したと思っているのですか!?」
そう、声の主はソフィアであった。涙が今にもあふれそうな声で鳴に話しかけるソフィアはそのまま鳴の胸に顔を埋めて鳴の手を一層強く握る。
「良かった、本当に良かった……」
「俺は大丈夫だって言って出発したじゃないか」
「5日間も寝たままだったのですよ!? 心配するに決まっているじゃありませんか! このままずっと目覚めなかったらどうしようって、ずっと怖かったんですから……」
ソフィアはしゃくりあげながら言葉を発する。その一方で、鳴は自分があまりにも長い時間眠り続けていたことに驚きを隠せない。
「5日間も眠っていたのか? 嘘だろ……。昨日倒れたような気分だ」
「私だけじゃなくて、みんな心配していたんですからね?」
「みんなって?」
「クラウドお兄様やアレクセイ、それに騎兵の方々です」
鳴は心配をかけて申し訳ないと思うと同時に、どうしてソフィアやクラウドもカルデブルグにいるのかがわからなかった。鳴の脳内が混乱する。
「ちょっと待て、ここはカルデブルグだよな?」
「はい、そうですよ?」
「だったらどうしてソフィアたちがここにいるんだ? みんなはグランヴァール王国にいたはずだ」
「アレクセイの報告を受けてみんな飛んできたのですよ。クラウドお兄様は陛下の名代として、カルデブルグの降伏文書の調印にカルデブルグにいらしたのです。私たちはそれについてきただけです」
「そうだったのか。それより、アレクセイさんはちゃんと俺が倒れた後の処理をしてくれていたんだな。安心したよ」
ソフィアと鳴が語り合っているとふと扉が開く。
「鳴殿のご容態はどのようでござるか?」
アレクセイは大きな声で部屋に入ってくる。アレクセイは鳴はまだ目覚めていないものだと思っていたから、ベッドの上で腰を上げて座り、ソフィアと話している鳴の姿を見て驚く。
「今しがた目覚めたところです。ご心配をお掛けしました」
「おお、鳴殿! ご無事で何よりです!」
アレクセイは鳴の元気な姿に喜び、満面の笑みを浮かべて、鳴とソフィアの元へ駆け寄ってくる。鳴の元に着くと、アレクセイは鳴の手を取り無上の喜びだと言わんばかりに鳴の手を振る。
「倒れられた時はどうなることかと、本当に心配しましたぞ! いやあ、本当に良かった。グランヴァール王国から貴重な人材が失われずに済んだ!」
「大げさですよ。それよりアレクセイさん、頼ませていただいていた戦後処理の方はいかがでしょうか?」
「ご安心くだされ。このアレクセイ、勉学はわからぬ無骨な男ではござるが、戦の後に何をすべきかは心得ているでござる。グランヴァール王国本国への連絡、カルデリア家へのあらゆる処理、降伏文書の準備、ヴェルタスへ迫っていたカルデブルグ軍の停止。全て済んでいるでござる」
「完璧じゃないですか。本当にありがとうございます」
「鳴殿に怒られてはいけないと、尽力したまでにござる」
「はっはっは。俺は怒ったりなんてしませんよ。ところで案内人は?」
鳴は進軍中に仲良くなった存在に想いを馳せる。できることなら彼には面と向かってもう一度礼を言いたいと鳴は思った。彼がいなければ、今回の作戦は成功することは決してなかった。鳴は彼に敬意を表したかった。
「彼なら私が作戦の成功を告げると、『俺の役割は終わったな』と言ってそのまま旅立ってゆかれました。鳴殿によろしくと、これからも頑張ってくれと伝えてくれとのことでした」
「そうですか。できればもう少し話をしたかったのですがね。残念です」
「何、彼のことでござる。きっと今頃またあの山脈をこえて闇取引をしているでござろう。きっとまた会えると信じております」
「そうですよね……」
鳴はあの厳しい山脈を越えている案内人の様子を想起した。何かその様子には親しみを感じずにはいられなかった。
「会話が弾んでいるところ申し訳ありませんが、私がすっかり置き去りになっているのですが」
ソフィアが頬を膨らまして、不機嫌そうな様子で鳴とアレクセイを見ている。
「これはこれは失礼しました。それでは私は残った仕事がまだござるゆえ、それを片付けてくるとするでござる」
そう言ってアレクセイは部屋を出て行った。
「ソフィア、すまない。アレクセイさんとは色々話すことがあったんだ」
「もう知りません」
ソフィアは機嫌を悪くしたまま、そっぽを向いている。
「なあ、許してくれよ」
必死に懇願する鳴。それを逆手にとるように、ソフィアはいたずらっぽい笑顔を浮かべて鳴を見つめる。
「それでは私と今日1日、カルデブルグをめぐって回りましょう! それで許してあげます!」
「俺一応病人なんだけど……」
「馬車で回ればいいのですわ! 誰か、今すぐ馬車の用意を!」
「ダメだこりゃ」
ソフィアの突然の提案で、鳴とソフィアはカルデブルグを回ることになった。久しぶりに鳴と過ごせることを喜ぶソフィアとは対照的に、鳴は天を仰いでため息をついた。
「本当に緑が美しいところですね。このカルデブルグは」
ソフィアは馬車の中から外の景色を眺めながら呟く。ヴォーフムから馬車で鳴とソフィアは田舎の方へと繰り出した。まだほんの数分馬車で走っただけなのに、もう美しい緑に囲まれた大自然を堪能できている。カルデブルグには本当に素晴らしい自然がある。身近に自然を感じることのできなかった世界で暮らしていた鳴にとってはこんな光景がなんだかとても貴重なように思えてならない。
「グランヴァール王国南部の田舎よりも豊かな緑であふれているな。これなら相当農業の収穫も豊かだったことだろう」
「もう、そうやってすぐに政治のことに話を繋げる」
鳴がカルデブルグの緑を行政と結びつけて考えた発言をすると、ソフィアはそんなことを聞きたいのではないと言わんばかりに鳴をあだっぽく批判する。
「悪い悪い。ところでクラウド殿下とキャロルは? 二人の姿が見えなかったが」
「クラウドお兄様はカルデリア家との降伏に関わる会談をなさっていましたわ。キャロルはグランヴァール王国の野戦病院で負傷兵の治療を買って出てくれまして、今も尽力してくれています」
「そうだったのか。なんだか俺たちだけ遊んでいて申し訳ないな」
「遊んでも構わないでしょう? だって鳴は今回のグランヴァール王国防衛の一番の功労者ではありませんか」
「そいつはどうも。そうだとしても、ソフィアが遊んでいる理由がないぞ?」
「私には鳴がまた無茶をして体を壊さないように見張っているという大事な役目を今しているところです」
「ははっ。なんだよそれ」
馬車の中が他愛もない会話で笑い声に包まれる。ソフィアが野戦病院で懸命に看護したこと、鳴が山越えの最中にとてつもない雪崩に巻き込まれそうになって九死に一生を得たこと、山脈越えに大きな役割をはしてくれた案内人の存在。そんなお互いが同時に経験していない話をしていて二人が共に過ごせなかった時間はすっかり埋め合わせられた。
とりとめもなく話をしていると、出立したのは昼過ぎだったが、もう夕日が沈みそうなぐらいに時間が経っていた。
「もう日が沈みそうだ。みんなが心配するといけない。帰るとしよう」
「そうですね。それでは最後にあの丘からカルデブルグの景色を眺めて帰りましょうか」
目の前には小高い丘があった。かなり遠くまで来ていたが、この丘からはカルデブルグを一望できるのだ。二人は運よく、最高のスポットへと向かっていたのだった。
二人は馬車を降りて丘からカルデブルグを眺める。そこには見たこともない緑に溢れたカルデブルグの美しい姿が広がっていた。思わず二人は感嘆の声をあげる。
「綺麗……」
「これはすごいな……」
二人はその光景に見入る。無言の状態でただただ見つめていた。まるで意識がないかのように。時間の経過が全くないように思える。そよそよと風が鳴の頬を撫でたところで鳴ははっと意識を取り戻した。これが飽和という状態か。鳴は今自分がいた状況の尊さを確認する。ソフィアは依然として景色を眺めていた。
「最後にいいもの見れてよかったな。さあ、帰ろうか」
「……。そうですね」
しばらくしてからソフィアは鳴に返事をする。まだ見ていたいようだ。しかし時間がそれを許しはしない。渋々馬車へと向かうソフィア。鳴はなぜだか面白くて吹き出しそうになっていた。鳴も馬車へと向かって歩き出した。
ふとそこに鳴とソフィアとは別の人間の男の足音が聞こえてくる。どうやら丘の下から聞こえてくるようだ。ソフィアは気付かずに、ただただ馬車へ向かって歩いている。鳴は警戒を始める。
「ソフィア、少し下がっていろ」
「えっ? どうしたのですか?」
鳴は腰に差している剣の柄に手をかける。状況を飲み込めず、ソフィアは少し戸惑う。一体足音を鳴らすものの正体は何なのか。小高い丘に登ってくる男の姿が徐々に明らかになる。髪の色は銀色、背は高く、優男という感じだった。目の彫りは深く、鋭いが優しい目つきをしていた。その男も鳴とソフィアの存在に気づく。その男の風貌が優しさを帯びていたからだろうか、鳴の警戒心は解かれる。
「先客か」
その男がポツリと呟く。どうやらこの男は普段からこの丘でカルデブルグの美しい光景を眺めているようだ。男はそのまま鳴とソフィアの元へと歩みを進める。
「綺麗だろ? ここから見える景色。俺の特等席だ。誰にも教えたことなかったのに、見つけられるなんて運がいいな」
鳴とソフィアは何も言えずにその男の行動を見ていた。その男は先ほど鳴とソフィアが見ていた位置からカルデブルグを眺める。
「カルデブルグが陥落してグランヴァール王国に併合されてよかった」
男がひとりごつ。普通ならカルデブルグの領民なら陥落を喜ばないはずだ。しかしこの男は喜んでいる。鳴には意味がわからなかった。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。グランヴァール王国はいい国だと聞き及んでいる。こんな圧政はもうされなくなるだろう。それだけで十分だ」
「そうだったのか……」
カルデブルグでは圧政が敷かれていたことを聞いて、鳴は若干悲しそうな表情を浮かべる。
「俺ももうスパイの職務から解放されるし、後はのんびり暮らすだけだ」
「スパイ……?」
「ああ。お前ら、話す口ぶりからしてグランヴァール王国の人たちだろう? 俺はこの国のスパイだったんだよ。ドルチェ村とかいう村に行ったな。いい村だった。緑豊かで、カルデブルグみたいだった」
「何!? ドルチェ村だと?」
鳴は大きな声をあげる。あの時に対峙したスパイと思われる人物が目の前にいるのだ。驚かずにはいられない。
「ああ。その時に出会った奴がいてな。すごく腕の立つやつで、危うく俺が死ぬところだった」
「それ、俺だ」
「は!?」
鳴の突然の暴露にこの男も黙っていられない。男は呆然とした表情で鳴を見つめている。しばらくすると、男は大きな声をあげて笑い出した。
「全く、世界は狭いもんだ! あの時に敵として出会った男に、こんなところでもう一度会うなんてな!」
「本当にな。顔も深く隠していたから、特定もできないし、もう二度と会えないと思っていたよ」
「あの時本当に死ぬかと思ったんだぜ!? 俺はジークフリート=カルデリアだ。あんたは?」
「神楽鳴だ。ここで会ったのも何かの縁だ。あの時は敵として対峙したが、これからは友人でもいいか?」
「もちろんだ。あの時は別の国の人間同士だったが、今はもう同じ国の人間だしな」
二人が会話を続ける中で、ソフィアが置き去りになっている。ソフィアは二人が話している内容についていけない。
「ところでそちらの貴婦人は?」
「ああ、こちらはソフィア=アンネリーゼ=グランヴァール王女だ」
「何!? グランヴァール王家の方か?」
「ええ、初めてお目にかかります」
ソフィアの素性を確認すると、ジークフリートはとっさに跪き、こうべを垂れる。これにはソフィアも驚かずにはいられない。
「ちょっと、やめてください! 私は……」
「私の主人となったお方に、どうして面と向かってお話ができるでしょうか。どうか頭を下げさせてください」
「なんて律儀なお方なのでしょう。ジークフリートですね? その名前、この心に留めておきましょう」
「ありがたき幸せ」
「ところでジークフリート。あなたはカルデブルグが陥落してよかったとおっしゃいましたね? それはどういう意味かを具体的にお聞かせ願えますか?」
「カルデブルグでは、我が父、アダム=カルデリアによる圧政で、民は皆苦しんでおりました。この悪しき状況を何とかして変えたいと常日頃思ってまいりましたが、力及ばず、それはできませんでした。しかし今、グランヴァール王国がカルデブルグを併合しました。これでカルデブルグの統治は変わる。そう思っての発言でした。実を言うと、私、諜報部隊である『影』を率いておりますゆえ、カルデブルグにグランヴァール王国の部隊が侵入してきたことを知っておりました。しかしこれがカルデブルグを変える契機だと確信して、あえて父には報告しませんでした」
「それは自己の身を危険に晒すと思いはしませんでしたか? うまく行ったからよかったものの、失敗していればあなたは裏切り者のレッテルを貼られ、あなたの命はなかったかもしれません」
「カルデブルグの民が笑って暮らせるのであれば、私の命など捨ててしまう覚悟でございます」
ジークフリートの確固たる決意を示す言葉がソフィアの胸を打つ。領民のために命を捨てる。そんな態度がソフィアには尊く思われた。ジークフリートならカルデブルグを誰よりも良い形で治めてくれるだろう。そんな思いがソフィアのうちから湧き上がってきた。
「鳴。ジークフリートをカルデブルグ領主にしてはどうでしょう?」
「ああ、賛成だ。彼はまさに適任者だろう。帰ったらまずはクラウド殿下に進言してみよう」
一通りの話を聞いていた鳴は二つ返事でソフィアに賛意を示す。これに驚いたのはジークフリートだ。
「ま、誠でございますか!?」
「はい、このソフィアの名にかけて」
「あ、ありがとうございます!」
ジークフリートはようやく長年の願いを叶えることができるかもしれない。まだ実現こそしていないが、喜びはひとしおである。満面の笑みを浮かべるジークフリートにソフィアが優しく微笑みかける。ジークフリートの後ろで沈みゆく夕日が彼を照らしていた。




