第六十八話 縋る愚かさ
外も暗い未明、カシュパルはそっと瞼を開き腕の中にいるセレナを見た。
彼女は穏やかな寝息を立てたままで、まだ夢の中にいる。その表情が穏やかそうで、安堵に微かに息を漏らす。
本来カシュパルは不眠症を患っている。けれどセレナの温もりだけが、カシュパルを穏やかな眠りに導いてくれた。
枕には艶やかになったセレナの髪が散らばり、体中にある古傷は少しずつ癒えて薄くなってきていた。
一本の髪さえ金の山よりも貴重だ。セレナが消えてしまった時、カシュパルに残された物は本当に少なかった。
静かに繰り返される吐息さえ可愛らしく、いつまでも耳を傾けていたい程である。
愛おしさに目を細め、衝動のままに口づけしてしまいたい気持ちをぐっと堪える。代わりに月明かりに照らされるその顔を目に焼き付けた。
この世で最も美しい人である。いや一度死んだのだから、あの世も含めていいのかもしれない。
現実の彼女が自分の作り上げた宮殿の中にいる事が、得も言えぬ満足感をカシュパルに齎した。
もっと早く、こうすれば良かった。
セレナに告白された時。その前の、祭りで再会した時。いや更に遡った、セレナが自分から離れようとしたあの時に。
少し不便を強いてしまい、セレナに怖れられるか嫌がられたとしても、閉じ込めて守らなければならなかったのだ。
何故ならば世界は冷たく容赦なくカシュパルを地獄に落とす。幼い頃散々味わった筈のそれを忘れてしまっていたのは、余りにも運命に対して楽観的だったセレナが傍に居たからだろう。
もう二度と、そんな愚かな過ちは繰り返さない。高い壁に囲まれたこの宮殿で何者の目からも隠し、心を痛める様な情報も聞かせず全てから守ろう。
この優しすぎる人が生きるには、外は不幸で満ちているから。
だからその為に、今ばかりはどうしてもやり遂げなければならない事があった。
セレナを起こさないようにゆっくりと身を起こした。離れていく肌の柔さを惜しみつつ、そっとベッドから立ち上がる。
上手く出られた事に少し安堵して、静かに音を立てず寝室から出て行った。
彼女の居る空間を出た瞬間から、カシュパルの心は急速に冷えていく。眩い日の光の中でさえ夜闇の様に灰色で、陽気の中でさえ凍える様な寒さだった。
対象相手の居ない怒りや煩わしさ。そして、目を放したこの僅かな間でさえも彼女が消えてしまっているのではないかという不安。
そんな混沌が胸の中に渦巻き声のない声を上げるが、表に出さずに淡々と身支度を終えていく。
この混沌が消える事が生涯ない事を、カシュパルはよく知っていた。
足を踏み出した。これからカシュパルは、セレナが泣いて縋り止めようとした戦場へと向かうのだ。
戻って来る頃には全てが終わっているだろう。あえて出発は知らせない。言えばセレナは再び泣くだろうし、自分が止まる事はないからだった。
セレナは笑わなくなった。憂鬱な顔を張り付けて、時折脈絡もなく涙を流す。それが既に散々に壊れたカシュパルの心を更に締め上げたが、今戦争に向かおうとしている状況ではいくら言葉で慰めても上滑りするだけである。
だから誓いを果たし終え、セレナがどうしようもなくなった時にこそ彼女を慰めようと密かに決意していた。卑劣だが、そうするしか方法はない。
廊下を歩く内に、護衛や侍従等のカシュパルの後に続く者達の足音が増えていく。けれどその中に一人、足音のしない人影がいつの間にか隣に並んでいた。
セレナだった。それもカシュパルがサラマンダー退治で離れた時と同じ格好である。彼女は子供に言い聞かせるように少し笑いながら口を開いた。
『分かっているだろう、カシュパル。死者は生き返らない。偽物を何時まで可愛がるつもりだ』
カシュパルは答えない。土塗れになりながらセレナの亡骸を探し続けていたあの時からずっと、カシュパルはこの幻覚を見続けている。
以前の幻覚は寂しい気持ちを慰めるだけの役割だったが、時を経る内に少しずつ変容していた。
『私は死んだんだ。死んで、まだ冷たい地面の下にいるまま。……どうしてだろう。ただ、誰かを助けたかっただけなのに』
その声にカシュパルは答えず無視を続ける。答えてしまえば、他人にどう見えるか分かっている。
カシュパルは皆を心酔させる王でなければならなかった。幻覚を見ている事を誰にも悟らせてはならない。
セレナの顔が歪む。泣きながら、絶望した表情でカシュパルに訴えた。
『カシュパル。私を殺したこんな世界、全部壊してくれ』
幻覚だと分かっていても、セレナはセレナである。心が軋む。
ああ叶えてやると、言ってしまいそうになる自分がいた。
本当のセレナが言う筈のない言葉。ならば言わせているのは誰か。カシュパル自身だ。
カシュパルは世界の全てを憎んでいた。
自分からセレナを奪っていった運命を呪い、彼女に重荷を背負わせた柵を嫌い、彼女を肉体的にも精神的にも傷だらけにした自分を取り巻くセレナ以外の全てが憎かった。
世界を救えるのが俺だけだと?
その話の可笑しさを、カシュパルはよく分かっていた。ヴィルヘルムスが見える未来は精々、百年後程度の事なのだろう。
確かにカシュパルはセレナが生きている間、彼女の善性に合わせて『それなり』の統治を行うつもりだ。
逃れられないアリストラ国との戦争で心を傷つけてしまった謝罪も込めて、彼女に笑顔が戻るように尽くす。
けれどユピテルの霊薬で寿命を延ばした彼女よりも更に、カシュパルは生きてしまうに違いなかった。純血の竜人にも劣らない魔力や身体能力。寿命だけが極端に短くなる事もないだろう。
百年か、或いは二百年かの生じるセレナ不在の時間。カシュパルはその時、自分の内側にある怒りと破壊衝動を止めるつもりはなかった。
ヴィルヘルムスの救済計画は既に破綻しているのだ。しかしどうだっていいだろう。
彼女なき世界に、価値などないのだから。
幻覚のセレナの手がカシュパルの腕を掴もうとする。けれど本当に触れ合う事は勿論出来ない。
腕を振り払ってしまえば幻覚が消えていく気がしたが、カシュパルは誰も見ていない時でさえそんな事をした事がなかった。
それをすれば、いつか本物のセレナに気がつかず傷つけてしまうに違いなかった。それ程に、幻覚のセレナは本物と酷似している。
『愛している。お前さえいれば、他には何もいらない』
幻覚の言動には脈絡がない。悲愴な顔で泣いていたかと思えば、次には楽しそうに笑っていたりする。その不安定さは正に、カシュパルの心そのものだった。
この幻覚通りにこれから引き起こす惨劇を笑ってくれやしないだろうが、カシュパルにはセレナに許される自信がある。
何故ならばセレナはカシュパルを殺さなかった。アリストラ国よりも、カシュパルへの愛を選んだ。
だから時間はかかるだろうが、いつかきっと穏やかに笑いかけてくれる日が来るだろう。
鎧を身に纏い、馬に跨れば流石に不自然過ぎたのかセレナの幻覚は消えた。
高い壁の向こう側にある宮殿の屋根が見えた。その中で今も穏やかに眠っている筈の本物のセレナの事を思う。
彼女は過去を遡ったのだと言った。語られる事情の辻褄と、彼女自身の不自然な年の取り方から真実味を帯びている。
ならばこれから行う事はただ彼女を悲しませるだけの惨劇なのかもしれない。
けれども自分の姿さえ見えない絶望という暗闇の中、本物の獣になりかけたカシュパルを支えたのは、ヴィルヘルムスの齎した微かな光だけだったのである。
カシュパルの中で一度セレナは確かに死んだ。死という不可逆的なものに攫われて、影も形も見失ってしまったのだ。
その時の底なしの絶望が今も続いている。セレナと会話をし、温もりを分け合っても未だ彼女の生にカシュパルは確証を持つ事が出来ない。
ふとした瞬間に夢が覚め、あの森の中で土塗れで一人途方に暮れる現実に引き戻されるような気がしてならなかった。
セレナを抱きしめて両腕に囲っている時でさえ、蘇りというあり得ない現象を引き起こした彼女を、死が再び蝋燭の炎を吹き消す様に亡骸に戻してしまうかもしれない恐怖が常にある。
それらの想像は絶え間なく苛むので、カシュパルは心が安らぐ時がなかった。
僅かでもセレナを失う可能性を潰す為には、誓い通りに行動するしかない。
全ては順調に進んでいる。獣人の誰をも心酔させる完璧な王を演じていた。
王になる事は、カシュパルでさえも簡単な道のりではなかった。それでもやり遂げた。
不自然なく両国の戦争にも導いた。後は本当に、これだけなのである。
終われば暫くの間獣人と人間の存続は許されるだろう。セレナがカシュパルの前で再び呼吸を止めるまで。
「……すまない」
本物のセレナへの謝罪だけは微かに呟いて、カシュパルは馬の綱を引いた。従順な馬は一度鼻を鳴らし、歩き出す。
周囲を近衛兵達に囲まれて、カシュパルは静かに戦地へと旅立って行った。




