第六十九話 掌の上
ヨナーシュ国の兵士達が緊張した面持ちでそれぞれの配置に付いている。擦れる金属の音はやかましく、馬の嘶きや魔術道具の数々が空間を非日常へと変えていた。
カシュパルの到着が数日前に知らされると、大きな戦争の前に若干の怯えが漂っていた皆の空気は一変した。
居るだけで皆の心を支え、数々の実績に裏打ちされたカシュパルの言葉には神託のような絶大な信頼があった。
彼以上に王という地位に相応しい男はいなかった。影響力は計り知れず、人々は自然と膝を折って彼を仰ぎ見る。
人は己よりも優れた者に出会った時、多少の差であれば追いつこうと努力するだろうが、途方もなく遠い差であれば考える事さえ放棄するだろう。
あの人の言う事ならば間違いない。あの人に付いてさえ行けばいい。
そんな盲目的な生き方は実に楽であり、また一種の本能でもあった。今や殆ど全ての獣人達がカシュパルに対してそのような状態である。
常人であれば潰される程の重苦しい信仰。けれどカシュパルにとっては良く手に馴染んだ道具の一つに過ぎなかった。
「陛下」
本営の中にいるカシュパルに嬉しそうに駆け寄って来たのは、ラウロだった。この男は、自分が最初にカシュパルを見出した事を誇りに思っているらしい。
カシュパルはラウロが嫌いだったが、立場上顔には全く出さない。全ての臣下がカシュパルの手駒なのだから、好意を持ってくれる扱いやすい者を遠ざける理由はなかった。
「士気はどうだ」
「はっ。問題ありません。皆、陛下の考えを知りこの戦いの重要性をよく理解してます」
今や立場は昔と変わり、ラウロはカシュパルに敬語以外を許されない。その事に不満を見せる様子が全くないのは、カシュパルが王として上手くやれている事の証左だった。
「そうか。報告ご苦労。持ち場に戻れ」
去って行くラウロを見送りながら、全てが計画通りにいっている事を実感する。
人間に躊躇なく剣を向けられるようにする為に、不和の種を幾つも撒いた。そこに仕上げとして大義名分を与えてやり、十分な敵対意識を作り上げたのである。
これならばカシュパルの剣として、よく働いてくれるだろう。
敵兵の様子を観察しようと、カシュパルは用意されていた物見台へと上る。
風を顔に感じながら目を細めれば、戦場は平地の為に見晴らしがよく、アリストラ軍の様子が一望出来た。
西に大きな川、東に森がある。地形と気候、目の前の両軍の様子からあらゆる可能性を想定する。
普通であれば川を背にして、森方向からの奇襲を心配するだろう。実際、その通りに森方向の兵を厚くしていた。
いくつかの戦術の試行を脳内で行っていると、隣に立っていたベンヤミンが眉間に皺を寄せながら小さく忠言した。
「陛下。……その顔は隠された方が良いかと」
不思議に思い、口元に手を当てる。そこには、酷く歪んだ笑みを浮かべる自分の顔があった。
カシュパルの前にはこれからの運命など知りもしない人間達が哀れに並んでいる。獣人達も無傷では済まないだろう。
赤い血が大地を染めるに違いない。絶望の悲鳴が響くまで、もう幾ばくもない。
カシュパルはそれを、心待ちにしていた。これは復讐の一端であり、盛大な憂さ晴らしの様な物だった。その愉悦が脳髄を甘く浸す。
セレナを殺した者の血縁者であるならば、ヴィルヘルムスはカシュパルの手で惨く死ななければならなかった。
更には数多居るアリストラ軍の中には、実行犯の関係者も紛れているかもしれない。
こじつけの様な妄想だったが、これから齎す多くの死の中にそのような者達が含まれている可能性を思うとそれだけで気分が高揚した。
或いは、理由など不要だった。
人間も獣人も等しく憎み合い、傷つけ合い、苦しめばいい。
何故ならばカシュパルは世界を憎んでいる。彼女以外は何も必要としていなかったカシュパルから、そのたった一つを奪ったのだから。
この衝動のままに振舞える機会など、今回を逃せば当面やってこないだろう。
紫の目を一度うっとりと細めると、ベンヤミンの忠告通りに表情を掻き消した。
「そうだな……気を付けよう」
ベンヤミンの不器用な真面目さをカシュパルは理解していた。何に気がついても、言いふらすような事は出来ない男である。
踵を返し本営の中に戻ると、用意された自分の椅子に腰を下ろす。
軍幹部達との情報の交換が始まろうとしたその時、伝令兵がカシュパルの前に飛び込んで来た。
「陛下、霧が……霧が発生しています!」
戦場となるこの場所の天候は事前に十分に調査されていた。霧など、早朝でもないこの時間帯に生じる筈がなかった。ならばヴィルヘルムスの仕業に違いない。
「霧だと……!?」
軍人の一人が焦った様に立ち上がり、アリストラ軍の見える場所まで走っていく。その目には、確かにアリストラ軍を隠すような濃霧が発生していた。
人力では到底作れない規模の霧の範囲である。正に神の力だった。風にうねり形を変えながらも同じ場所に留まる不自然さが、獣人達の目には不気味で恐ろしく映る。
その心理的圧迫以上に、知将達を動揺させる理由があった。
「これでは、敵陣形がまるで分らんではないか……!」
敵の陣形が分からないという事は、戦術家にとって絶望的な状況である。奇襲も強襲も相手の意のままなのだから。
顔色を悪くしてその軍人はカシュパルの方を振り返った。
けれど王は全く動揺する素振りがなかった。寧ろ薄く微笑んでさえいる。
カシュパルにとっては一度目にした事のある能力であり、想定の範囲内でしかなかった。動じないその様子に広がっていた動揺が収まり、皆は口を噤んでカシュパルの言葉を待つ。
ヴィルヘルムス。……成程、随分とやり易くしてくれる。
カシュパルには言われずともこの霧の意味が分かった。
誘われている。早く、この首を取りに来いと。
全てはカシュパルと、ヴィルヘルムスの手の内でしかなかった。人間も獣人も、二人の間で翻弄されるだけの道化だった。
「全軍は足音を立てず後退させろ。視界が悪いのは相手も同じ。誘い込め。目標地点に到達した時点で、川での作戦を決行せよ。そして」
カシュパルは立ち上がり、自らの腰の剣に手を置いた。
「有鱗守護団は俺と共に奇襲をかける。……ついて来い」
「はっ!」
全員の揃った声が陣営に響き渡った。動き出したカシュパルの後に有鱗守護団の面々が付き従う。
戦争が遂に始まった。セレナは、カシュパルを止める事など出来なかったのだ。
馬は蹄の音が五月蠅いのであえて乗らない。それでも竜人だけで構成された有鱗守護団は、凄まじい速度で進軍した。
よく訓練されたこの一団が移動する様は、まるで巨大な生き物の様である。カシュパルは先頭に立って森の中を駆け抜けた。
障害物だらけの森の中も、彼等にとっては平地と変わらない。
カシュパルは濃霧の中でありながら、その卓越した地形把握能力から迷わず進んでいく。駆けながら脳内でそれぞれの陣営の移動速度を計算し、正確な目標到達地点を割り出した。
王の足取りに他の竜人達は疑いもせず付いて行く。彼等は既に、幾度もカシュパルの能力を目撃していた。
森からの奇襲に当然アリストラ軍は備えているだろう。けれどそれに何の意味がある。森の中を駆ける竜人に、人間が多少寄り集まった所で勝てる筈がない。
ましてや濃霧の中、目をくらまされているのは人間も同じなのだ。いや寧ろ、人間の方が視界の悪さに怯みやすいとさえ言えるだろう。
アリストラ軍は霧によって自らの足に枷を嵌めたのも同然だった。
人間達は竜人という生き物の事を良く知らなかった。
そしてカシュパルは、人間という生き物の事を良く知っていた。




