第七十一話 正しい人
宮殿の応接室では一人の商人が呼びつけられ、相手が誰かも分からないまま扉を開こうとしていた。
入室の許可をされ、扉を開く。その先で待っていた見覚えのある顔に、ケペルは雷に打たれたように硬直した。
「セレナさん……?」
呆然とした様子で聞いてきたケペルに、私は首を縦に振った。恐らく該当者の少なさ故に強引に連れて来られただろう彼は、私を見て信じられないとばかりに大きく目を見開いている。
時を超えた事を知らなければ、こんな反応にもなるだろう。宮殿で限られた人しか会わない私に、自分の特異性を再認識させる。
「そんな、馬鹿な。だって、あれから何年も……」
ケペルは以前よりも老いた容姿になっていた。その理由は単純に時を重ねたからだけではなく、精神的なものもあるに違いない。
人間と獣人の友好こそが願いだった彼にとって、最近の両国の関係は苦しいものだっただろう。
「幽霊でしょうか? それとも私は今、夢の中ですか?」
私は首を横に振り、怯え切ってしまった彼に近づいてその手を取った。
「いいや、今は現実だよ。ケペル。少しばかり複雑な事情があるんだ。けれど、今も昔も人間と獣人の平和を願うだけの人間である事には変わりがない」
「人間と獣人の、平和……」
ケペルは私の言葉で怯えよりも悲しみの感情が勝ったようだった。眉を八の字にし、ただ疲れた表情で項垂れる。
「あれから……状況は随分と悪くなりました。もう以前の様にアリストラ国に入る事も出来ません。昔手に入れた商品を少しずつ売っているような状況です。人間の友人達とももう久しく会えていないのです」
彼は信念を持ち、長い間一人で両国の為に人知れず努力し続けていた。ケペルもまた、剣を用いずに平和に向けて戦う人であった。
そんなケペルは今、どうにも出来ない状況に打ちひしがれてしまっている。
「私が止める。両国が血を流す前に」
「……セレナさんが?」
「ああ。私は獣人の王の恋人で、人間の王の家族だから」
今度こそケペルは尋常でない程驚いてしまったようで、腰を抜かしてしまった。床に尻餅をついて、口を大きく開閉させて言葉も出ない。
私自身も言いながら、大層な立場になってしまった事に思わず呆れた笑いが出た。昔は剣一つで魔物を狩るだけの人間だったのに。
随分と遠くに来てしまった。けれど、未だ心にはあの時と同じ希望が宿っている。
私は哀れな彼に膝をついて視線を合わせ、どうしても受け入れてもらわなければならない願いを言った。
「此処から出るのを助けてくれ。カシュパルは私が傷つくのを恐れるあまり、この場所に閉じ込めてしまった。けれど、今外に出なければ戦争を止められない」
「セ……セレナさんが、本当に止められるんですか?」
ケペルの唾を飲み込む音が聞こえた。疑うような眼差し。けれどその更に奥に、希望の光が宿っている。
「止める。止めてみせる。私にとって人間も獣人も大事だから」
開戦間際に随分と馬鹿な事を言っている。けれど目の前のケペルもまた、危険を承知で人間の国に行き続けた、馬鹿な商人だった。
私とケペルは今、互いに同じ目的を持つ戦友である事を認識した。
長い間孤独に戦ってきた彼は、この絶望的な状況で見えた唯一の希望に熱いものが込み上げるのを抑える事が出来なかった。
涙が浮かんだのを直ぐに指で拭い、力強い目つきで私を見上げる。
輝くばかりの不屈の精神。これを持つ者は希望を見つけたならば、もう誰にも止められない。
「なら、全力でお手伝いいたします。私を呼んだという事は、魔法薬が必要なんでしょう?」
「そうだ」
ケペルは自分の懐に手を入れると、魔法薬の入った小さな小瓶を私に押し付ける勢いで手渡した。
「まずはこれをお渡しします。けれど、脱出には準備が必要でしょう。宮殿の門から抜けた後の逃走の用意を私がします」
今にも走り出しそうな彼を心強く思う。彼を呼んだのは間違いなかった。危険を承知でアリストラ国に長年足を運び続けた人だ。その強固な意思は、今更確認するまでもない。
「ありがとう。それと、すまない。巻き込んでしまって」
「謝らないで下さい。セレナさんは巻き込んだのではなく、私を拾い上げてくれたんです。夢を貴女に託そうとしているのは、寧ろ私です」
そう言ってくれた事が有難く、同時に申し訳なく思う。本当に命を懸けさせようとしているのだから。
それから私達は密かに計画を進めた。私は内部の逃走経路の確認や、常に傍にいるテレーゼを眠らせる薬の用意などを。ケペルは門を出た後の脱出方法を準備する。
ケペルが全ての準備を終えたと言ったのは、カシュパルが戦場に旅立って行った翌日の事だった。
◆◆
急いてしまう気持ちを抑え、私は使用人の恰好をして門の方へと急いでいた。
慣れない兎の耳が付いて、髪色も淡い茶色へと変わっている。これは最近新しく入った使用人と同じ種族と髪色である。
宮殿内の掃除が仕事だった者を、あえて文句をつけて変えさせたのだ。その人から奪った通行証を握りしめながら、不自然でない程度に早足で歩く。
テレーゼと新人の使用人が眠らされて私の自室内にいるのに気づかれる前に、この門を出なければならない。
焦る気持ちを抑え、門番に素知らぬ顔をして横を通ろうとした。
「通行証を」
「……はい」
通行証を門番に手渡す。慣れた手つきでそれを一瞥すると、彼は直ぐに私に返した。何百人も行き来する場所だ。一人に然程時間はかけない。
「この時間に出る用件は?」
予め予想された質問である。私は事前に準備していた通りの文言を口にした。
「あの、商人の方が忘れ物をされたようで……あの方が気にされて直ぐに追いかける様にと」
その為にケペルに少し前に来てもらったのである。その事を思い出した門番は違和感を覚えなかったようで、頷くと許可を出してくれた。
「行ってよし」
内心の安堵を気付かれないように軽く頭を下げ、その場を離れて行く。心臓が疲労感を覚える程早く動いていた。
脳内に宮殿の外の地図を思い描きながら歩いていく。広々とした道が続き、何処も人々が忙しなく行き交っている。
私が宮殿内で限られた人にしか会わないようにされていたのは、今は幸運だった。
ケペルの幌馬車を見つけると、誰にも見られないように注意しながら一瞬で中に乗り込んだ。
「……出ます」
御者台の方からケペルの声がして、幌馬車が動き出す。布で外から遮断された内部には、商人の妻に見える様な服が揃えられていた。
それに着替えると、僅かに空いた布の隙間から外を覗く。
少しずつ幌馬車が宮殿から遠ざかって行く。街中にやがて到達し、少し速度が上がった。
賑やかな街並みの中に警吏隊の姿を見る度に、心臓が跳ねあがる。きっとケペルも同じような気持ちでいる事だろう。
馬車を操る彼が自然体を上手く演じられている事を願うしかない。
首都には検問所があった。通達が行って閉ざされる前に出なければ、直ぐに警吏隊に捕まってしまうだろう。
検問所の馬車の列に並び、順番を待つ。一台一台が通過していくのが、非常に遅く感じられた。
この検問さえ抜けられれば、後は馬で駆けて行くだけである。大丈夫だと自分に何度も言い聞かせる。
また一台、通り抜けて前に進む。後一台で私達の番だった。
「それじゃあ、次の者……」
とうとう呼ばれた。幌馬車が検問所に到達する。決まりきった文言のやり取りをケペルが行う。
本当の商人なのだから違和感などある筈もない。遂に先に進む許可が下りて、検問所を通り抜けようとした時の事だった。
「止まれッ!」
複数の騎兵が駆け寄って来る気配。明らかに検問所を止めようとしていた。顔が強張っていく。
駄目だったか……!
私は何も出来ないのか。ケペルにこんな事までさせてしまったのに。
ケペルは覚悟を決めたらしかった。馬に鞭を振り、全力で幌馬車を走り出させる。けれどそれが無駄な抵抗である事はよく分かっていた。
馬車が馬に勝てるはずがない。街道を幾ばくも行かない内に止められて周囲を取り囲まれる。
幌馬車の布が取り払われ、中を覗いて来たのは随分と久しぶりに見るオレクだった。
昔に見た幼い彼とは随分と様変わりしてしまっていた。立派な恰好をしていて、それが違和感のない程に顔には責任を負う者の険しさがあった。カシュパルにどれだけ重宝されているかが分かる。
思わぬ人の登場に思わず息を止めて見入っていると、彼は困った顔をして聞いてきた。
「セレナさん。何処に行くんですか?」
「オレク……」
カシュパルの右腕だった彼は、間違いなく私を止めに来たのだ。けれど諦める事は出来なかった。
「ヴィルヘルムスの場所へ行く。そして、ヴィルヘルムスとカシュパルを止める」
夢物語をオレクは笑い飛ばした。
「は、冗談でしょう。もう兵士達は陣営を張って睨み合ってますよ」
「本気だ」
「戦場で貴女に何が出来る。……戻って下さい」
私はケペルが用意していた剣を手に取り抜き放つと、オレクに向かって構えた。
「どいてくれ。もう一度言う。本気だ」
オレクの様子が激変した。穏やかに説得しようとしていた顔は怒りの形相へと変貌する。
「貴女は……! またカシュパルを地獄に落とすつもりですか!!? セレナさんを生き返らせる為にアイツがどれだけの事をして来たか、知らないんですか!?」
彼の為を思うならば馬鹿な真似は出来ない筈だと、激しく私を罵って来る。
委縮してしまいそうになる剣幕にも負けず、間髪入れずに言い返した。
「知っているさ! けれど、今も昔も命を懸けずにいた事なんてなかった! カシュパルを育てながら、生かすか殺すか殺されるか考え続けて生きてきた!!」
思わぬ激しい反論とその内容に、オレクは絶句した。どれだけ彼を可愛がって育てたかを目の当たりにしていたからだった。そして同時に、唐突過ぎて理解出来なかった。
「人が生き返る訳ないだろう。私は神族の腕輪を使って、過去に遡っていた」
オレクの目が見開いていく。時渡りの腕輪。それはアリストラ国を攻めいるにあたり、神族の能力を調べていた時に初めて得た知識である。
適合者を一人だけ過去に飛ばすことが出来る神族の奇跡の欠片。
「あの子がいずれアリストラ国に攻め入る運命を知っていた。変えようと努力していた。そうでなければ殺さなければならなかった。気づけば愛して殺せなくなってしまった。けれどまだ、まだ、止められる。止めてみせる」
オレクは時を越えて、漸くセレナがあれ程までに必死でカシュパルを養育した理由を悟った。
誰よりもカシュパルを可愛がっていたセレナが、まさかそんな覚悟を裏でしていたとは思いもよらない事だった。険しい顔をしつつ嘆願に耳を傾ける。
「全部、全部救ってみせるから。だから……頼む。行かせてくれ」
人間であるセレナが老いずに目の前に居る事実。オレクはその愚直な正義感にかつてのセレナを確かに見た。一度顔を歪め、額に手を当てる。
「貴女は……本当にセレナさんなんだな」
私が不在の間、カシュパルを支え続けて来たのはオレクだった。カシュパルの心の傷を、最も間近で見続けたのが彼である。
そんなオレクだからこそ、私の言葉が何処かに響いたようだった。苦悶の表情でオレクは私に言った。
「それでも行かせられない。俺にとって、貴女の命は彼等よりも重い」
オレクはよく分かっていた。目の前の人が再び失われれば、カシュパルはオレクでさえも許さないだろうと。彼に従う部下達を含めて、相当な人数が粛清されるに違いなかった。
今やオレクは多くの部下の命と生活を担っている。いくら昔馴染みの良く見知った人であっても、そんな夢物語に付き合う訳にはいかなかった。
硬い表情のオレクに対し顔の強張りをあえて緩め、幼い時の様に優しく語り掛けた。
「カシュパルは、アリストラ国を支配しなければ私が消えてしまうと思っている。ヴィルヘルムスがそう仕向けた」
「……それで?」
「分かる筈だ。カシュパルはその為にこの戦争で、人間の心を折る程に残酷な事をするに違いない。そして人間も獣人も、絶対的な支配下に置く筈だ。今以上の権力を手に入れて、きっと恐ろしい程カシュパルを中心に全て上手く回るんだろう」
その光景が目に浮かぶ。彼は人を依存させるのが上手だ。いつも、どんな場所でも、カシュパルが望めば従う者はいくらでも存在した。
魔物狩人としてアリストラ国に居た時でさえそうだったと聞く。私が教えた覚えはないのだから、生まれ持っての才能に違いなかった。
「……けれどいつか、私の寿命がくる」
その一言に、オレクは小さく息を呑んだ。
「カシュパルはその時、全てを壊すよ。目につく者が片端から煩わしく思うに違いない。自分が悪夢の底にいるから。許せないんだ」
かつて見た故国の滅亡。今度は獣人の上にも等しく降りかかるだろう。
きっとこの場にいたのが他の者であれば、通じない説得だった。けれどいたのはオレクである。
幼少期からずっとカシュパルの傍で、支え続けた彼の友人だった。
オレクは歯が割れてしまいそうな程に強く噛み締め、床に視線を降ろす。
既に気がついていた。カシュパルの目的も本質も、王とは遠い所にあると。そこには負の感情が渦巻いている。
けれど余りに彼の持つ能力が素晴らしくて、此処まで耳と目を塞ぎただ背中を追って来てしまった。何処までも登り詰める姿を、唯々ずっと。
オレクにとってカシュパルは夢で、憧れそのものだったから。
私は眉間に皺を寄せたオレクに対し、届く事を祈りながら言った。
「悪夢を醒まさせなければ。これがきっと、最初で最後の機会だ」
それから暫く二人の間に沈黙が流れた。オレクにとって知った情報も多ければ、気がついた情報も多い。
それを一つ一つ丁寧に思考し、自分の物にしている様だった。
飽きる程の時間の後に、オレクは漸く口を開いた。
「……貴女は、正しい人だった。いつもカシュパルと俺に人として正しい事を教えていて。自ら実践してもいた。疲れる生き方だと思ったけれど、そんな貴女を姉の様に感じていた」
オレクが静かに顔を上げる。目には力強い光が宿っていた。
「その正しさが、これからも続いていく事を切に願う」
「じゃあ……?」
「決して死なないと約束して下さい。後悔したくはないので」
オレクは腹を括った顔をして私に近づくと、向け続けていた剣をそっと手で下に降ろさせた。
「護衛を付けます。これは諦めて受け入れて下さい。信書の一つでも偽造して持たせてあげますよ。それを持っていれば、辿り着く前に捕まったとしてもそう簡単には殺されないでしょうから」
「それは……」
重要書類の偽造は重罪だった。首を飛ばされてもおかしくない。心配する私の表情を見てオレクは苦笑した。
「首都を任せて行ったアイツが悪い」
幼い頃よりもずっと、カシュパルを近くに感じる言葉である。それから思いついた様に口を開く。
「此処で俺はセレナさんの不在を誤魔化さなければならないから……代わりに、そうだな、懐かしい顔を呼んであげますよ」
「懐かしい顔?」
オレクは答えずに、悪戯に笑った。




