第七十三話 貴女の形
カシュパルはセレナを認識した瞬間、あらん限りの力を振り絞って叫んだ。
「剣を降ろせ!!! 彼女に傷をつけるな!!!」
セレナの顔は、一部の者にしか知られていなかった。有鱗守護団の面々は困惑し、アリストラ軍という敵を目前にしてのその命令に素直に従う事が出来ない。
「防御陣形に切り替えろ!」
ベンヤミンが言い換えた事で漸く皆、態勢を変える。一方、アリストラ軍も突然現れた女騎士と、様子のおかしいカシュパルに困惑していた。
この機会を逃さず攻勢に転じるには、カシュパルの見せた一撃はあまりにも重すぎた。しかしかといって背を向けて逃げ出す事も有鱗守護団を前に決意出来ず、残された選択肢として守りを固める。
そうして両軍はセレナを前に、膠着状態に陥ったのだった。
カシュパルはこんな危険な場所に身を晒すセレナに耐え難い怒りを覚える。奥歯を噛み締めて、彼女を睨みつけずにはいられなかった。
何故、何故、貴女自身の命を軽んじる!
セレナさえ穏やかに微笑んでくれるならば、カシュパルは自分の身を惜しまず全てを捧げられた。自分以外の犠牲もまるで構わなかった。
けれどもセレナはそんな自分に立ち塞がる。破壊の欲を込めた剣を、受け止めて散らしてしまった。
セレナに剣を向けたという事実が震える程恐ろしく、そんな事をさせた彼女が今や憎くさえあった。
ほんの少しの犠牲ではないか。
これから先、完璧な統治をしてみせよう。そうでなければ未来がないと予言されたのだから、それはただ必要な事でしかない。
少しばかりの血を仕方なく流させるだけだ。たったこれだけの犠牲で両国民が救われるならば、十分過ぎる筈だ。
それさえ飲み込めない彼女の愚かさが理解出来ない。カシュパルが最も行動を読み通せない人間がセレナだった。
カシュパルはセレナを捕まえて、縄で縛ってでも大人しくさせようと決意する。宮殿に連れ帰った後は首輪と足枷を嵌めて、二度と外に出ないようにしなければ。
セレナ。貴女が間違っていた。
貴女の善性こそ世界において異質だったのだ。その揺らがぬ信念も、抱き続けた希望も、度を越えた優しさも。
だから今度は、俺に従え。
彼女の言葉に耳を傾けるつもりはなかった。憤怒を胸に抱き、誰しもを怯えさせる鋼鉄の表情をしてカシュパルはセレナを捕まえようと足を踏み出そうとした。
けれどそんなカシュパルを前に、セレナは笑った。
いつも目を奪ってきたように、鮮やかに美しく。
そして危険な場所に一人立ちつつも微塵も悲愴さを見せず、口を開いた。
「頼むよ、カシュパル」
カシュパルがセレナの願いを聞くと、疑わない目を向けながら。
「折れてくれ」
甘える様な恋人の口ぶり。あの時の幸せな時間と、同じように。
急にカシュパルは自分が酷い間違いを犯している気がした。けれど余りにも唐突過ぎて、その正体を掴めない。
酷く動揺して目を見開き、僅かに後ずさりさえした。
混乱の最中、何処かで子供の泣く声が聞こえた。如何にも無力なその声が煩わしくて、穏やかでない手段で黙らせようと視線をさ迷わせる。
こんな戦地に子供などいる筈がないのに、確かにその小さな影はカシュパルの瞳に映った。
セレナの背後に、守られるように襤褸切れを纏った子供が立っている。竜人の角を持ち、人間の耳をした黒髪のその死にそうな子供は確かに過去のカシュパルだった。
初めて見るセレナ以外の幻覚。誰にも顧みられない混血児。
その前でカシュパルに立ち塞がるセレナは、凛として揺らがない意志の強さを見せつける。
ああ。あの時もきっと。この人はこうして俺を守ってくれたのだ。
胸が詰まる。セレナを睨む事など出来なくなって、込み上げる何かを堪える為に唇を噛んだ。
カシュパルの理解と共に、子供の幻覚が役割を果たしたかの様に消えていく。
燃え尽きないと思われた業火の怒りが霧散し、代わりに一つの事実が突き付けられる。
そんな愚かなセレナだからこそ自分は生きる事を許され、そんな優しいセレナだからこそ自分は彼女を愛したのだった。
カシュパルは思わず俯いて額に手を当てた。つい一瞬前の自分の真実が覆されていく。
セレナが自分が傷つく事も厭わず守ろうとしているもの。それは、誰かに諦められた命。あの日のカシュパルそのもので。
そんな彼女を愚かだと笑う。そんな自分こそが何よりも愚かではないのか。
再びセレナを見た。今や疑いようもなく、生身の彼女である。その体は古傷だらけで、常に誰かを守って来た証だった。
カシュパルは打ちのめされながら、儘ならない恋人に弱弱しく懇願するように言った。
「……セレナ。貴女を失いたくない」
今も昔も願いはそれだけである。彼女の居ない日々は色のない世界の様で、再び戻る事など耐えられない。
けれどセレナは穏やかに笑いながら首を横に振った。
「ずっと共にいたよ、カシュパル。どんなに遠く離れても、時を越えても。お前の事を思わない時はなかった。だから風が頬を撫でた時、私はお前に囁いていて。木漏れ日が差した時、私はお前を抱いていた」
子供騙しだと笑おうとした。けれどその言葉が優しすぎて切なさが込み上げる。カシュパルの脳裏に蘇ったのは、過去の平凡な愛しき日々だった。
ぬかるむ土を踏みしめながら、朝霧の中を歩いたあの日の事。蜘蛛の巣に煌めく露の雫を貴女は綺麗だと言った。
山を越える時は強風に煽られながら、形を変えて自分達を追い越していく雲を面白いと貴女は笑った。
狩りから帰る時、遠くに見える田舎町の明かりが愛おしかった。そこに帰れば貴女が待っていたから。
世界は美しかった。セレナが散りばめた記憶の欠片に輝いていた。それは恐らく、彼女が死んでからさえ。
カシュパルが怒りで見えなくなってしまっただけで、気付けば世界は相変わらず宝石の様に輝いてカシュパルを取り巻いていた。
世界がセレナを奪ったのではない。
セレナが、何もなかったカシュパルに眩い世界を与えてくれたのだった。
希望に満ちた未来など、最早カシュパルには信じられなくなってしまっていたのに。セレナだけはそんな世迷い事を今も尚心に抱いて実現させようとしている。
何もかもを救おうとしていた。人間も、獣人も、ヴィルヘルムスも、カシュパルも。
誰も彼も諦めた何かを、この人だけは。
それは果てしなく孤独な闘いだった。人間からは不審を向けられ、獣人からは剣を向けられ。
きっと昔も同じだった。知人などいる筈のない場所で、国の命運をその小さな背中に背負って。
獣人の国でカシュパルが負う筈だった差別を受け、傷だらけになりながら魔物を狩り。やがて訪れた安寧にも浸る事なく再び全てを捨てて。
見返りもなく、理解もされず。それを誰よりも知っていた筈なのに。
それなのにどうして俺は今、セレナを一人であんな場所に立たせてしまっているのだろう。
その事に気がついた瞬間、あまりにも彼女の思想から遠く離れた場所に立つ自分が急に厭わしく思えた。
いつか全部壊してやろうとしていたのに。彼女の善性がカシュパルの暴虐を絶対に許さないのなら、本当にカシュパルはセレナから遠い所に行ってしまうところだった。
運命や世界に対する復讐心は霧散して、腕の力が抜けていき剣先が無気力に地面へと向けられる。
霧の晴れた空からは雲の切れ端から光が射して、その眩さに目を細めながら自分の手を見た。
つい先ほどまで柄を強く握りしめていたのに、今や軽く誰かに叩かれただけで剣を落としてしまいそうである。既に心は此処にあった。
「……そうか」
カシュパルは独り言の様に呟いた。
「俺は貴女を、忘れていたのか」
貴女の魂の形。他人を愛すその善性を。それがセレナだった。それこそがセレナだった。
見捨てられた命であってもセレナが生かすと決めたなら、カシュパルだけは彼女の力になる事をかつて誓っていたのに。
カシュパルはセレナを見失っただけで、寄り添う事をしなくなってしまった。
あまりの自分の馬鹿馬鹿しさに、自嘲で口元が勝手に緩む。まだ血を吸っていない剣をゆっくりと鞘に収めた。
言葉が届いたセレナが嬉しそうに頬を紅潮させる。
「カシュパル……!」
セレナは生きていた。
カシュパルの思う通りに何てならない意志の強さと、カシュパルを生かしたその愚直さで。
愛おしい人は今、確かに、確かに、カシュパルの目の前に立っていたのだった。
王の仮面が崩れていく。悪夢が割れて砕ける音がした。
貴女がこんなにも鮮明に生きている。それ以外に優先すべきものはない。
「……俺の、負けだ」
そもそもカシュパルがセレナに敵う筈がなかった。ずっとそうだったではないか。
セレナがカシュパルに弾ける様な笑顔を向けた。これからがどれだけ困難か気がついていたが、受け入れるしかない。
セレナが生きている。その生き様に合わせるのは、カシュパルの役割だ。その為の自分の力と能力だった事を思い出した。
有鱗守護団は信じて来た王の異様な姿に動揺を隠せない。人間を殺そうと軍を進めて来た王が、人間の女の前であり得ない事を言っている。
そんな彼等にベンヤミンは彼女の正体を告げた。
「あの人が、宮殿の主だ」
竜人達は驚いて騒めいたが、次第にカシュパルの行動の意味を悟りだした。しかし一介の女に揺れ動く王に失望をしていく。
王を信じて命懸けで戦おうとしていた。それをこんなただの女の為に、投げ出そうなどと言語道断であった。
ベンヤミンは皆の不満を理解したが、どうしようもなかった。
カシュパルはセレナをせめて自分の後ろに隠そうと足を進めた。
「陛下」
ベンヤミンの言葉に少し振り返り、自分について前進しようとした軍を手で制した。有鱗守護団が動けば、アリストラ軍は恐慌して攻撃を始めるだろう。
だから無防備を演じて、ただ一人でセレナの傍へと進んでいく。けれど、その前に彼女が背中から蹴られたかのように揺れて顔を強張らせた。
「セレナ?」
馬に乗っていたセレナの体が地面に落ちて行く。慌てて駆け寄り抱き留めた背中には、一本の矢が突き刺さっていた。
彼女に庇われていたアリストラ軍に視線を向けた。セレナを挟んでカシュパルと正反対の死角の位置に弓を手にした一人の男がいた。裏切り者を見る様な憎々しい目つきでセレナを見ている。
その恰好から瞬時に誰であるかを推察する。獣人を憎むヴィルヘルムスが消すべきだと判断した者、カルペラ公爵だろう。
けれどセレナを射ったその男にさえ、カシュパルは剣を向ける事が出来なかった。セレナが苦痛に顔を歪めながらもカシュパルの腕を掴み、首を横に振って見上げてくるから。
セレナに寄り添う為には、この込み上げる怒りを抑えなければならなかった。そうしなければ、もうセレナは幻覚でさえカシュパルに微笑まないだろう。
カシュパルは今やその事を痛い程に気がついていた。
だから剣を握る代わりに腹から絞り出して声を張り上げる。
「ヴィルヘルムス!!」
獣人の王が人間の王の名前を呼ぶ。
とうとうあの王は頭がおかしくなったに違いない。そんな空気が獣人と人間の双方に漂う。
けれど並ぶアリストラ軍を掻き分けて、必死で寄って来る者がいた。彼は人を押し分けて、皆が注目する二人の前に飛び出した。
ヴィルヘルムスだった。誰よりも目立つ白い肌の彼は、わき目も振らずカシュパルとセレナの元に駆け寄ると背中の矢を取ってその癒しの力を揮う。
あり得ない光景に種族の区別なく皆が絶句した。何かが起きていた。
無謀にも両軍の間に立ち塞がった一介の女騎士を、只の愚か者だと嘲笑う者は最早誰も居なかった。




