第七十二話 心のままに
馬が森の中を疾走する。オレクの用意してくれた馬はどうやら相当な良馬だったようで、私の後ろの護衛達は遅れまいと必死で馬を操っていた。
その中に一人、灰色の髪をした狼獣人が混じっている。そう、オレクが声をかけてくれたのはリボルだった。
紅盾として暫くカシュパルと共に行動していたが、どうやら仲違いする事件があったらしい。
それで閑職へと回されていた彼は、私を見た瞬間涙を流して喜んでくれた。そして次いで顔を歪め、謝って来た。「アイツを支えきれなくて、ごめん」と。
謝るのは私の方だった。長い間、カシュパルの事をオレクやリボルに任せてしまったのだから。
彼等がいなければ、カシュパルはもっと卑劣な手段で王になっていたに違いない。今民達から尊敬される王としていられるのは、間違いなくずっと共にいてくれたカシュパルの友人達のお陰に他ならなかった。
心強い味方を迎えた私は、ヨナーシュ軍に鉢合わせないように森の中を駆けていく。ヨナーシュ軍の陣営を迂回してアリストラ軍へと向かおうとしていた。
そんな中、馬が何かを感じたように急に遅くなった。リボルの馬が私の横に付き、彼の独り言の様な呟きが聞こえる。
「霧……?」
前方から霧が立ち込め、あっという間に私達を飲み込んでいく。不自然なその霧は少し先も見えなくさせ、進む先を惑わしてしまった。
この霧はヴィルヘルムスの仕業に違いない。敵を惑わせる不自然な濃霧。過去に見たのと同じ力である。
仕方なく馬を止めると、オレクにつけられた護衛達が首を横に振る。
「セレナ様、これ以上進めません。これでは道が分からず迷うのは必至です。我々自身が逸れる危険さえあります。戻りましょう」
此処まで来たのに!
奥歯を噛み締めた。本当にこれ以上は無理なのか。心は矢のように飛んで先に進みたいと願っているのに、霧は濃くて少し先も見えなかった。
「なら……お前達は戻れ」
そう言ったのはリボルだった。はっとして彼の顔を見ると、自慢げに自分の鼻を指先で突いてみせる。
「俺の鼻なら分かる」
「しかし……!」
護衛達は私の安全を心配してどうにか翻意させようと声をあげた。しかしそれに構わずリボルは私の馬の後ろに移動し、二人乗りの姿勢になる。
「こうすれば、逸れもしないだろ」
そう言って、足で馬の腹を強く蹴った。駆けだした馬の後方では護衛達の騒ぐ声が聞こえたが、幾ばくもしない内に霧の中に消えて行ってしまう。
「リボル、ありがとう」
「いいんだ。俺もオレクも、紅盾だ」
どういう意味か分からず疑問を抱いていると、リボルが馬を操りながら説明してくれた。
「紅盾が出来た頃のメンバーは、カシュパルから設立理由を聞いている。貴女を守る盾を作りたいと。まあ、当時俺達はカシュパルと一緒に仕事が出来れば何でも良かったんだけどな。今は本当に、それがやけに胸にくる」
木々を追い越しながら、リボルの言葉に耳を傾けた。
「カシュパルは星だ。アイツを慕う奴、畏れる奴、嫌う奴……色んな人がいたが、無関心でいられる人はいなかった。俺はそんなカシュパルが本当に自慢だった。大事だった。でも、でも、俺達じゃあ駄目だったんだよ、セレナさん」
前を向いているからリボルの顔は見えない。けれど、きっと酷く悲し気な表情をしている事だろう。手綱を持つ手がこんなにも強く握り絞められているのだから。
「どんなに顔で笑顔を作っていても、怒っているんだ。そういう匂いがいつもカシュパルから漂ってる。怒鳴り散らして目の前にある人の首を絞めていないのが、不思議なぐらいだった。そんな濃い匂いがずっと」
リボルの嗅覚は本当に飛びぬけていた。人の感情さえ読み取れていたらしい。リボルが遠ざけられた理由が分かってくる。
きっとカシュパルを心配して無謀な事があれば止めさせようと、口を出してくれたのだろう。けれど時に、そんな本心からの忠告こそ何よりも痛く感じられる。
私はそんなリボルが傍に居てくれた事が心から有難かった。
「……ありがとう。私とカシュパルの友人でいてくれて」
少し湿った笑う気配が頭上からした。
「カシュパルと、セレナさんと、オレクと、俺と、他の仲間達も呼んで宴会でもしよう。昔みたいに」
「ああ」
会話している内に、遂に馬は森を抜けた。開けた場所だったが相変わらず霧に包まれて何も見えない。
闘いの声が聞こえて来て、戦争が始まっている事を知ってしまった。
「間に合わなかった……!?」
絶望しかけた私を、リボルの冷静な声が引き戻した。
「いや、血の匂いが少ない。……変だ。まるでまだ、大規模な衝突が起きていないみたいだ」
ヨナーシュ軍が前線を下げてアリストラ軍を誘い込もうとしていた為に、戦いが始まっていながらも本格的な前線の衝突に至っていなかったのである。
そんな事を知る由もなかったが、私はその言葉で希望を捨てずに済んだ。
リボルはその鋭い嗅覚で的確に兵士達を避けて進んでいく。戦太鼓の音や人の怒鳴り声だけが霧の中からすぐ近くに聞こえた。
「アリストラ軍はまだか……!?」
「もう直ぐだ!」
不意に霧が晴れていく。暗かった空から光が挿して、覆い隠されていた全てのものを露わにした。
そして私は、自分が思っていた以上にアリストラ軍の中枢近くにまで来ていた事を知った。
視線の先のアリストラ軍に、見間違えようのないヴィルヘルムスの白肌が見える。そしてそれに対峙する、カシュパルが率いる有鱗守護団が見えた。
後少し。ほんの、後少しなのに……!
馬が急に鳥のように早く走り出した。それと同時に背中にあった体温が消える。リボルが危険を承知で馬から飛び降りてくれたのだった。
はっとして後ろを振り返ると、彼は励ます様に笑いながら言った。
「行け!」
私は頷くと前を向いた。もう、振り返らなかった。
カシュパルの正面に辿り着くと、駆け続けた馬を棹立ちにして止める。カシュパルの剣は魔力を存分に込められて震えていた。
解き放たれれば、山ほどもある魔物の首を落とす斬撃が生み出される事だろう。
「カシュパル……頼む。剣を収めてくれ」
カシュパルは少し眉を寄せて、けれどそれ以上の反応は見せなかった。まるで私の存在を気のせいだったかの様に、平然としている。
そして剣を振り上げ、その満杯に魔力が込められた術を私に向かって振り下ろした。
「陛下‼ 駄目ですッ‼‼」
カシュパルの隣に居たベンヤミンが血相を変えて止めようとしたが、既に遅い。
仕方なくカシュパルがくれた魔水晶を掲げた。危険な場所に来るのだ。惜しまず持って来るぐらいの事はしていた。
カシュパルの攻撃が展開された防御魔術によって防がれ、割れて甚だしく地面を穿っていく。轟音に耳がやられ、馬が怯えるのを必死で宥めた。
取り巻く土煙が風に流れて、カシュパルの愕然とした表情を目の当たりにする。
私は彼の見ている景色の片鱗を知った。夢と、幻と、酷く不安定な冷たい世界。
けれどまだ届くだろう。私が此処にいて、お前も此処にいるのだから。
「……セレナ……?」
呆然としたカシュパルの声が聞こえた。紫の目が私を確かに認識する。
愛してくれないか。こんな私を、丸ごと。
捨てられず、諦められず、お前の前に立ちはだかりさえする。こんな私を。
「そうだよカシュパル。私だ」
お前の悪夢を、終わらせに来たんだ。
清々しく風が吹き抜けていく。数える事も出来ない軍勢の前で全員の注目を浴び、しかし世界に二人しかいないかの様に静かだった。
私は漸く、愛した男に笑いかける事が出来た。




