第六十七話 竜に捧げる
誰かに囁かれた、温かな言葉を覚えている。
『どうかお前が、人の愛を知る子に育ちますように』
その時は意味など分からなかったが、祝福と祈りの込められたものである事は本能的に悟った。
まだ視界も見えなくて、どうにか傍に居てくれる誰かに嬉しさを伝えようと指先を握りしめる。
母に抱き上げられた。両腕が安心感を与えてくれて、何の心配もなく微睡みに落ちて行く。
王族の血を受け継いでいながら、ヴィルヘルムスは驚く程平凡な優しさに包まれて誕生した。
人間ではない半分の血が、恐るべき速さで彼の頭脳を成長させていく。夢の中では血によって受け継がれる過去を見て、目覚めれば現実と同時に未来を垣間見た。
優しい母と、母が頼る彼女と、静かに守る彼。三人の気配を感じながら過ごした平穏な時間は、決して長くはなかった。それが如何に貴重だったのかを知ったのは、雪が解けて直ぐ後の事だ。
彼女も彼も去って行ってしまい、母とも引き離されて。幾ら泣いても三人は戻る事はなかった。
王宮では皆が丁重に世話をしてくれたが、母や彼女の様な温かさはなかった。当然である。人間にとって、王族は同じ生き物ではない。
失われた温もりが恋しくて、目を凝らして未来を見つめた。そうすれば、成長した先で温かく自分を迎え入れてくれる母を見る事が出来たから。
母が語るのは決まって自分が生まれた一冬の温かすぎる思い出の事だった。その未来の情景を胸に刻むように、何度も何度も繰り返し見る。
セレナという人を語る時、母はいつも笑顔だった。不便な生活の現状を忘れたように、心は自由であるのが見て分かる。
そしてそんな義理の姉妹を支えていた、カシュパルという男。村に似合わない容姿と能力を持ち、獣人との混血児でありながら傍から見ても分かる程の深い愛をセレナに捧げていた。
一体、彼等は何者だったのか。
その答えの一端は、庭の建物の中に隠されていた。幼く大きな頭のせいで転びそうになりながら、辿り着いた先にあった美しく佇む七体の彫刻。
その内の一人、過去を渡るヘレイスに母の語るセレナの面影を悟る。もしも不思議な彼女が過去を渡って来た人だとしたら、更に未来を覗けば彼女本人を見る事が出来るのかもしれない。
幼いヴィルヘルムスは唯々家族のような温もりが欲しくて、また物語の英雄を見に行くような憧れの気持ちで未来を探った。
純血の王族ではないヴィルヘルムスは、未来の能力を完璧に操作する事は出来なかった。酷く疲れてしまって長時間見続けられなかったし、望む時間軸を見られる事の方が少ない。
それでも先を探した。だってこの王宮には家族はいないのだから。
同胞の王族達はいた。けれど血によって受け継いだ過去の記憶と、未来ばかりその目に映し、現実のヴィルヘルムスを見てくれやしない。
ヴィルヘルムス自身も受け継いだ過去の記憶を見た。それらは非力で無力な人間達を可愛らしいと思う感情と共に付いてくる。
それに浸りきらず、自分の感情ではないように思えるのは間違いなく母親の血の影響に違いなかった。
ヴィルヘルムスは周囲から王族としか見られていなくても、自分が半分である事を良く自覚していた。
人間にもなれず、王族として不完全な自分。だから求めた。自分自身を見てくれる誰かを。
先を、更に先を。
世話をする人間達は、部屋で一人何もない空間に目を凝らすヴィルヘルムスに疑問も抱かない。王族とはそういう存在である。尊く、人間とは違う、都合のいい信仰対象だった。
漸く未来視の中でセレナを見つけた。けれど森の中で血に塗れて倒れ伏していて、今にも命を落とそうとしている。
全身の血の気が下がった。けれどその未来視は数秒の内に終わってしまって思わず不満の声が出る。
あの人は助かったのか、続きが気になって仕方ない。
先を、更に先を、もっと先を。
未来が見えた。力が不安定な事による、意図しない更に遠い先の未来。
そこは鬱蒼とした樹海で、年月を経て廃墟となった建物が見える。大きな四つ足の魔物が我が物顔で歩き、視界を横切った。縄張りなのかもしれない。
崩れ落ちた建物の壁から見覚えのある七体の神族の彫刻が見えた。それらは苔と蔦に覆われている。
最初、その光景が意味する事が分からなかった。
けれど幾度か同じような先を見て、漸く気がつく。それに気がついた瞬間、ヴィルヘルムスは金切り声を上げて絶叫した。
◆◆
「ヴィルヘルムス様」
呼びかける声に閉じていた目を開くと、椅子に座る自分の傍にカルペラ公爵が鎧を身に纏って立っていた。
騒がしい人々の喧騒が聞こえる。今、ヴィルヘルムスは既に戦地の本営に居た。
もう開戦まで幾ばくの猶予もなく、開けた草原の向こう側には獣人達の陣営が見える。両陣営の側面には大きな川と、鬱蒼とした森が存在した。
後はどちらかが決断した瞬間、血が流れだすのだろう。
「大丈夫ですか?」
「ええ。……問題はありません」
カルペラ公爵の問いに答えれば、彼はほっとした表情で頭を下げた。
獣人達からは一番遠い場所にいるが、見晴らしの良い場所の為随分と近くに感じてしまう。
けれども兵士の数は明らかにアリストラ国の方が多い為、初めての獣人との戦いにも関わらず人間達には精神的な余裕があった。
ヴィルヘルムスは知っている。そんな多少の兵力の差など、バルターク・カシュパル王の前には何の意味も成さない事を。
ヴィルヘルムスが未来を見ようとする時、遠くの未来であればある程見えづらくなっていく。そんな制約の中でヴィルヘルムスが漸く手に出来たのは断片的な百年後の未来だった。
僅か数分にしか満たない光景の欠片達をかき集めて、未来への道筋を選択し、最善を探した。
数多の絶望的な光景の中で唯一希望が見えたのは、この戦場の何処かにいるだろうカシュパルが王になった未来だけだった。
人間と獣人の血を引き、他に類を見ない程明晰であり、恐ろしく合理的で、魔物の討伐に長けた男。
他の者では駄目なのだ。獣人の王が他の誰かになっても戦争は長引き、人間の統治は不完全に終わる。そして全てが魔物に飲み込まれていく。
未来を救えるのは彼しかいなかった。カシュパルこそ、生まれながらの覇王である。
気がつくと自分の白い手が微かに震えていた。これから起きる事を知っている。自分がそう仕向けたのだから。
これが最後の、自分の役割だった。
誰かに見られる前に手を強く握り、震えを消す。
セレナの殺害を命じた当人である祖父は寿命で亡くなっていた。きっとカシュパルはその恨みの分までヴィルヘルムスに向ける筈だ。
憧れた人がいた。強く、優しく、自分を顧みず、誰かを救おうと常に全力である女騎士。彼女と全く同じようには出来なくとも、救う事を諦める事はしない。
もしもセレナという人を知らなければ、自分は何もせずに滅びを待つだけだっただろう。
垣間見た未来の最善の選択肢がこれだった。
周囲を見渡せば、自分に従う人間達の高揚した表情が見える。王族の自分の為に何でもする者達。
そんな彼等を有難く思う一方、突き崩せない壁があった。ヴィルヘルムスでは、彼らの友人や家族にはなれない。
彼等と選び抜いた兵士達。この戦場に出ている人間の全てが、ヴィルヘルムスが未来の為に用意した崇高な犠牲となる者達である。
何も知らず、首を斬られようとしている哀れな羊。
哀れさと申し訳なさに暫し目を瞑り、けれど感傷を振り払って立ち上がった。
「皆、配置に着きましたか?」
「はい。滞りなく」
カルペラ公爵が意気揚々と答える。自軍が負けるなど想像もしていない。ヴィルヘルムスという王族がいるのだから、その慢心も仕方のない事だった。
今こそ憎き獣人達に恨みを晴らそうとしていた。
カルペラ公爵はヴィルヘルムスの忠実な臣下である。けれど深く獣人を恨んでいる為に、根強い抵抗をして獣人による統治の邪魔をする。
だから此処で共に死んでもらうしかなかった。
全てを隠し、兵士達の前に立った。手を伸ばす。先にある獣人達へ向けて。
「では……始めましょう」
軍勢が鬨の声を上げる。海原の波の音の様なそれらが草原中に響き渡り、地面を揺らした。
ヴィルヘルムスは穏やかに笑い、彼等に勝利を確信させながら能力を行使する。
不自然に現れた濃霧が全てを覆っていく。アリストラ国の兵士達はその霧が自分達を隠し、獣人達を攪乱すると信じて疑わない。
けれどこの霧が晴れた時こそ、彼等は絶望を知るだろう。
竜は既に口を大きく開け、腹を空かせて生贄達を待ち構えていた。




