第七十五話 遥かなる愛
問いかけられたヘレイスは眉を寄せ、告げられた絶望的な未来を拒絶するように首を横に振った。
『それまでの間に、愛し子は増える。増えた彼等ならば、魔物にも対抗出来るだろう』
オークバンはそんなヘレイスの楽観視を嘲るように吐き捨てた。
『勝てぬ。そして一度数が減れば、繁栄は二度と戻らない。目を閉じろと貴女は言うが、この目には確かに遠い未来が見えてしまうのに。どうして能天気に笑っていられるだろうか』
アリストラ国の魔物が活発化しているのは、既に人間達の間で噂されている事実であった。
しかし迫り来るその異変に気がついていながらも、有効な手立てがないのが現状だった。
戦場の空気は酷く重いものに変わっていく。遥か彼方の、最も力ある時代の神の言葉である。
種族としての逃れようのない破滅を感じ、人間達は目の前の獣人以上の絶望に顔を青ざめさせていく。
ぶるぶると体を震わせて涙を流す者も多く、周囲には呻き声があちらこちらから聞こえだす。
目にしている光景が何かの巧妙な罠ではないかと必死に探そうとする者もいたが、そんな高度な技術など存在する筈はなく、徒労でしかなかった。
獣人達は動揺する人間達に哀れみの視線を送る。信仰の対象そのものから告げられた破滅の予告。それがどれだけ大きな衝撃なのかは、人間達を見れば一目瞭然だった。
オークバンは自らの無力さに打ちひしがれる様に自分の手を見つめ、険しい表情で言った。
『見えているのに。私には助けてやる事が出来ぬ。幾ら愛しく思い、守ってやりたいと思っても』
彼の言葉が地平と心に響き渡っていく。こんなにも愛情深い生き物だったのか。神族というものは。
私はその苦悩を目の当たりにして、堪らない気持ちになった。明らかに私達の時代は彼の力の範疇の外である。それなのにこうして自分事として思ってくれる。
人間が神族を敬ってきた本当の理由を知って、神殿騎士として仕えてきた自分が誇らしくさえあった。彼等が愛してくれたからだった。だから人間も、彼等を愛し返したのだ。
声を届けられたなら、唯々感謝を伝えていただろう。けれど彼が未来に手助けする術がないように、私が過去の彼に出来る事も何もなかった。
何故か救われたような気持ちになって、けれど現状は何も変わらなくて。過去の中に私達が滅亡を免れる術などないのかもしれないと思い始めてしまう。
けれどそれを打ち破るような轟音がした。空から聞こえるあまりにも大きな翼の音。どんな怪鳥よりも巨大だった。
並ぶ七人の神族達と同じく、彼も見れば偉大な存在であると分からぬものはいないだろう。
それは大きな爪のある手足を地面に降ろし、翼を仕舞い、七人の神族達に混じるように首を下げた。
獣ならぬ獣。ヨナーシュ国の祖である竜である。
こんな光景は、どんな教典にも載っていなかった。七人の神族達と、竜がこんなにも親しい様子で共にいるなど。
長い時の中で失われてしまった光景。獣人達は自分達の信仰の対象が現れた事に息を呑み、教会にある石像などとは及びもつかない生々しさと偉大さに唯々目を奪われる事しか出来なかった。
『ならば我が、我が愛し子達に抗う力を授けよう』
いつからか会話を聞いていたらしき竜は、人ではない声ながらも優しさを感じさせる口調でそう言った。
竜から祝福が与えられた理由が、遥か時を越えて竜人達の前で明かされる。
『けれど我が愛し子達は子の数が少ない故、魔物に勝てても土地を維持できぬ。それでは獣と同じだ。汝らの愛し子達は数が多くとも、戦う力は弱い。ならば結界が消えた後、両者が力を合わせれば繁栄を維持する事も出来るだろう』
強き者は他者を守らねばならない。神話の一節。他者とは誰か。その答えを皆が知った。
今度は獣人達が言葉を失う番だった。人間と同じく、自分達も破滅の道を進んでいたと漸く気がついたのだ。
オークバンが更に獣人達を動揺させる一言を口にする。
『けれどそれをすれば竜よ、貴方は遠からず死んでしまう』
それはオークバンにも劣らない、偉大なる愛である。彼等は深く獣人と人間を愛していた。
「竜よ……」
ベンヤミンの口が無意識の内に呟く。どうして人は深く誰かに愛されていると知った時、心を強く打たれるのだろう。
それは少し前までこの戦場を覆っていた敵に対する憎悪を、すっかり洗い流してしまう程の強烈な衝撃だった。
『そなた達も同じ事ではないか。記憶を血に乗せ、存在を擦り減らし。やがて何者でもなくなって、この地と同化する』
竜の言う通りである。今この時に、彼等の内で生き残っている者は誰もいない。竜はオークバンに更に言葉を続けた。
『身を惜しむ事はせぬ。それが閃光のように僅かでも他者を照らすのならば。この地に這い、生きて死ぬ彼等と同じように』
カシュパルは神族達の光景を食い入るように見ていた。私を支える彼の手が強まった気がして、その手にそっと自分の手を重ねる。
カシュパル。お前だけいればいいと言える私ではなくて、すまない。命さえこうして危険に晒して。
けれどどうか気付いてくれ。この神族達と同じように残せたものがあるならば、その中にこそ私の魂があるのだという事を。
重ねた手に気付いたカシュパルが、私に視線を向けた。そして胸の内の呼びかけに気付いたかの様に淡く笑う。
困ったかのような、けれど夜闇の月明かりにも似た優しいその笑みに、これ以上の言葉は必要なかった。
ああ。この世界は愛するに値する。
『オークバン。我々はもう永遠の停滞ではないのだ。だからこそ、希望を抱く事が出来る』
竜の言葉にヘレイスを含めた他の神族達も首を縦に振っていた。それがとても愛嬌があって、気付けばオークバンの眉間の皺は解けて和やかになっていく。
オークバンは一度静かに目を閉じて、口角を上げて穏やかに微笑んだ。
『その通りかもしれぬ。未来が分岐して繁栄が長く続く事を信じ、託すという事をしてみよう』
遥か彼方からオークバンの言葉が届く。生々しく、愛おしさに溢れた声で。
『我らの結界の庇護なくとも……運命に打ち勝てよ、愛し子等』
映像はそこで終わった。
先程までの偉大な存在達は跡形もなく消え去り、私の腕輪の水晶も粉々に砕け散って原型を残さない。けれど残した空気が確かにこの戦場を一変させてしまっていた。
今の話を知って、どうして互いに剣を向けられるだろう。渦巻いていた敵意は霧散していた。
困惑と、戸惑いと。隣に立つ者同士で顔を見合わせ、知ってしまった彼方の愛を前にこれからの行動を考えない者はいなかった。
カンッ
不意に金属音が響いた。見れば竜人の一人が手にした剣を地面に投げ捨てた音だった。
その行動を見た隣に立つ竜人は、驚いて目を見開いた後に自分の武器に視線を降ろし、同じように地面に剣を投げ捨てた。
それを皮切りにして見計らった様に戦場に金属音が鳴り響きだす。皆が同じように手にした武器を手放していた。
獣人だけではなかった。人間も同じように、穏やかな顔を浮かべ武器を捨てていく。
もうこの場に武器も敵意も必要ない。万人の心が繋がっていく。望むものは同じだった。
けれどただ一人、それを受け入れられない人物がいた。
「何を……何をしているのです! 武器を取りなさい。獣人が、獣人がそこにいるのに……!」
カルペラ公爵だった。獣人討伐の象徴のような彼は、あの光景を見ても己の中の憎しみに打ち勝てなかったのだ。
けれどその言葉は最早力なく、誰も耳を傾けない。傍に立つ親衛隊に縋りつくようにして武器を持たせようとするが、最も近しい者達である筈の彼等でさえ難しい顔をして首を横に振るだけだった。
「獣人を……殺さねば」
カルペラ公爵は誰も命令を聞かない事を悟ると、怒りの表情で矢を番えて自分一人でも戦おうとする。けれどそれが放たれる前に、傍に居た兵士が彼の弓を取り上げてしまった。
戦士達の抵抗を受ければ、文官として働いて来たカルペラ公爵が敵う筈がない。
「どうして。獣人は敵で……ああ、畜生……」
誰も共感しない現実に歪んだ顔をしてその場に崩れ落ちて地面を殴りつけた。
「……ビビアナ……」
呟いた名前は娘の名前だろうか。そこには今、父親としての悲しみが残されるばかりだった。
ヴィルヘルムスが不意に顔を上げて何処か遠い所を見つめる。眉を上げて、視線の先にまるで驚くべきものを見たかの様に。
けれど私には彼の見たものが分からず不思議に思っていると、呆然としてヴィルヘルムスが呟く声が聞こえた。
「未来が、変わった」
そうか。見たのか、ヴィルヘルムス。
強張っていた口元が緩んでいく。鬨の声も、魔術の轟音も一切ないが、戦争が終結した事だけは確かだった。
私はカシュパルを見上げて言った。
「竜を連れて来た」
以前カシュパルが挑発した言葉を思い出し、口にした。何を言い出すのかとカシュパルが片眉を上げて私を見下ろす。
その表情が訳もなくおかしくて、可愛く思えて、笑いながら言葉を続けた。
「ついでに、神族の末裔の血も流れたな」
足元に落ちていた私の血が付いた矢を見せつける。消えそうな程にか細い血縁だが、私も末裔と言えば末裔だろう。
「誓いは果たされた。お前の言葉も実現した。これ以上ないぐらいに。だから」
もう私達二人、同じ先を見る事が出来るだろう。
私は此処に居る事を教えてやるかのようにカシュパルの頬に手を伸ばした。
「共に生きよう」
カシュパルの顔が笑う。けれどすぐに皆の前でありながら泣きそうになって、私を抱き上げてくる。
目を押し付けられた肩が濡れていくのを愛おしく思いながら、私はカシュパルにそっと腕を回した。




