第七十七話 愛は世界を
「ヴィルヘルムス!」
宮殿の扉から数人の侍従を連れて入って来た人物に、私は大きく声を張り上げた。
彼も私を認識すると、空色の目を細めて私に向かって微笑んでくる。石畳の道を小走りに駆けて近寄り、彼の手を握って激しく上下に振った。
「久しぶり。元気にしてたか?」
「はい。セレナさんも元気そうで安心しました」
自らの国民を危険に晒した彼は、その責任を取って全ての政治的権力を手放した。今は最後の神族として、ただ教会に籍を置いている。
それでも混乱する国内を纏めようと、影響力の大きい一個人として忙しい毎日を送っているらしい。
今日は首都に来る用事があったので、態々時間を作って私の所にも顔を出してくれたのだ。
「美しい場所ですね」
どの景色を切り取っても完璧であり心を揺さぶる。だからこそヴィルヘルムスはそこに込められたカシュパルの心を感じ取ってしまい、利用しようとした彼に対して罪悪感が湧いたようだった。
「庭師に伝えておくよ。さあ、こっちだ」
少し暗い影にはあえて気づかないふりをして、私は応接間へ向かうべく先導する。
最近はこの宮殿の扉は頻繁に開かれている。もうカシュパルが閉じ込める事を止めたので、オレクやリボルを始めとした友人達によく会うようになった。
彼等と話している間は、胸に渦巻く不安が少しだけ軽くなる。国も未来も大きく変わって、色々と考えずにはいられない私にとって訪ねて来てくれる彼等の存在は本当に有難かった。
応接間について作法通りに許可を出せば、ヴィルヘルムスは椅子に腰を下ろして一息つく。私も向かいに座って口を開いた。
「手紙では随分忙しそうだったけれど、今も相変わらずなのか?」
「はい。特に地方ではまだまだ話が浸透していませんから、顔を出して少しでも意識を変えて貰おうと思っています」
「そうか……。やはり、難しい事だな……」
いずれ来る魔物への備えとして、全ての魔物狩人の組織を国有化して各地に支部を置く。カシュパルが推し進めている大きな改革の一つだった。
その組織には人間も獣人も区別なく能力だけを見て所属させるという。遠くない内に獣人達が旧アリストラ国内を普通に闊歩するようになるだろう。
その時に互いに嫌な思いをする事がなければいいが、全く問題がない筈がなかった。
けれどその不安を消す様に、ヴィルヘルムスは微笑みを浮かべながら言う。
「大丈夫ですよ。時間は少しかかりますが、ゆっくりと理解するでしょう」
未来を見る者の言葉である。いつか全てを抱えて一人悲嘆していた彼が、このように穏やかに言うならば信じていいに違いない。
「……そうだな。でも、ヴィルヘルムスも無理はしないように」
未来から守ろうとしたヴィルヘルムスの理屈を大半の者は理解しているが、それでも身内を殺されそうになった当事者達は綺麗に流す事など出来ないだろう。
人前に出るという事は、そう言った人達にも顔を合わせる機会があるという事だ。最後の神族として護衛は十分にされているが、悪意には何処で鉢合わせるか分からない。
「ええ。もう無理はしません。何かあればセレナさんに相談しに来ますよ」
「いつでもおいで」
ヴィルヘルムスはその言葉に子供の様に嬉しそうに笑う。相変わらずこんな風に声をかける人間は私以外に居ないのだろう。
けれど広い世界の何処かには、エリーの様に心を通わせてくれる人もいる筈だ。そんな人が現れるまでは、私が彼の身内として気にかけてやらなければと思う。
「ところで……カルペラ公爵は?」
「彼は領地と爵位を返上しました。墓守をすると言っていましたが……。彼にも多くを背負わせました」
ヴィルヘルムスがその憎しみを利用し、共に死ぬつもりだった相手だ。戦場での出来事で心が折れてしまった彼に、最後までどう声をかけてやればいいのか分からなかった。
ヴィルヘルムスが呆然とする彼に謝る声が聞こえたが、今も同じように申し訳なく思っているのだろう。
獣人達を殺そうとした人物だが、国を思っての面もあるに違いない。翻弄された彼を嫌う事が出来なかった。
「けれど生きている。……なら、いつか彼が穏やかに暮らせる日が来る事を願おう」
「ええ」
窓の外で小鳥が鳴いたので、ヴィルヘルムスの視線がそちらへ動く。好奇心旺盛な小鳥の視線と鉢合わせると、見慣れない容貌の彼に驚いたのか直ぐに飛び去ってしまった。
静かな空気が一瞬生まれた。私はその空気に背中を押されるようにここ最近頭から離れない悩みを告白しようと決心する。
「……私は、これから一体どうすべきだろう」
ヴィルヘルムスから促す無言があったので、私は言葉を続けた。
「色々な人が私に会いたがる。けれどその内皆、私の能力の低さを知って飽きるだろう。話を本にでもまとめてしまえば、語り部としての役割さえなくなる。その時どうすればいいか、分からないんだ」
「貴女は既に成し遂げた後です。そう他者の期待を気負い過ぎる必要はないでしょう。……とは言っても、それだけではないようですね」
「……カシュパル一人に重荷を背負わせて、自分だけ遊んでいる訳にはいかないじゃないか」
私は王の隣に立つ者として認識されていて、奇跡を起こした者としても広く知られてしまった。けれどその実態はしがない騎士でしかない。私は彼に、釣り合わない。
それは生まれながらに重責を担い、放棄する事もなく真正面からその責務を全うしているヴィルヘルムスにするには、あまりに情けない悩みだった。
「無理に背伸びをして、貴女が貴女でなくなる事を誰も望んでいません。今のままで十分私にはお二人が相応に思えますよ」
ヴィルヘルムスは優しく人を導く笑みを浮かべて言った。
「そうだろうか」
自分がカシュパルに相応しいと心の底から思う事は出来なかったが、幾らか気持ちが軽くなった。
それから他愛無い話を幾つかして、忙しい彼が帰る時間があっという間に来てしまう。
ヴィルヘルムスが来ると聞いてから何か持たせようと贈り物を用意していたのだが、あれもこれもと思う内に随分多くなってしまった。
ヴィルヘルムスの侍従が両手いっぱいに抱えて、どう運ぼうかと悩むのを見てやり過ぎたと反省する。
けれど私がどれだけ彼の訪問を心待ちにしていたのかが伝わった様で、ヴィルヘルムスは酷く機嫌が良さそうに満面の笑みを浮かべていた。
見送る為にヴィルヘルムスと共に歩き、入って来たのと同じ門の前に立てば、やってきた別れに寂しさが押し寄せた。
「ヴィルヘルムス、今度は私から顔を見せに行くよ」
「分かりました。けれど待ちきれず、私からまた来てしまうかもしれません」
「はは、それなら今度はもっと色々案内するよ。見せたい物がまだまだあるんだ」
気軽に会うには距離がある。けれど心は離れない様にしようと強く思う。
「それでは、また」
「ああ、また」
再会を願う言葉を口にして、ヴィルヘルムスは踵を返した。去って行く背中に恭しく傅く侍従達が続く。
孤独を抱え、それでも尚凛として。自分の過ちからも目を逸らさない。なんて強い人だろう。
その内に私は一人になって、自分の部屋へと戻る前に綺麗な庭園の小道を通ってみようかと思いついた。
緑生い茂る庭園を歩けば兎が愛想よく足元に擦り寄って来る。頭を撫でてやると、食べ物を持っていないかと入念に調べられてしまった。
「すまないな。今は何もないんだ」
「……セレナ」
誰かの気配に驚いて兎が逃げて行く。振り向けば、カシュパルが此方に向かって来るのが見えた。
王らしく堂々たる歩き方は、たとえ遠目からでも誰であるかが一瞬で分かる。美しい金糸の刺繍の衣服に彩られ、竜の角を持つ彼は今や万人の救済者であった。
今も迫り来る災厄にも、人々が動じないのは彼がいるからだ。この威風、その才覚。後にも先にも彼の様な人は現れないに違いない。
いつかは目を向けられても私を通り抜けていくかの様な空虚な瞳は、今はしっかりと私に合わせられている。
離れ離れになる前の、ごく普通の青年の様だった溌剌とした明るさは今の彼にはない。
けれど長い間絶望と悲哀を経験した者だけが知る、毎秒の眩さを心に刻む幸福の表情が確かにあった。
不安も焦燥も見当たらず、芯が通った安定感。今ならば私の言葉は間違いなく彼の心に届くだろう。
長い足であっという間に私の前に立った彼は、唇を綻ばせて優しく笑った。
「セレナ」
「カシュパル、お帰り」
ベンチから立ち上がり、その顔に手を伸ばす。
赤い血を流し続けていた内側の見えない傷は今どうだろうか。何事もなかったかのように元通りになる訳がない。
けれど確かに血は止まり、塞がった筈である。その痕が少しでも癒える事を常に願っていた。
「……疲れてみえるな」
カシュパルは自分を演出する事が上手だから他人には普通に見えるが、私の目は誤魔化せない。連日の激務だ。常人ならば倒れてしまっているに違いない。私は彼の頬を撫でて労わった後、口を開いた。
「休めているか?」
「問題ない。今からそうする」
カシュパルはそう言うと私を腕の中に閉じ込めて、やっと一息付けたかの様に大きく深呼吸をした。彼の体から力が抜けていくのが分かる。
私の傍で気を抜く様子が愛おしく、その背中に手を回した。
カシュパルに相応しい人になりたい。
それは多分、この世の誰にも叶えられない願いだろうけれど。
抱擁の手が離れると、カシュパルが聞いてきた。
「ヴィルヘルムスとは何を?」
「お互いの近況報告だな。本当はもっと話したかったんだが彼も忙しいから」
「そうか」
ほんの少し前までヴィルヘルムスと会話していた事もあり、彼に話した先程の悩みが蘇ってくる。
これだけの事をしてくれるこの人に、自分はどうやって報いればいい。
「カシュパル」
名前を呼べば、耳を傾けてくれる。申し訳ない気持ちが沸き上がり、眉を下げて言った。
「すまない。……お前一人に沢山、背負わせてしまった」
カシュパルが王でなければ両国は纏まらないという。事実、彼以外に適任者はいなかった。
人間達はかつて魔物狩人として名を馳せた過去を思い出し、彼の身に混じる人間の血も相まって災厄を乗り越える王として認めている。純血の獣人では拒否反応は酷いものだっただろう。
だから辞めていいなどと言える筈もなく、ただカシュパルの献身に罪悪感を覚えるばかりだ。
けれどカシュパルは首を横に振り、何の咎もないと言わんばかりに優しく口を開いた。
「最近よく考える事がある。セレナ以外に何の欲も持たない俺が、才に恵まれた理由だ。そして同時に、貴女がそうである理由も」
カシュパルが唯一無二の人であるのは誰しも否定しようがなかった。けれど私が『そう』と言われる部分が分からない。
不思議に思って少し首を傾げながら見上げるだけの私を、カシュパルは愛おしそうに見つめて口を開く。
「この世でただ一人。貴女だけが全てを諦めず天衣無縫に希望を抱く。そして俺だけが貴女のその諦めない願いを叶える事が出来るならば」
私の心に届くように、確信に満ちた口調で言い切った。
「きっと二人、互いの為に生まれてきたに違いないと」
カシュパルの紫の目を不思議な気持ちで見返した。
過去に時を渡り、この人を殺す筈だった。私以外の誰がこの任務に就いても、きっと多少の罪悪感と共に遂行しただろう。
けれどその任務に就いたのが、よりにもよってこの私だった。愚かで、夢見がちで、諦めの悪い女騎士。
確かにきっと私だけが、カシュパルを救えたのだ。
美しい紫の目が一度は失われてしまった光を確かに再び宿していた。同じ先を見ている。共に生きようと願った通りに。
「だからセレナ。望むままに諦めず、躊躇せず、願いを抱け。貴女の願いを叶えている時こそ、俺は一番自分が生きていると実感できる」
そうだったな。ありのままの私こそ、カシュパルの愛する形だ。
ならば乗り越えられる未来を描こう。愛が世界を救うと信じよう。この人の上にこそ幸福があるようにと願いながら。
カシュパルは目の前のセレナの顔から曇りが晴れていくのを見た。明るい笑顔を浮かべる彼女に、長い旅路の末に故郷に帰ったかの様な懐かしさと愛おしさが込み上げる。
こうして彼女を思うだけで、胸に温かな温もりを感じた。一度は粉々に砕かれて二度と戻らない様に思えたが、こうして今も感じるという事は、気付かなかっただけでずっと同じ所にあったのだろう。
この人が昔から自分に注いできてくれたものが、今も胸に鮮やかに咲いている。
「なら、温かで優しい夢を抱き続けよう」
ほっとした表情を浮かべるセレナが愛おしく、カシュパルは想いのままに彼女の膝の裏に手を添えて抱き上げた。
驚いたセレナが一瞬目を大きく見開いたが、直ぐに悪戯な表情を浮かべてカシュパルの口に唇を寄せる。
その柔らかさに酔い、顔が離れれば間近の蜂蜜の様な金の目が優しく細められていた。
対であるこの人と生きていける事の幸福。どうか、この瞬間が少しでも長く続きますように。
願望が溢れ、祈りがカシュパルの口から漏れた。
「傍に居てくれ。ずっと」
セレナは幼いカシュパルにそうした様に、安心させる優しい声で彼を導いた。
「ああ。お前が私の形を覚えている限り。きっと共にあれる」
カシュパルはもう一度、幼い頃の様に彼女の言葉を頑なに信じる事にした。少しも疑わず、妄信的に。
セレナの命尽きるまで。尽きた後も。彼女の声なき声の囁きに耳を凝らし、腕なき腕で抱きしめられるのだと信じよう。
風や木漏れ日の中にセレナの存在を見出して、セレナの願いと共に自分の長い寿命の果てるまで。
セレナの魂の形を、確かに思い出した今ならば出来るに違いない。
「愛してるよ、私のカシュパル」
世界は本来人の物ではなく、ただ何者かの愛によって守られ紡がれてきたものだという。ならば今も続く世界の形こそ、その誰かの生き様そのものなのだろう。
そしてそれが今、セレナの番なのだとしたら。
この世界のなんと愛おしい事か。
かつて手に入らないと嘆いた光のような愛が、カシュパルの腕の中で確かに輝いている。
ただ満たされ、カシュパルは幸福に微睡むようにセレナに微笑した。
「愛している、俺のセレナ」
世界は救われる。この愛によって。
◆◆◆
王妃セレナは最も立場の弱い者に手を差し伸べ続けた。中でも一番注力したのは各地に設立した孤児院だろう。
彼女の設立したその孤児院では人間も獣人も区別なく育ち、兄弟姉妹として育った彼等は世に出た後、両種族の壁を取り払うのに大きな一助となる。
子供たちの明るい声が響くその場所では、職員達と共に幼い子供の世話をする王妃の姿が晩年までよく見受けられたという。
そしてカシュパル王は激動の時代を生き抜き、彼に課された使命を全てこなして見せた。
魔物の生態の研究が進み、各地に組織だった魔物狩人が配置された今、人は魔物から怯え逃げるだけの存在では最早ない。
人としては随分長く生きた彼女を、看取った後の彼の心境がどうであったのか。
それはカシュパル王の守り抜いた広大な田畑と、魔物に怯える事のない国民達、そして差別のない人間と獣人の姿が全てを物語っていた。




