第七十四話 過去と未来
「何故、こんな場所に来たんですか!! 貴女は馬鹿ですか!!」
背中の傷を治されながら、頭が割れる程の罵声を浴びせられる。全く彼の言う通りで、万人が私の行動を愚かだと言うだろう。
対峙する軍の間に立つなど、命を捨てるという意味である。
けれどこの命一つ賭けて二人の王を引きずり出した。やってやったという晴れやかな気持ちだった。
「もう少しだというのに、どうして!」
ヴィルヘルムスは殆ど泣きそうな声で私に怒りをぶつける。
「こうしなければ、救えないのに。セレナさん、一体自分が何をしたのか分かっているのですか?」
背中の痛みが引いたので私は気力を振り絞り、体を起こして立ち上がるとヴィルヘルムスを見た。彼は私が滅茶苦茶にした現状に絶望していた。
「……でも、その中にヴィルヘルムスがいないじゃないか」
ヴィルヘルムスには思いもよらない言葉だったのか、彼の表情が驚きに変わる。
他でもない自分の為に私が此処まで危険な事をしたのだと気がつき、ヴィルヘルムスは奥歯を噛み締めた。喜んでしまいたかった。けれど、迫り来る未来への絶望がそれを許さない。
「駄目です。私とこの者達が、犠牲にならなければ」
見えた幾つかの未来への道の内、信仰を一心に受けるヴィルヘルムス自身が新たな王の勝利の礎となるこの道以外に、人間と獣人が魔物に打ち勝つ道はなかったのだ。
けれどもヴィルヘルムスの手を私は力強く握った。何処までも見捨てず、諦めずに足掻くという覚悟を込めて。
「ヴィルヘルムス。道はある物だけじゃなくて、私達自身が作るものでもある。未来は変えられる」
それはずっとヴィルヘルムスが望んでいた、がむしゃらに守ろうとする家族への愛情だった。
なんて甘く優しい感情だろう。ヴィルヘルムスはそれに浸りそうになる自分を必死で抑え、刺々しい口調で否定しようとする。
「いいえ。そんな儚い希望には縋れません。私には、私だけが、未来が見えているのだから」
悲しいまでの使命感。人間は神族を頼り、ヴィルヘルムスはそれに懸命に応えようとしていた。
ヴィルヘルムスが守りたいと思うだけの価値が、今の彼の人生にはあったのだ。
ふとその姿が嬉しくて、場違いに口元を緩ませながら彼に言った。
「……ヴィルヘルムス、貴方がそうだ。貴方は変わった」
私の言葉に、彼の表情の強張りが僅かに解けた。
こんな貴方に会えた事。それこそが未来を変えられる証明である。
「必死に皆の為に動いてくれる今の貴方は、私の過去にはいなかった。未来は望む方向へ変えられる。変えてきた。共に変えよう。力を尽くして!」
私が一人歩んできた道の長さをまざまざと知って、ヴィルヘルムスの目が揺らぐ。
ヴィルヘルムスの脳裏に瀕死の重傷を負ったセレナの姿が浮かんだ。母から聞いた心優しき救済者は、誰からも馬鹿にされるような事を命懸けで実現する人であった。
その意思の強さがいつかの自分を変えたというのか。ならば本当に、未来は変えられるのだろうか。
「ヴィルヘルムス様!!」
怒りの声がアリストラ軍から上がった。ヴィルヘルムスがはっと正気に返りそちらを振り返れば、顔を歪ませたカルペラ公爵がいた。
「何をしているのですか! その女は獣人の味方です。敵でしょう!?」
唾を飛ばす勢いでヴィルヘルムスの奇行を咎めてくる。彼にとってカシュパルと心を交わす私は憎悪の対象そのものになったらしかった。
しかしカルペラ公爵の言葉通りには動こうとしないヴィルヘルムスに怒りが募っていく。
彼は獣の様に鼻梁に皺を寄せ、手にした弓に再び矢を番えた。矢の先が私に向けられる。
「ヴィルヘルムス様。こちらへ。その女は貴方が助ける価値もない者です」
カシュパルが矢から守るように私の体を引き寄せた。カシュパルは静かに私とヴィルヘルムスの様子を窺っていた。どのように話が転がって行っても、私と共に歩むつもりなのだと伝わって来る。
その事に大樹に守られているかのような安心感を覚えたが、カルペラ公爵にとっては簡単には射る事が出来なくなり、益々顔を歪ませるのが見えた。
戦場の緊張感は再び高まっていた。カルペラ公爵の矢が放たれれば、或いはヴィルヘルムスがアリストラ軍へ戻れば直ぐに戦闘が始まりそうな程である。
けれどヴィルヘルムスは足を動かさなかった。それどころか、カシュパルやセレナと同志であるかのように共にカルペラ公爵に向き合った。
「カルペラ公爵」
ヴィルヘルムスの声が申し訳なさそうに響く。ずっと共に傍に居た彼に、それを一言も尋ねなかったのを後悔するかの様だった。
「民を救いたい。貴方にそう言っていれば、その恨みを捨ててくれたでしょうか?」
「何を……」
カルペラ公爵は言われた意味が理解出来なくて一瞬怯む。けれど何かに気がついて顔面を蒼白にさせた。
「まさか……貴方が。貴方が、この状況を作ったのですかっ!!?」
ヴィルヘルムスは弁明もせず、ただカルペラ公爵を見つめた。
カルペラ公爵は嬉々として獣人達を攻め入ろうとした。そこに意思を交わせる者としての共感はなく、唯々憎む相手としてしか認識していない。
彼ほどの影響力のある男がそうあれば、融和の妨げになるのは明らかだった。
今まで信じていたヴィルヘルムスの裏切りに、カルペラ公爵はヴィルヘルムスの言葉の意味を深く考える事もなく怒りに打ち震える。
私に向けていた矢を今度はヴィルヘルムスへと向け、明確な殺意を込めて射った。放たれた矢は一直線にヴィルヘルムスへと差し迫り、その命を止めようとする。
けれどもカシュパルによって届く前に切り落とされ、ぱきりと割れた。
矢は地面に落ちたが、その意味を周囲に知らしめる役割は十分に果たした。
ヴィルヘルムスとカルペラ公爵は決裂したのだ。それも、二度と修復不可能な程に。
絶望の溜息がヴィルヘルムスから聞こえる。彼は私を見た。諦めた顔色で、やはり他に方法はないのだと首を横に振った。
カシュパルは私の決断を待っている。望めば再び軍を動かす事も、共に死ぬ事もしてくれるだろう。
ああ、けれどもまだ諦めきれないこの頑迷な自分をどうしたらいい。
いつかの夢が思い出された。未来を見て、ヴィルヘルムスと同じように一人絶望していたオークバンを。そしてそれを励まそうとする他の神族達の姿を。
あの夢の続きが今、無性に見たかった。
ヘレイス。……ヘレイス。
貴女があの時見たものが、知りたい。
それは叶う筈のない願いだった。けれども、ずっと共に歩んできた質素な腕輪が微かに震えた。
「何……?」
異変に気がついて視線を下げる。腕輪の水晶。過去を遡る力もなくしたそれは、今やただの透明なだけの石だった筈なのに。
今、必死に願いを叶えようとするかのように眩い光を放つ。
カシュパルが私の腕を掴むと腕輪をまじまじと見、その正体を看破した。
「魔水晶か……まだ、使い切っていない」
魔術も、神族の力も保存するという希少な石。使い切れば粉々に砕けてしまう筈の消耗品。けれども過去を越える力が残されていないにも関わらず、まだ形として残っている。
昔は映像を記録して楽しむ娯楽品だった事もあるという。大事な場面を残した事もあっただろう。
ならば、これに残されているものは?
はっと気がついて、気付けば時渡りの腕輪に向かって叫んでいた。ほんの微かに瞬く、遥か昔に残された奇跡の欠片を願って。
「見せてくれ、お前が見たものを!」
ずっとずっと共にあった水晶は一際大きく光を放ち、私に応えた。
両軍の間。私達の周囲に七人の影が現れる。
炎と鍛冶の神インカーディル。水と漁の神グレイブス。天候の神アガロ。豊穣の神ディスクス。癒し手のフェフェリロウナ。未来を見るオークバン。
そして……私によく似た、過去を渡るヘレイス。
何が起きたのか、直ぐに分かった者は少ないだろう。けれどその人ならざる姿を見て徐々に表れた人影の偉大さが浸透していく。
姿しか投影する事が出来ないにも関わらず、空気さえ澄み渡るようだった。
「……神族」
呆然と誰かが呟いた。それ以外に音はなかった。
霧が晴れ、全面戦争の為に掻き集められた山ほどの人間と獣人が、視界の端まで続いている。
しかしこれだけ大勢の人がいるにも関わらず、皆一様に現れた神話の登場人物達に口を噤んだ。
人間達の中で信仰の厚い者は手を組み、畏れるかのように崩れ落ちて祈った。どんなに神話に疎い者も、現れた人物達の威容にただ事ではないのを肌で悟った。
獣人達も遥か彼方の昔の光景に自分がどれほど稀なものを見ているのかに気付き、それとなくそれぞれの剣先を静かに降ろす。
察しの良い者はヘレイスを見て口を開け、私の容姿と比べる様に視線をさ迷わせた。
敵も味方もない奇妙な一体感。血が流れる筈の戦場に訪れた、抗えない平穏の空気。
そんな現在の我々の思いなど知る由もない過去の神族達は、オークバン一人に視線を集中させていた。
空色の目を憂鬱に浸らせて、万人の注目を浴びながら彼は口を開いた。
『やがて結界も、我らの血も途絶える時がくるだろう』
透き通るような声は、拡声の魔術など一切使用しなくとも十分に皆に響き渡った。そして皆は誰に合図されずとも、その言葉を逃さないように耳を澄ませる。
『瘴気はまた戻り、再びこの地は魔物に溢れる。やがて原野に全てが帰結する。人の繁栄は終わるのだ』
声にならない動揺が人間達の間に広まった。
何故獣人の王が人間の王と繋がっていたのか。この戦争が何の為に引き起こされたのか。
一体ヴィルヘルムスが何を救おうとしていたのか。
それを悟って。
『……ヘレイス。それでも貴女は悲しむなと言うのか?』
オークバンが私の目の前に立つヘレイスに問いかけた。
透ける彼女を通してオークバンの視線が突き刺さる。それはまるで、私自身に問いかけているかの様だった。




