第六十六話 分岐点
長いカシュパルの話を終えて、私は明かされた真実に言葉を失った。
何という事だろう。カシュパルがいなくても人に未来などなかったのだ。
私がカシュパルを殺していたら、ヴィルヘルムスを殺していたら、結局全て遠からず同じ道筋に至っていたのだという。
呆然としたままの私に、カシュパルは言葉を続けた。
「ヴィルヘルムスはセレナに自分を憎ませようとしていた。そうすれば、喪失にも耐えられるだろうと」
カシュパルの声が少し晴れやかなのは、隠し事がなくなったからだろう。ヴィルヘルムスに口留めされていたようだった。
私以外の何者にも興味がないカシュパルは、淡々とヴィルヘルムスの死を語る。そして諦めさせようと、とても優しい口調で言葉を続けた。
「仕方のない事もある。未来の為に必要な犠牲だ。ヴィルヘルムスとの誓いが果たされた後に、セレナが望む通りの国を作ろう。そうなればもう、憂いもなくなるだろう。救済の足音は其処まで聞こえている」
過去、アリストラ国はカシュパルによって滅ぼされた。しかしヴィルヘルムスの言う未来が真実ならば、獣人の栄華もそう長くはなかった。
ならば私はヴィルヘルムスとカシュパルを殺さなかった事で、人間と獣人両者の未来の可能性を作り上げた事になる。
遠回りをした様で、実は唯一の明るい未来への道筋を手に入れたのだ。
カシュパルは清々しく私に言った。
「だからセレナ、笑え」
カシュパルは魔物狩人としての深い知識を生かし、これから迫る魔物達の問題も、人間と獣人の統治もやってのけるに違いない。
私が傍に居れば、人道的な善政を敷いてくれるかもしれない。
世界は救われる。問題は何もない。私は最良の結果を近い将来、手にするだろう。
カシュパルは言葉通りになると疑わない笑みで、再び同じ言葉を言った。
「笑え」
促される。けれど私の顔は強張ったまま、動こうとしない。
次第に彼の笑みが消えていくのが間近で見えたが、それでも笑う事は出来なかった。
だってお前はその為に殺すだろう。ヴィルヘルムスを。エリーの子供を。そして彼が選んだ人間の生贄を。
人間の反発を抑える為に、圧倒するような残酷さで。
私は唇を噛み締めて、人の命を何とも思わないこの男に掠れた声で言った。
「……これで笑えるような人間だったら、私は当の昔にお前を殺していたよ」
『未来の為』、『必要な犠牲』、私はそんな言葉で誰かを諦められる人間ではなかった。他でもないカシュパルとの出会いがそれを決定的なものにした。
全てを合理的に切り捨てるカシュパルとは真逆の性格で、それでも共に居られたのは彼が今まで私に合わせてくれていたからに他ならない。
カシュパルは何かを堪える様に眉間に皺を寄せる。私が説得されない事に気がついたからかもしれない。
エリー。あの子が悲愴な覚悟をして、多くの死を招こうとしている。
私を友人と呼び、家族として求め、王宮で一人寂しそうにしていたあの子が。
妹の懐かしい顔が鮮明に脳裏に蘇る。
『可愛い。世界で一番可愛いわ』
そして指先を掴んだ、小さな可愛らしい白い手。あの時から忘れた事などなかった。
過去のヴィルヘルムスが同胞だけを救って死んだのに対し、今の彼は世界を救おうとしていた。何が彼を変えた。それは間違いなく、私の影響に他ならなかった。
ヴィルヘルムスは人の為に死のうとしていた。戦争というあまりにも受け入れがたい方法で。
「殺さないでくれ。カシュパル」
カシュパルは答えなかった。代わりにいつの間にか浮かんでいた私の涙を、その唇で吸い取った。
「共に考えてくれ。ヴィルヘルムスを生かす方法を。二人の王が力を合わせれば、きっと別の方法だって導けるから」
自分で言いながら、慰めではなく本気で実現出来るような気がした。
ヴィルヘルムスは人間にとっての信仰の対象である。そしてカシュパルは天才的な獣人の王だ。
二人が力を合わせれば、犠牲なんてなくても未来を救えるに違いない。
しかしカシュパルはゆっくりと首を横に振った。
「救済も犠牲も、俺にとって意味はない。重要なのはヴィルヘルムスは貴女が戻ると言い、実際にその通りになった事だ」
そして頬を撫で、慰めながらも妥協のない明瞭な答えを返した。
「二十八年前、消えてしまった貴女が今俺の前に居る奇跡。それを守る為ならば俺は誓いを何としてでも遂行する」
カシュパルの目には悲しいぐらいに私しか映っていなかった。心の中からその他全てを締め出してしまっている。
「エリーの子供だ」
あの時共に、エリーを守ったじゃないか。
国一つ敵に回しても。誰からも褒められなくても。手にするものが余りにささやかであっても。
カシュパルは私が守ろうとするものを共に守ろうとしてくれた。同じ方向を見ていた筈だった。
思い出してほしくて叫んだが、カシュパルには届かなかった。
「覆したければ竜でも連れて来い。出来ないならばもう少しだけ、目を瞑っていろ」
カシュパルはそれを覇者の笑みで、意志の宿る目で、愛でてくる手で、一切変えるつもりがないのだと私に分からせようとする。
カシュパルは私の言葉から耳を塞ぎ、嫌がる私を見ない様に目を閉じて、私とは正反対の道を邁進していた。歩けば歩く程二人は離れて行くというのに、気がついていないようだった。
子供が大事な物を指が白くなる程力を込めて握り絞めるかの如く、カシュパルはヴィルヘルムスとの約束を頑なに守ろうとしている。
私の死はカシュパルにとって魂を震撼させる出来事で、その事件が起きる前と後では明らかに彼は変わってしまった。
最早、この場でどれだけ言葉を尽くしてもカシュパルを折れさせる事は不可能だった。口を閉ざした私にカシュパルはあやす様に唇を寄せる。
「全てが俺の手に入ったその後で、埋め合わせは気が済むまで付き合おう」
この世の果てまでカシュパルの威光が広まり渡り、思い通りにならないものが根絶されるまでカシュパルは止まらないに違いない。
けれどまるで他愛ない我儘であるかのように、カシュパルは言った。
◆◆
カシュパルはそれから暫く傍にいてくれたが、忙しい合間を縫って来ていたのだろう。呆然とする私を気遣いながらも、また政務に戻って行ってしまった。
私は大きな衝撃でふらつきながら、夢遊病者の様に部屋の外に出た。廊下を渡り美しい庭に足を踏み出して、靴が片側脱げた事さえ気にせず草の上を歩く。
なだらかな丘の上に辿り着くと、力が抜けたように座り込んだ。
カシュパルは救済者だった。
「は……」
笑おうとして、それでも笑えなかった。
此処に居るだけで、カシュパルは世界を救ってくれるという。私が生かしたあの貧相な孤児は、今や唯一の人の未来を紡ぐ者だ。
ヴィルヘルムス。どうして私に何も言ってくれなかった。
全てを一人で抱えて、決めてしまった。彼がそう育てられて、そう望まれてきた事の悲しさが込み上げて唇を噛む。
目の前には完璧に作られた美しい光景が広がっていた。絵画の様に、人の意図が全てに介在している。
しかしだからこそ、酷く脆いものだとも分かっていた。
「ヴィルヘルムス……これは間違いだ」
カシュパルは確かに幾らかの時間、人と獣人の共存を図るかもしれない。私と共にある間、そう酷い事はしないだろう。
けれども私がいくらユピテルの霊薬を呑んだとしても、竜人の血を引くカシュパルを置いて逝く。
そうなったらその後は?
世界に私以外に価値がないと豪語するカシュパルが、この世界を守り続けると?
私は空しく首を横に振る。未来を見るヴィルヘルムスよりも確信をもって、いずれ来る未来を予言した。
その後は、カシュパルの怒りと悲しみが溢れるだけに違いない。
ヴィルヘルムスともう一度話さなければならなかった。彼が悪ではないのなら、私は彼の事を諦められない。
例え同じ腹から生まれていなくても、私とエリーが姉妹だと誓ったように。私はヴィルヘルムスも大事に思っている。
このままこの場所でヴィルヘルムスの死を待ち続けるなんて、耐えられない。生きている間に、何としてでももう一度言葉を交わさなければならなかった。
彼自身が諦めてしまった生存の可能性を、どうにかして手繰り寄せなければ。
どんなに危険な場所にも赴こう。万人が諦める絶望的な状況だったとしても、私だけは最後の最後まで諦めない。
それが、ヴィルヘルムスの望んだ家族というものではないか。
けれど決意の前に、私には大きな問題があった。今や私は自分だけの都合で動けない。
「……カシュパル」
傷ついて、擦り切れて、私だけを守ろうと必死なカシュパル。
今、カシュパルは私の生存を心から信じられていない。生きて、目の前で言葉を交わし、触れ合いさえしているのに。
喪失の絶望に浸り、怒りと恨みを抱き、消えそうな温もりに縋る毎日は随分と息苦しいに違いない。
カシュパルを想い、壊れた彼の為にこの場に残るか。死を呼び込もうとするヴィルヘルムスの元に行くか。
悩む、悩む、悩む。いつかもした、命を巡る激しい葛藤。
今此処が分岐点。私と、彼と、未来の。
カシュパルの悪夢を晴らさなければならない。しかし、どうやって。
「私は、」
何かを言いかけた。けれどそれは声になる前に分からなくなって、見失う。
「……私は」
消えそうになるそれを探す。視線を下に降ろせば、片足に残された長時間歩く事なんて考えていない華奢な靴が目に入る。それでもこの場所には不便を感じない生活があった。
不意に覚える強烈な違和感。
楽園に似た、偽りの平穏。カシュパルが腐心して作り上げた世界に、彼の望む通りに過ごす人形の様な自分。
それはまるで、カシュパルの夢の中の登場人物になったかのようだった。
私は一瞬見失った言葉の正体を、今度は逃がさなかった。
「カシュパル。私は……こんな人間じゃないだろう」
私は自分がどんな人間だったかをすっかり思い出した。私は全く、呆れる程の楽天的な夢想家だった。
僅かな希望があれば愚かな程捨てられず、無様な程前向きで。命を惜しんで躊躇した事など一度もなかった。
それが私だった。その生き方が、私そのものだった。
首にかけられていた華奢なネックレスを握り、力まかせに引っ張った。留め金がはじけ飛び、手の中で重力に従い垂れ下がる。
私の生き様でお前の目を覚まさせるよ。
命懸けだ。けれどその先にしか、カシュパルの悪夢を終わらせる方法はない気がした。何も懸けずに得た物など何もない。
愛してくれカシュパル。私と、私が愛するこの世界の何もかも。
私を愚かだと思うなら、共に愚かになってくれ。そうすればお前は孤独じゃないから。私が本当に消えてしまった後でさえ。
ヴィルヘルムスに会わなければ。
彼は自らも含めた生贄を捧げる事だけが、唯一の未来の救済だと考えている。あの王宮の中で誰にも頼ることなく決めたのだろう。
あの場所はそういう場所で、周りには沢山の人がいたが彼は孤独だった。
しかし、私は未来など変えられる事を知っている。私自身がこの手で変えてきたのだから。
ヴィルヘルムスと、カシュパル二人が力を合わせれば不可能な事など何もない。彼等を間近で見た私は、心からそう信じた。
ヴィルヘルムスを説得出来れば、彼が率いる人間達も、彼に惑わされるカシュパルも止められるだろう。それだけが、唯一の全員を救う手段である。その為にはこの宮殿を抜け出すしかない。
カシュパルを生かしたあの時と同じように、心のままに行動する事にした。
一度頬を強く叩いて気合を入れた。体の倦怠感さえ吹き飛ばして、決意したのならばやるべき事は山ほどあった。
私は場所の把握が常にされている。姿を隠したら探されるまで時間も空かない。協力者が絶対に必要である。
私は立ちあがり駆け足で自室に戻る。机の上に置かれた呼び鈴を勢いよく鳴らした。
テレーゼが直ぐに現れ、壊れたネックレスを見て一瞬驚いた表情をした。彼女の手の中にその残骸を渡し、言う。
「アリストラ国の雑貨が欲しい」
「……かしこまりました。手配いたします」
いつになく活動的な私を見てテレーゼは不思議そうな表情である。本心を隠して言葉を続けた。
「一緒に彼方の話を聞きたい。ずっとここに閉じ込められているから。足繁くアリストラ国に通っている商人を探してくれないか。出来ればキース地方の話も出来る者がいい」
テレーゼは頭を下げて、早速命令を遂行しようと部屋を出て行った。
アリストラ国の田舎まで足を延ばしている獣人の商人は多くないだろう。はじめから上手くはいかないだろうが、何人も当たっていけばいつかは確実に出会える筈だ。
ケペル。命を救った借り、此処で返してもらおう。
豪華な棚の引き出しを一つ開ければ、中身は似つかわしくない粗末な衣類が畳まれて入っていた。自分が此処に来る前に身に纏っていた衣類である。
その下に時渡りの腕輪が大事にしまわれていた。もう、これに過去を渡る力は残されていない。
けれどこうやって形が残っているという事は、まだ私に何か出来る力があるのだと言ってくれているような気がした。それを腕に着ければ、慣れ親しんだ感触からか気分が落ち着く。
それからこの前カシュパルに返してもらった、チャームを首につける。全く不格好になったが構わない。零れ落ちた自分自身が、一つ一つ戻って来る。
向かう先が戦地であっても、そこに可能性が残されているならば。
私は遥か遠くにいる筈のヴィルヘルムスを見通すかの様に、窓の外の宮殿と外を分ける聳え立つ壁を睨みつけた。




