第七十話 つきつけられる現実
カルペラ公爵はヴィルヘルムスの力を目の当たりにして、高揚していた。耳にしてはいたが、実際に目の当たりにするのは初めてである。
これならば、獣人達はなす術もなく敗走するだろう。濃霧の中に、どれだけの兵力が隠されているのか全く分からないのだから。
一方アリストラ軍は太鼓や笛の音により互いの位置を正確に把握していた。
アリストラ軍の最も奥に配置されたこの場には、ヴィルヘルムスの姿もある。最後の王族こそアリストラ軍の士気と作戦の要であった。彼の首を取らせる訳にはいかない。
「進軍させます」
ヴィルヘルムスは静かに、物憂げな表情で頷いた。
ヨナーシュ軍の正面を突破させるより、此処は奇襲の心配がない川側から陣形を突き崩すべきだろう。
「西に兵力を集中させよ」
伝令兵がカルペラ公爵の指示を伝えに走っていった。そして伝える太鼓の音が響く。事前に十分訓練させた通りの素早い伝令だった。
霧の中ではどうしても動きが鈍るのは仕方のない事だった。けれども最小限になるように準備はしているので問題はない。
いくら戦闘能力が勝る獣人達とはいえ、視界を奪われて襲われればひとたまりもないだろう。
陣形というものは、一度崩れてしまえば脆いものである。霧の中を襲い、ヨナーシュ軍の陣形の何処かに穴を開けられれば後は兵力で押し切れるに違いない。
そんな事を思いながら、衝突した合戦の声を待つ。しかしどれだけ待っても聞こえてこない。
不思議に思っていると、別の伝令兵が戦況を伝えに来てその疑問を解消した。
「ヨナーシュ軍が少しずつ後退しているようです」
思わず片眉を上げる。どうやら霧の心理的圧迫は予想以上の効果を齎したようだった。
一先ず前線を下げ、兵力の損失を防ごうという考えだろう。しかし、その思惑にこちらが乗る筋合いはない。
「ならば、追いつく程に速度を上げなさい」
対策を練られる前に、素早く陣形を崩しきる。奇策というものは、始めの最も効果がある内に大勢を決めるべきだった。
「我々も合わせて前進しますか?」
兵士の問いかけに、カルペラ公爵は頷いた。前線から離れ過ぎれば、状況の把握が難しくなるのだから。
逃げるヨナーシュ軍を、アリストラ軍が追って行く。そうして暫く全体を押し上げていると、川の方から悲鳴が上がった。猛々しい合戦の声とは違う不穏な声である。
「一体何が起きている……!?」
予想外の事態は戦場において致命傷となり得る。カルペラ公爵は歯噛みして、その方面へ伝令を飛ばした。
仕方なく他部隊の前進の足も止める。この遅れに嫌な予感がしたが、脳内での計算では深刻な問題にはならなかったのでその僅かな予感に耳を貸す事はしなかった。
その内に顔色を真っ青にした伝令兵がカルペラ公爵の元に駆けこんできて報告した。
「大変です! リヴァイアサンが……川に居ます!」
川に住む大型の魔物の名前に、周囲に動揺が広がった。近寄るだけで襲って来る極めて狂暴な魔物である。
この川の下流に生息しているのは知っていたが、こんな場所に移動してくる習性はない。
不自然な魔物の登場に、カルペラ公爵はバルターク・カシュパル王の嘗ての職業を思い出した。
アリストラ国でも名の知れた魔物狩人だった。魔物の特性を熟知し、荒々しい魔物をもこの場へと連れて来たのだろう。
これでは、川側に近づくのは危険だ。
カルペラ公爵は苦々しい表情をして、新たな指示を伝える。
「川から離れましょう。仕方ありません、森の方へ寄せます」
川側からの攻撃は諦めるしかない。ならば次はどうするか。東側へ兵力を移動させるのは時間がかかり過ぎる。
霧の動揺がある内に相手の喉元まで攻めたかったが、一旦前進を止めてこちらの陣形を立て直す事を優先すべきだろう。
そんな風に考え指示を出した時の事だった。極めて近い場所から警告の笛の音が聞こえた。
あり得る筈がない。自分とヴィルヘルムスのいるのは全軍で最もヨナーシュ軍から離れた場所である。
血の気が落ちて行く。何かが、得体のしれない何かがカルペラ公爵のすぐ傍に迫って来ていた。
「ヴィルヘルムス様! 霧を……霧を、晴らしてください!」
カルペラ公爵の切羽詰まった叫びに、ヴィルヘルムスは不自然に落ち着いた様子で首を縦に振った。
「……分かりました」
アリストラ軍を覆っていた霧が晴れていく。
カルペラ公爵は必要以上に前進してしまっていた自軍の位置に気がついた。ヨナーシュ軍は伝達用の太鼓の音も封じ、重装兵をあえて最前線よりも後方に配置させる事で移動の音を意図的に小さくし、距離感を惑わせアリストラ軍を誘い込んだのだ。
そして目視出来る程の近さで、竜人達によって構成された最強と名高い有鱗守護団の存在を目の当たりにする。
バルターク・カシュパル王は黒髪に紫の目を持つ混血児であるという。けれどそんな情報など知らなかったとしても、一目見て誰が彼であるか分かった。
最前列の、あの男である。
堂々として、相手を存在だけで挫く威圧。獲物を前にして浮かぶ愉悦と殺意。カルペラ公爵の脳裏には覇王という単語が自然と浮かんでしまう。
「あ……」
頭が真っ白になる。有鱗守護団の存在は知っていた。十分に警戒していたつもりだった。霧を作る前に、しっかりとその位置を確認していた筈だった。
けれども現実はカルペラ公爵に容赦をしない。それは予想以上の、濃霧などものともしない恐るべき進軍速度だった。
カルペラ公爵はこれから自らに起きうる、悲劇的な運命を悟らざるを得なかった。それでも叫んだ。自分が死んでも、守らなければならない人が傍に居た。
「ヴィルヘルムス様を守れッッッ!!!」
号令に弾かれた様に兵士たちが一斉にヴィルヘルムスの前に立つ。彼さえ生きていれば、アリストラ国はいくらでも立て直せるのだ。
アリストラ軍全体が事態を把握し、慌てて軍勢を戻そうとする。しかし当然正面には向かい合うヨナーシュ軍がおり、簡単には引き返せない。
僅かな希望があった。竜人達の数は然程多いように見えない事である。ならば懸命の抗戦によりヴィルヘルムスだけは逃せられるかもしれない。
それは竜人の強さを知っていれば、鼻で笑ってしまいそうになる程の愚かな希望だった。
最後の王族であり信仰心の拠り所であるヴィルヘルムスの首が掲げられた瞬間、アリストラ軍の心は挫かれるに違いなかった。
ヴィルヘルムスは腕を引かれ兵士達の壁に隠される前、遂に約束を果たそうと来たカシュパルを垣間見た。
不可能にも思える様な事を、幾つも実現してこの場に立つ男。
きっと、ヴィルヘルムスの願いも叶えてくれるだろう。
『羊』は密かに口角を上げる。それは生贄の、静かな覚悟の表れだった。
◆
カシュパルは有鱗守護団を背後に従え、アリストラ軍の前で嗤った。
惨く、みすぼらしく、悲劇的に死んでいけ。自分達の無知と愚かさを噛み締めながら。
剣に魔力を込めた。カシュパルが放つ一撃を合図に、有鱗守護団が一斉に襲い掛かる手筈である。
華々しい開幕にしてやろうと、耐えられる限界まで魔力を込められた剣が手の中で微かに震えだす。
それを天高く掲げようとした時、カシュパルの視界の端にあり得ない者が映った。
馬に乗り、アリストラ軍と有鱗守護団が睨み合う空間の真ん中を必死の表情で駆けて来る。
宮殿の奥、最も安全な場所にいる筈のセレナだった。
彼女は丁度カシュパルの正面で馬を棹立ちにして止める。アリストラ軍を守るように真剣な表情で彼に対峙した。
それは間違いなく……セレナの幻覚だった。この場所にいる筈がない。
何故邪魔をする。幻覚が心の代弁者だとするならば、まだ迷いがあると言うのか。
目の前の幻覚は本物のセレナが嘗てそうしたように、力強い視線でカシュパルを見ながら口を開いた。
「カシュパル……頼む。剣を収めてくれ」
それは大きな声ではなかったが、カシュパルの耳が聞き逃す筈がない。あまりにも彼女らしく、思わず眉を顰めた。
本当に、まるで本物の様な事を言うものだ。
けれどこれ以上不自然に剣を止める事は出来ない。カシュパルは幻覚を見ていると知られてはならないのだから。
これまで、カシュパルは幻覚のセレナであっても暴力的になる事は一切なかった。けれど今、アリストラ軍の目の前に立ち塞がる彼女を避けて攻撃する事はどうやっても出来ない。
セレナ。すまない。
この一撃だけ、幻覚に向ける事をカシュパルは己に許してしまった。
剣を掲げる。そして振り下ろす。
その瞬間、必死なベンヤミンの声が真横から聞こえ、彼が不敬にも体を掴み止めようとした。
「陛下‼ 駄目ですッ‼‼」
駄目? 一体、何が。
ベンヤミンの行動の理解が出来ない。カシュパルの魔術は既に剣を離れ、アリストラ軍へと向かって行っている。
飛んだ魔力の斬撃がセレナに当たる瞬間、彼女は手の中の何かを掲げた。
魔水晶だった。込められていた守護魔術が展開され、彼女の前に大きな盾を作り出す。
巨大なその盾にカシュパルの魔術が到達すると、カシュパルの魔術が真横に割れた。
地鳴りのような轟音を立てて大地を直線状に剥がし、土煙を濛々と上げるその様子は直撃していればどれだけの被害だったかを想像させてアリストラ軍の面々を蒼白にさせる。
化け物、怪物。災害の様な魔物相手に打ち勝って来た男が、それらよりも劣る筈がなかった。
自分達が相手にしていたのがどれだけの存在なのかに、漸く気付いたのだった。
けれどもカシュパルは、彼らの事を気に掛けるどころではなかった。背後の有鱗守護団さえも脳内から消えてしまった。
何故ならば目の前の幻覚である筈のセレナが、カシュパルの贈った魔水晶を使うなどという想像を超える行動をしたのだから。
セレナは役割を終えて粉々に砕けた魔水晶の欠片を手から払うと、攻撃をして来たカシュパルに困った表情を向ける。
恨む様子はなく、けれど力強くカシュパルに相対していた。
「……セレナ……?」
呆然と呟く。信じられず、けれども恐ろしい事実がカシュパルを逃さない。
ベンヤミンが止めようとした理由。魔水晶の引き起こした現象。自分の脳内だけで完結していればあり得ない。
ならば、ならば、目の前の彼女は。
「そうだよ、カシュパル。私だ」
セレナは口の端を上げて、鮮烈な程に艶やかに笑った。




